混迷亭日乗 Editor's Diary

5月29日

今日は、今年開設された関学初等部の部長(校長)先生とお会いする機会に恵まれて、キャンパスにお邪魔した。構内を学生たちとともに案内されて、木の香りが充満するチャペル兼講堂、人工芝の運動場、自然芝の遊戯フリースペース、東山塊夷の版画オンパレードの廊下など、ちょっと見るだけでも、実に環境的にも優れている。おそらくは授業料の高さが伺い知れるというものだ。
校長の子どもたちと地域の人々の交流にかける熱い思いが伺い知れて、現場ならではの貴重なお話がきけた。
しかしながら、関関同立がそろって初等部の設立そろいぶみとなるわけだが、まさしくこれは優秀であろう子どもたちの囲い込みというか、ファミリー性の強調というか、経済格差社会の迫力を見せつけられる思い、にとらわれたのも事実である。

試験に落ちる、応募に落ちる、というのは、どのようなものであっても、ションボリ、という結果につながる。今日もその一つが届いた。当たり前のことで、落ちる方が圧倒的多数なのだが、先方に認められないという現実は、人を落ち込ます。

昨晩、ワタナベにしては珍しく、テレビドラマを鑑賞。タイトルは忘れた。脚本が山田太一、だからである。
女子中学生の投身自殺をあつかった家族と教師、関係者のドラマ。ありがちな、教師の責任、管理運営の責任、いじめの徹底追及という関係構図に陥っていないところに好感が持てた。
根本的には家庭の問題に帰するのではあるが、その原因に拍車をかけさせているのが、いわゆる仕事第一の大人たちの体面である。
印象的な場面で、自殺したのが問題児の女子で、誘因したのは、突然襲いかけられて、反撃したときのひとこと「死ねば」と言った、はためにみても眉目秀麗、成績優秀な女子(朝美)への「遠くからのむかつき」で、それが誰にも言えなくて、なにもなかったと演じ続ける彼女のおしつぶさられた苦悩。
誠実なる教師たちは、死因につながると思われるなぐりがきの「浅美、死んでやる」というメモ書きを、にぎりつぶす(公開しない)。公開すれば、確実にいじめの問題になる。問題児の自殺で、つきあいのない朝美という子どもの将来をもつぶすという行為には、しのびなかったのである。

昨今の風潮であれば、真実究明ということで、事実をあきらかにしろ! という態度こそが正解であるということになるのだろうが、山田の脚本はそんな予定調和にのりはしない。むしろ、即断を避けている。
死者の保護者(母)と朝美の父との間で、真実をさぐろうという行為はあるのだが、関係する一方の死で、真実が証明できない以上、朝美の言明しか信じる手立てはない。そしてまた、大人たちのほんとうの気持ちもまた、試されることになっていく。

嘘も方便とはよくいったもので、まさしく大人の知恵であろう。

どんな子どもであれ、誰か保護者に、ただ抱きしめてほしい、ほんとうに気にかけていてほしい、のである。

5月27日

月曜日、女房殿がお会いした加島祥造さんのご子息夫妻が事務所を訪ねてこられ、御礼を申し述べる。京都での個展の出席と神戸での個展の可能性を求められていて、ギャラリー島田をご紹介したのである。菓子がお好きだとのことで、女房殿が住吉のカッサレードにおつれして、お土産にされたよし、個展が実現すれば、きっと話題になることだろう。

大学院では、若者世代論のことで、院生の発表に「社会学者の分析論は射程が狭すぎる」という意味あいのことを指摘し、内田先生が団塊世代(1947〜1949)の共通感覚についての画期的な仮説を打ち出される。もっとも、先だって行われた橋本治、関川夏央(いずれも1949年生まれ)との鼎談でもおよそうなづきあったという話なので、実にホットな話。

団塊世代の父親は、1912〜1920年(聞き間違いならごめんなさい)に生まれた世代が多いようだが(つまりは、明治後期から大正年間)、この人たちは、昭和の時代、とりわけ日本が世界のなかで孤立し、戦争が吹き荒れることからモロに風を受け止め、戦争に参加したもの、しない者を問わず、身体的経験を植え付けられた世代なのである。
それがどんなにひどいことであったか、つらいことであったか、さらには、生き延びた戦後になって「あなたは、戦争で人を殺しましたか?」という問いが、突き刺さってくるのだから、たとえ戦争だと言い逃れることはできても、その行為が後の精神に影響を及ぼさないわけがない。
それが証拠に、先生の父親(内田先生のご尊父は1912年生まれ、山形県)は、ご自身の19歳〜32歳まで、とりわけ戦中期のことを、子どもに話してはいない、という。そして、私の父もほとんど話さなかった(1913年生まれ、福島県)。
戦争が終わってから、帰還してから、子を為すのであるからして、おのずと昭和22年から24年にかけて多くなったというのは素直にうなづける。困窮はしていても、強制されることのない平和な時代が訪れたのだから。

