混迷亭日乗 Editor's Diary

7月31日

28日。三宅接骨院、体軸調整、左肩上がりの癖、いったん今日にて終了。
午後2時半頃、「あたりはにわかにかきくもり」状態で豪雨。しかし、翌朝の新聞を見るまで、都賀川にて4名が溺死したことは知らなかった。あの小さな川が、と思うだろうが、だからこそ危険なのである。昨今の雨の降り方は、スコールの重層爆撃のようなものが多く、尋常ではないのだ。学童保育の皆さんの憔悴を憂う。
夜、常任会議。初心者体験型デュアスロンにて返事することに決定。

29日。夜遅く、東京から親子連れ来神。娘も、ようやく東京から帰神。
震災後の復興誌『神戸から』のスタッフで、現在、出身地の東京でイラストレーターをしているK子ちゃん(といっても、もう40歳!)が兄妹とともにやってきた。もちろん、大歓迎しているのは女房殿。年のはなれた妹のように可愛がっていたので、3人まとめて面倒見ようという感じ。とくに5歳のFちゃんには気に入られたようで8歳にして鉄道ファンのHくんとともに、短い神戸での夏休み、である。

31日。前回の検診から4か月経って、眼科医のI先生の紹介状を持って、川西のカトウ眼科へ。視力、眼圧、視野、視神経の検査。眼圧は19、本当は15、6が望ましいところ、視野はそれほど変わらず、初めて行った視神経損傷の検査では、やはり、ド近眼なのでもともと弱い、としかいいようがないらしい。
カトウ先生は指揮者の佐渡裕にも似た快男児。術後、点眼薬を服用していない、ことを知って、「この眼圧だとしたほうがいい。3か月分を渡すか、一度、点眼を再開して、眼圧の変化をみて、その後、薬の選定をするか、どうしますか?」と聞くので、まずは、眼圧の変化を見てからにする」と決め、11日に、再び診てもらうことにする。

堂島のジュンク堂にて、昔、私が在籍していた「プレイガイドジャーナル」のことがまとめられた本が出ていたことを聞いていたので、流し読む。私のXワイフも登場して語っていたが、それより前の時代が描かれていないので、これでは片手落ちだろう。まとめていたのが、80年代に入ってから廃刊するまでスタッフだった人なのだから、後期にかたよるのはやむをえないとしても、やはり創刊当時からの編集長2人が話していないのでは、どうにも腑に落ちない。

夜、川西市にて、オリンピック選手壮行会。主催は、地元の商工会など民間の方々。わが協会の支援金活動も200万円の大台にのったので、一安心。壇上にて、的場副会長から目録を手渡せてよかった。きっと、田山はいい成績を残してくれるような予感がする。
この夜、女房殿はプロ野球の「オールスターゲーム」の観戦。マツダからいただいたもので、めったにないことなので、出かけていった。ダルヴィッシュが見られた、といってご満悦。周りが阪神ファンのなかで、パシフィックを応援していたのだから、相当の度胸、ですな。リーグ戦でなくて、良かったですねえ。

7月27日

先週半ば、淡路市の大会中止に対する応答をめぐって、対応を迫られ、明日夜に緊急会議。

25日。心斎橋のテキパキにてカット。6月に亡くなったXワイフのYについて、菩提寺の名称を聞く。夕陽丘のY家の墓苑に眠っているのだと思う。この夏、墓前にて冥福を祈りたい。いつもどおり、メロディに立ち寄って、ちょっと話して、門戸厄神へ。
神戸女学院大学非常勤講師の集い。ビジネスコミュニケーションを担当する4名の講師と初対面。経営コンサルタント、医療・環境広報プランナー、日本お笑い学会の役員、そして私。リレー形式になるかどうかは別にして、講義の流れだけは読めたので、まずはめでたし。
それ例外では、中米の近現代史の若き研究者であるO講師、現代思想のN教授、ソプラノのS教授などとお話しできて、2時間の短いこと。
終了後、内田教授は、自宅にて早速マージャンへ。面子さがしに携帯が大活躍。

26日。まったく暑い。今年の酷暑である。ここまで暑いと、服を着ていようがいまいが、もう同じという感覚。スーツにネクタイだって、かまわない、という感じだ。
Tさんより預かっていた絵を引き渡すために勤労会館へ。帰ってきてから花園大学の学生たちの採点とコメントに入る。今年は50人前後なので、まる一日あればなんとかできる。