で、そのような世代の父は、我々に問答無用の「強制」というものを与えなかった。今でいう「自由放任」というのだろうか、つまりは、「日本の未来は君たちにある」と戦後の教師が子どもに語りかけたように、未来への希望を託したのである。
私自身、父から「ああしろ、こうしろ」とはほとんど言われなかった。唯一、覚えているのは「教員にはなるな、教育大には行くな」ぐらいであろうか。これは父の父(私には祖父=教師)に対する反発(今でいう酒乱による祖母への家庭内暴力、それゆえ、父は酒に強いのに、我が家ではほとんど飲んでいなかった)だったのであろう。それも、今となっては、墓下の父との想像の中での対話になってしまうだけだ。

先生いわく、「世代論を語るのなら、先行世代を視野に入れなければ、その本質には届かない」。


5月26日

土曜日。2年ぶりに丹波の青垣へ。高速道路が完成しており、大会会場へ1時間と10分。西紀を過ぎてトンネル越えしたら雨。当日にはやむことを祈るばかり。予報では、午後からあがるとか。
実行委員長である地元のO常任理事宅にて宿泊。

日曜日、朝5時半起床。ばたばたと準備が整い、今回は地元の方がアナウンスを引き受けてくれ、しかも話慣れている方なので、ずいぶんと助かった。一年休むと新しいスタッフの顔も見えて、あまり関わらなくても現有スタッフでやっていけるのだな、と妙なところで感心もする。
しかし、記録計時において、スケジュールどおりにはいかず、また時間を急かれたせいで、あやまった部門の発表もあって表彰式が混乱。執拗に抗議する保護者への対応でS理事長たちは困惑。後味が悪いものになってしまった。
持論でもあるが、大会の根幹は計時記録にあり、という大原則が今回も生きていることを肝に銘じる。
来年は、高コストになったとしても、プロの自動計測装置の導入をしなければなるまい。

そんなことで、ぎりぎりになってしまい、神戸にかえってきたのは午後6時半。「地力2」のフェアウエルパーティ。クルマゆえ、飲めず、残念。
2週間にわたったゲリラ的展覧会は、好評をもって終えることができた。パフォーマンスも、ボディペインティングと笛と舞踏と詩の朗読で、ピンと張りつめた空間が出現。有終の美を飾れたと思う。さらに、クラシックギターの演奏もあり、の終宴であった。
ポートアイランドは折からの環境大臣会議で厳戒態勢。島内と出入り口での検問が続いている。


5月23日

火曜日。女学院大学院は「幼稚園教育」。欧米との比較文化になるのだが、いまいちピンとこなかったのだが、聞くところによれば、現在ではキリスト教系幼稚園には園児が集まらず(おっとりとした教育が受けないのか)、早期英才教育に重点を置いているところに殺到する、らしい。プレジデントファミリーの影響か。世も末なり。「遊びをせんとや生まれけん」とは、死語になるのか。

04年に受けた「アメリカ論」で、はじめて知ったアレクシス・トクヴィルを紹介した『平等と不平等』(07 サントリー学芸賞受賞)を読む。
実に詳しくかつ、時宜にかなった解説で、40歳のトクビル研究家(東大教授)の手になるもので、民主主義(デモクラシー)が最も先に出現したアメリカが元来持っていた性格をズバリ指摘したもので、内田先生が『アメリカ論』をして、「もっとも読んでほしい人はトクヴィルだ」といわしめたことだけの理由はある。
民主主義とは、実にすばらしく、また厄介なシステムであることか。単純に信じる人々によってもたらされる災禍について、もっと注意を払うべきだろう。
とりわけ、日本に真の民主主義は定着していないといまだに言い張る、旧左翼的な人々にはいい薬になるはずだ。真の民主主義とはいかなるものか、まじで考えれば考えるほど、そのような人々にとっては、民主主義がすばらしいと自信をもっていえなくなる、という性格を持っているのである。

ようやく左ひじの擦過傷がいえる気配。瘡蓋がとれたものの、肌色はピンクで、まだ弱々しい。まだ完治とはいえない。

木曜日。関学から逆瀬川に移動して、宝塚フィールドワークの実践編。複合施設ビルの商店会の人々に、学生の活性化提案をぶつける会に同席した。これから紆余曲折しながら、現実的な提案の実施になる。
学才たちの真剣さは理解できるのではあるが、就職に向けての訓練にもなるのでがあるが、その屈託のなさには、一抹の寂しさを感じざるをえない。