日曜日。画廊サーカス&サーカス、河瀬さんの個展。画廊に着いてバイクのビンディングを外そうとして足をひねった途端、「ベリッ」という音ともに、シューズの底板と上皮が分離する感じが、と思ったら、見事にはがれていた。そうだよな、もう10数年前のものだもんな、思わず合掌。ガムテープを画廊で借りて、なんとか六甲から自宅まで持ってくれるようにと、足を回す。途中、なじみのバイクショップ・ガレリア2001に立ち寄ったのだが、サイズ41は在庫なく、火曜日には入る、というので注文。
そういえばヘルメットだって、もう耐用期限こえているよな、と自戒。
ところで作品はといえば、「鯉」をモチーフにした作品で、何となくユーモラス、1000円からという値付けなので、あらためて出なおそう。

2時からの、神戸高校卒業40周年同窓会幹事会。内容に特段趣向を凝らさなければシャンシャンと進む手はず。そこで、ひょんなことから出世頭は誰? という話になって、某メガバンクの副頭取になっているIではないか、ということ。でも、話しながらも、皆「フーン」という感じなので、もう恬淡としているというか、初老の世界に入っているかのようで現役感覚がない、みたい。

夜、自宅にて姉・妹、甥夫婦と一緒に引っ越し祝いをかねて食事会。母の初盆への助走開始といったところ。


7月23日

16日。花園大学2回目の講義。編集の技法についてのレクチャー。編集という技法の汎用性を意識するのとしないのでは、ふだんの生活の段取りがずいぶん違うことに気付かせることだけでも、彼等にとっての収穫になるのだが。
猪名川町のオリンピック選手壮行会(トライアスロンの田山寛豪とバドミントンのシングルス廣瀬栄理子)に出るため、早めに京都を退出するも、阪急とバスの乗り継ぎでやはり2時間はかかってしまい、7時の開始には間に合わず。
多くの猪名川町民が応援にかけつけており、いやがおうにも北京に向けて盛り上がる。

17日。たまっていた申請関係書類を一気に片付け、体協に提出。ほっと一息。

18日。13日に疲れが今になって出てくるのか、午前中、少し横になる。暑さのせいだとは思わないが、全体的に睡眠不足?

20日。友人のFさんのバレエ発表会。半年前から予定していたので、ひわさうみがめ大会はパスさせていただいて、近江八幡、八日市に出かける。午前中、国民休暇村にで、水浴び。ここでひともんちゃく。女房殿の好きなピアスの片方がなくなったというので、木陰の緑草のなかを必死に探すも、見つからず、あきらめかけていたところ、それは女房殿の耳に鎮座ましましていた、という落ち。そこで一安心したものの、この騒ぎの中で、私の眼鏡(ケースにおさめていた外出用)を紛失する始末。あーあ、というため息の一騒動でありました。

Fさんの通うバレエスクールのレベルの高さを認識しながらの鑑賞。4時前にたい積して大阪の朝日放送へ。新築なった記念にひっかけた映画鑑賞会、大森一樹、井筒和幸といった旧知の監督作品にプラスして催洋一、坂本順治などの、「子ども」をキーワードにした短編オムニバス映画。短編故に、すとんと落としどころを決めないことには、しまりがないと思うのだが、そういう点で大森の作品が一等抜きん出ていたと、私の評価。井筒の作品では子どもの生態に笑わさせてもらいました。

21日。阪急六甲で常任理事会。自転車(ママチャリ)でとばして25分。汗をたっぷりかきました。
午後、永田収の写真個展へ、ギャラリーは山本通の民家。改修して、すてきな木造の家に変貌。オーナーの趣向にあわせて、作家たちが集うようになったという。
その後、女房殿がバーゲンで目をつけていたマーガレット・ハウエル(私の好きなデザイナー)のシャツを見にいき、一枚購入。プレゼントの先取りとなった。
そして夜は、福井からの大量の魚果を目当てにぽぴあ組のディナーパーティ。世間的には3連休の最後の日は更けていったのでありました。

22日。取引先に向けての暑中見舞い&引っ越し報告ハガキの作成。午後、女学院大学院前期最後の講義。その後、打ち上げ。18人の院生と聴講生、そして内田先生で、楽しく歓談、後期は、日本の表象、表徴についての考察、となる。私の出番は、たぶん、12月頃になるはず。