明日からの大会に向けての準備。週末は雨模様の様子なので、いやな感じ。それも半端な雨じゃないらしい。バイクのスリップ事故が心配である。

このところ毎日のようにY監督と連絡をとっているのだが、旧チームテイケイ(新名称:チームブレイブ)の支援募金活動は、大会でも引き続き行う。24日には、朝日放送のニュースクルーが大会での田山選手の子どもたちとの交流の様子を取材にくる。もちろん、支援基金の紹介もしてもらう予定だ。
いまのところ、チームの次の企業探しについては、S運輸社長の紹介でG衆院議員への面会が来週にある。一方で、わが協会の会長は、I官房副長官への支援依頼を行うべく、激務のあいまをぬっての調整をしていただくことに。


5月18日

土曜日。朝の仕事を終え、雑用してから、花隈の「地力2」に立ち寄り、それからカメラマンSさんのグルーヴィスタジオへ。
坪谷さんの魚料理本の現有スタッフでの打ち合わせ。お互いにサンプルやらを持ち寄って、どのような体裁と内容構成にするかを検討する。もう一枚、アートディレクターの参画がほしいところだ。ビジネスレベルの力で、ビジネスじゃない本づくりをしようという方針なので、なんとかしたいのだが。
その後、お楽しみのそば処「卓」へ。美味いそば、酒、そして酒肴。これぞ至福なり。初参加の若きスタッフのHくんも「こんなそばは食べたことがない」と感激しきり。

ゆっくり寝てればいいものを、やはり習慣で早起き。
毎日新聞を入手。旧チームテイケイの支援金の件が大きく記事になっていた。「田山選手、北京ピンチ」というタイトル。
問い合わせ先が、協会の電話までなので、たぶんどうすればいいのか、という電話がかかってくるだろうな、という予測。

「地力2」における姫路の川柳&舞踏作家、情野千里さんのパフォーマンス、白塗り顔に黒繻子の着物に身を包んで、じんわりかつぎくしゃくした動きを見せる舞踏の後、短冊の下部に五円玉が縫い付けてあり、シニカルかつウイットにとんだ川柳を、読み上げながら観客に投げ飛ばす。モトコーを通過する通りすがりの人々も思わず立ち止まる。
この日、三宮界隈は「神戸まつり」のため、交通規制。モトコーのある花隈まで往復、行きは二宮尊徳ではないけれど、茂木健一郎の『思考の補助線』を読みながら、ランの代わりに歩く。いまの季節であれば汗ばむほどではないので、50分ほどかかっても、読書の時間を共有しているのと同じなので、なんとなくうまく時間をつくった気分になる。

夜は、明日4度目のアフリカ・ギニアへ旅立つ娘の歓送会で、Fさん宅で、刺身とてんぷらを食す。今回は日本財団の研究助成金と自らのアルバイトで資金を調達、今まででもっとも短いおよそ3週間の滞在となるそうだ。帰途は、ダンスの師匠とともに、かえってくることになるらしい。

いつものようにトラブルにまきこまれることなく、無事を祈るばかり。ギニアのコナクリよりも、むしろ、中継地点のパリのほうがこわいと、私は思っているのだが。


5月15日

13日。三宅接骨院にて、左半身を診てもらう。左足でけつまずいてこけるのだから、何かおかしいと思っていたら、もともと私の走るくせが左に少し傾いているので、長年の習癖なのだが、仙骨のずれを修正することに。お先に来ていてバッタリの内田先生も同様の仙骨らしい。
夜、会長の末松議員から電話。報道各位という発表文についての意見。会長としては、もっと大きくあつかってもらうように、という意向。

14日。モトコー2の「地力2」に顔出し。出展作家の麻谷宏さんと遭遇。お互い、犬を通じての交流だったので、いずれも昨年に他界したことを知る。14歳と17歳での昇天であった。

今日は、からっと晴れて、関学へいく道すがら、歩いていると気分がいい。なかだるみなのか、学生の出席はいまいちになっている。今日の講義はマーケティングの実例と不動産の再生の導入部分。まさに経営はグローバルスタンダードに席巻されているといった感あり。時代は変わってしまった、のである。
T先生は、次の段階をねらって、文科省GPプログラムに提出する書類を作成し提出した。次回は我々周辺の協力者にも出番がまわってくるかもしれない。
帰途、心斎橋にまわって、テキパキで散髪。いつものようにメロディで一杯ひっかけて帰宅。


5月11日

あっという間の5月の初旬。遅ればせながらの備忘録。

4日。明石の坪谷邸にて、ほんの打ち合わせと料理の撮影。いつもながらの美味を堪能。次回は本の体裁など、イメージサンプルを持ち寄って、検討することになった。帰りはカメラマンのSさんのボルボで送っていただいたのだが、2号線は頗るの渋滞で、三宮まで一時間かかってしまった。

5日。夕方、兵庫県民小劇場へ。娘たちのプロデュースするマリの歌と舞踊の夕べ。およそ100人くらいの小さなイベント。本番は11日の民博である。
顔をのぞかせてくれた神戸女学院院生と聴講生で、今年からフレッシュマンになったYさんとSくん、ありがとう、ね。