7月14日

また一週間が過ぎる。あまりにも早い。

火曜日。松竹座にて「七月歌舞伎」初見参。デザイナーのMくんからのプレゼントみたいなもの。女房殿は,自身も取材したことのある片岡仁左衛門、秀太郎、愛之助に加えて、尾上菊五郎や菊之助、もちろん重鎮の坂田藤十郎も出るという豪華版。舞い上がっていましたねえ。
学生の頃は、国立文楽劇場に通っていたという変わった女学生だったらしく、つれていくボーイフレンドのことごとくが二度といかない、という結果だったとか。その頃、知り合ってたら、俺だっていかねえ。
幕間の30分の間に、地下の店で、予約していたお豆腐膳なる昼食をいただけるのも、なんとも、粋な計らいで、まさしく非日常の世界に浸れる、というわけだ。こういう日だから、お店のオリジナル・地ビールを軽くいただいて、つかの間の浮き世離れ。
江戸期の女性たちが、一日物見遊山ならぬ、芝居小屋通いが楽しみだった、とうのも深くうなづけるような気がするな。
3階席でも5000円で見られるのなら、値打ちだと思う。

大学院も3週間欠席したので、ようやく顔を出す。
この春に義母様を亡くされたSさんも久しぶりの出席であった。なんでも彼女によれば、サッカーの欧州選手権をTV漬けで見ていたらしいのだが、日本で見るサッカーと違うと、すごく興奮口調で話してらした。別段、サッカーに詳しいわけでもない彼女をそうさせる魅力がフィールドに溢れていたのだろう。だとしたら、かかるオーラが不足していれば、どうしても振り向かせるまでにはいたらない、という結果を招いてしまう。
やはり、なんだか同じサッカーでも文化が違う、ことになるのだと直感。イビチャ・オシムの期間がもう少し長ければ、というないものねだりをしてしまう。

9日、国民金融公庫からリフォープに回ってM理事長と相談。地力2のカフェの運営をめぐる話。どういう関わりをするか、できるか、それが問題になる。第2事務所になるのか?
夜、ギルガメシュの例会。

10日〜11日。捨てるものをさらに選別。一室に入りきるように、ぜい肉をそぎ落とす。

息子が薫陶を受けているニューヨーク・ジュリアード音楽院の先生、大島文子さんのリサイタル、大阪ドルチェサロンにて。
小さなサロンの最前列できいるように聞く。プーランク、コープランド、メシアンと、息子も吹いているセンスのある楽曲がプログラムになって、現代音楽にも通ずる迫力とダイナミズムと繊細さを感じとれて、息子の楽曲選びのセンスの良さを我ながら評価してしまう。
帰りを急いでいたので、一言だけご挨拶をして退去。
友人のお孫さんが初めてお目家するというので、ポピア組のホームパーティ。うちの子どもたちだけが欠けてはいたが、ついに3世代に渡るホームパーティができることになった、というのも感慨深い。

12日、朝の仕事を終えて、舞洲へ。JTUの幹部3名が来阪。情報交換。和歌山以来のジャパンカップランキングイベントのため、フィニッシュゲート付近の設営がしっかりきれいにつくられる。夜、ユニバーサルスタジオ周辺の集客施設の居酒屋で懇親会。臨席での子連れファミリー族のふるまいにやや閉口。幼児の頃から外食の慣習がつけられてしまってはますます偏食傾向が強まるばかり。

大会は曇り空から晴れへ。今年最高気温を記録する中で、やはり熱中症状を出す者が学生中心に目立ち、20名もの救急対応に救護テントは大忙しとなった。
レースのペース配分を考えずにオーバーペースでせめるので、体がオーバーヒートして、水分の供給を受けつけなくなる。気付いたときはもう遅い、一挙に失速して意識朦朧に近い状態に陥ってしまう。
あらためて、学生に対する厳重注意喚起を起こす必要を痛感する。

夕方、帰宅。フィニッシュゲートでの選手の状態管理のため、露出部分の日焼けがすごくなっていて(当初はその予定ではなかったのだが、先述の状況でてんてこまいになったのである)痛い。日焼け止めを用意していなかったのはポカ。

娘、日本のワークショップから帰神。主催のグループの面々を引き連れてのご帰還。師匠のアミナタは16日にギニアへ帰国する。
なんでも、来月は、京都精華大学のアフリカン教授のフィールドワークの助手としてマリへ出かけるそうである。ま、仕事だからいいのではあるが、こうまで打ち続くと、アフリカにとられたような気分、になる。

7月7日

ようやく画面に向かえるようになった。備忘録。

25日から事務所引っ越しをはじめる。近いので、少しずつ運ぶのだが時間がかかる。
26日。関学での時間帯をのぞいて、事務所整理。
27日。電話移設工事。Mくんたちが来て大半の書籍を運び出す。中央の書架もKくんの協力で見事に解体できた。カヌーもリフォープの倉庫で一眠り。
28日。グリーンピア三木にて、大会関係の諸物品の確認をして、引き返し、事務所の整理。やはり膨大な資料の山に、大阪での水越さんのコンサート、断念する。
29日。朝4時半に起きてグリーンピア三木へ。
400名に届く参加者。昨年より増加。雨と濃霧模様だったので、バイクでの転倒者が24名と史上最多。
予定より遅くなったのだが、夕方から、Fさんに手伝ってもらって、机と書籍棚を搬入。
30日。コピーマシン移動。担当者が搬入時に玄関の網戸の枠をふんだため、枠が痛む。この日、ほとんどを搬出する予定が6割程度。

7月1日。Mくんに譲る机・椅子を残して、ほとんどを搬出。大家さんの確認を得る。この日、HTAの理事Kくんの長女のお通夜のため小野市へ。生まれたときに医療ミスであろう障害をもったため、享年11歳の短い人生であった。やさしい父さんぶりは伝え聞いていたので、同じように障害を持つ子を失った経験をもつS事務局長とともに合掌。

2日。H大での講義、初日。当時の音楽ミニメディアの面白さと、1971年のロックを聞かせて、数十年におよぶロックの原点ともいうべき表現への渇望を伝えようとする。
久しぶりに小さな教室なので、肉声で十分なのがよい。学生諸君も興味津々という顔が前の方にいたので、今年は反応がおもしろくなるかもしれない。
終了後、教育文化センターでの「永六輔+矢崎泰久+趙博」という異色の組み合わせのイベントに参加。あまりにも観客が少ないのでびっくり。主催者は、こんなに少なくてもいいのだろうか? と懐疑的になる。永さんは疲れていらしたのか、二次会でもあまり話の中心にはならず、早めにホテルへ引き上げられた。
新春、坪谷講師の個展での記念トークのときは数百名の参加者がいたので、そのときとの落差に、やはり腑に落ちないものを感じる。

3日。関学、T講師の講義内容としては最後の日。課題レポート提出の優秀例をさっと見せてもらったが、なかなかのもので、やはり関学生の底力を見る思いがした。一方で、なぜ、この講義「事業再生と地域再生」をとったのかわからない、という感じの学生もいる。

4日。玄関ドアの網戸、検証。部品交換でなおればいいのだが。

5日。朝、仕事を終えてから置塩医院、血糖値138、HeA1cは6.6%。「まあ、この状態ならいいだろう」との託宣。指先の痺れについては、様子見、ということに。
昼から坪谷邸での料理実施。スムーズに料理と撮影は推移して、午後4時半に撮影は終了。今回は「ハモ尽くし」。ハモしゃぶなんて、贅沢の極み。まして新鮮なハモ、初めて食べたような気持ちになる。今までのハモはいったいなんだったのか? みょうが寿司もなかなか乙な味覚。
その後、美味をつつきながら、打ち合わせもかねていると、坪谷さん、急激な悪寒に襲われて、明日にも用事があるとのことで、9時前には全員退去する。

6日。最後の机と椅子を西宮のMくんの事務所に運搬。同じ商店街の片平モータースの軽四トラックを借りて高速道路を運転。一台も追い越さず抜かれるばかりの道行きだったが、これはこれで快感でもある。いつだって車の前は、ひろびろとしていたのだから。

とってかえしてシャワーして着替えて三宮へ。亡母の弟である叔父の招待で姉妹と一席。伯父の法事もかねて、5月末に、母の実家(福島・二本松)に行ってこられたので、その土産話をいただく。
(ホントのお土産は、福島名物 太陽堂のむぎせんべい むぎと落花生のコンビネーションが絶妙 これが素朴でうまい! 母たちも子どもの頃から好きだった 本店、支店のほかはJR福島駅でしか手に入らない)

福島駅から二本松まで、車窓に移る安達太良山(あだたらやま)に向けて、「姉さんの写真を向けていたんだよ」と。その気持ちに感じ入る。関西にいた二人の姉弟をこの2年で失った叔父の寂しさたるや、さぞ、と思わざるをえない。

夕方、2週間ぶりにジョグ、5マイル。体重は62.6kg、体脂肪13.8と増えていないのは、打ち続いた肉体労働のせいかもしれない。そして、筋肉痛がないのも、多分。


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