6日。振り替え休日。五月晴れ。
午前中に、オリンピックを前に突然廃部が決まったトライアスロンのチームテイケイ・八尾監督と前後策の打ち合わせのために、猪名川町の合宿所を訪れる。世の中には、理不尽なことが起こるが、これもその一つ、引っ越しの日でもあるので、少しだけお手伝い。
夕方から、居留地の某店にて、還暦過ぎたじいさんたちの会合。ということは私が最年少。
大学教授、神戸市の幹部管理職、大手商社のマンション担当エキスパート、港島のマンション管理組合の理事長と、私をのぞけば、いずれも建築関係の仕事をしていた方たちばかり。連休最後とあって、午後9時頃の三宮は閑散としていた。

8日。関学にてT先生の講義に続いて、宝塚の活性化にトライする学生諸君の授業にオブザーバー参加。アイデア100本ノックという手法で、アイデア出しを行って、そのまとめから、何をしていくのかを絞り込んでいた。
女房殿は今日から伊那谷の英米文学者、詩人・加島祥造氏へ取材に。戦後の詩の世界にそそり立つ「荒地」の同人で、昨年、『求めない』(小学館)が40万部を超えるべストセラーとなった好々爺である。将を射んとすれば馬を射よ、ということで本丸は米語の才人、故・最所フミさんにあるのだが、きっと駒ヶ根はいいところなのではと想像する。

9日。雨。季節は3月に逆戻り。午後から、元町の高架下、モトコー2へ。空き店舗を利用した期間限定現代美術出現空間『地力2』の明日のオープニングについて、M理事長と簡単な打ち合わせ。まだ、作家連中の搬入や制作途中の現場感覚がおもしろい。

10日。午後から、元町の高架下、モトコー2へ。行きずりの人々の目をみながら、イベントの案内をしたり、準備の手伝いをしたり、そして、午後7時からパーティ。ちょっと変わった出会いもあって、またまたリフォープは、へこたれずにがんばる。
西宮北口の愛すべきメタモルフォーゼが出張カウンター・バーを開店。午後10時過ぎまで、多くの関係者やお客さんでにぎわった。さすが、モトマチコーカシタ、である。

11日。雨上がりの新緑がみずみずしい。第62回兵庫県民体育大会開会式で明石公園陸上競技場へ。終了後、常任理事会議を経て、午後から民博へ。

道すがら、女房殿の伊那谷での加島さんの話や取材のこと、詩人・鮎川信夫のことなど、聞いていた。最所フミ伝、どのようなものになるのか、楽しみではある。出版社を探さなくてはならない、が。

マリのジャバテファミリー・コンサート、最後は日本のダンサーたちもステージにあがって、楽しく終えることができた。終了後、民博の江口一久教授(西アフリカ民族研究)とひさしぶりにお会いする。奥様はフランス人で、昔、女房殿が会社つとめをしていた頃の上司(多言語を理解できる異能を持つ不思議人)と京大時代のポン友ということで知り合い、今は娘が民博でフィールドが近く、なにかとお世話になっている、という御縁。
帰りは、好天となって気分がいい。西に向かって名神を走っていると、昔のカリフォルニアの空とフリーウエイを思い出していた。冷たく乾燥した空気と陽光の明るさが、日本の湿潤をどこかへ追いやったような気配といえばいいだろうか。

というわけで、なかなか勉強ははかどらず、であった。


5月2日

月曜の朝、ベッドから降りようとして、左足を床においたら激痛がかかとに走り、思わず「やはり挫いていたか!」と。
まいったなあ、歩けるのかなあ、と恐る恐る踏み出してみる。なんとかなりそうだ。で、一応仕事先には出かけたのだが、時折、痛みが走る。
そこで、三宅接骨院にでかけた女房殿に連絡して、先生に状況を伝えてもらったら、予約でいっぱいで、しばらくは見られない、らしい。そこで湿布をいただいて帰ってきた。
朝夜、貼って様子見。

そしたら、ようやくここにきて、意識しないで歩けるようになったので、夜、ジョグを開始してみた。約43分、もう大丈夫のようだ。湿布が効いたのか、ほっと一息。

今週は、関学の講義の一環で宝塚市役所の都市再生プロジェクト担当者のブリーフィングを聴いた。文部科学省のGP(Good Practice)プログラムに選定されると、自信満々になるのだろうか。

ついで、NPO法人アスロン(スポーツの家庭教師)の総会に、遅ればせながら顔を出して、状況を確認する。設立4年目にしてはや売り上げ5000万円に達しているという、ふつうの NPOとは比較にならない事業性を有している。あらためて、NPOも起業なのだと再認識する実例がここにあった。


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