混迷亭日乗 Editor's Diary

3月30日

25日。田中歯科。まだ、ズキズキではないけれど、スキスキぐらいは疼く、ような感覚で、リンパ腺が腫れているような、というなんとも冴えない現状。神経を抜くか、抜かないかl、もう一週間、様子見しよう、と。

26日。置塩医院、ヘモグロビンa1c、6.8%、血糖値168と、久しぶりに上昇。昨年と同様の経過をたどっている。グリミクロンに変えた変化については、今回の検査でこれも様子見。

リビング・ウィルについての勉強、研究会をしているF女史にお会いして、一年かけて積み重ねた成果を世に問うための本づくりを手伝うことを検討する。担当は、女房殿の方がふさわしい、と思う。
その流れで、先輩編集者Yさんをピア・ジュリアンにおつれする。この日、ちょうど、大フィルの首席チェロ奏者が出演。バッハの無伴奏チェロソナタ、約25分の熱演。クラシックに造詣の深い御仁だけに、「いいものを聴かせてもらった」と至極ご満悦の様子だった。

28日。画家・坪谷さんとその知り合いの、料理を主に撮影する写真家Sさんにお会いし、企画しようとする「料理本」のことで、まずは顔合わせ。
元町のそば処「卓」に、初めて入る。かねてから、そばにうるさいTやMくんからすすめられていたのだったが、ついに初見参。
みごとなそばに舌鼓。出し巻き、かものたたき、春野菜といわしのいてんぷら、そばきり、そして焼酎のそば湯わり。普通のそばでは、いかんな、とあらためて感心しきり。

29日。26日の件で再びYさんが神戸にこられ、女房殿と打ち合わせ。同席しながら、終末ケア、緩和ケアなどでの意見のすりあわせ。
その後、そばのことがあったので、もう一軒、ぜひ行ってほしいという店「山親爺」(春日道から山へ向けて徒歩15分)に出かけてみた。予想どおり、2日前の「卓」ほど幅の広さがないが、若い夫婦が一生懸命手作りで店をつくっているという風情。ここも絶品のそば。福井産のそばを石臼で挽いているところを見せていただく。女房殿は、取材雰囲気でどんどん質問をあびせかける。
ここにもYさん、大評価。日本酒のバリエーションを要望。(冷蔵庫が小さい故、今はすみません! と若き美人の女将)。

30日。28日の件で、ぜひ、実現に力を貸してもらいたかった明石の海の御意見番、京都精華大学の鷲尾圭司教授に坪谷さんが連絡したところ、「ゆっくりでけるのは今日しかないで」、ということで、緊急召集。
丹波・青垣での大会打ち合わせが延期になったので、再び明石へ。
女房殿もお手伝いというか、全体のプロデュースも含めてかんでもらうことにして、現状のスタッフで、まずは、料理の叩き台をつくることになった。
鷲尾さんと坪谷さんが昼の魚の棚にて求めた、すばらしい旬の魚、アイナメ、タイ、イカナゴなどで料理。
そして、明石の海のなかの話で、久しぶりに鷲尾節を聞かせてもらって、感嘆することしきり。
ポートアイランド2期、神戸空港の出現で、明石の海に異変が生じていること、さらには今年のタンカー衝突による油流出による風評被害、いかなご水揚げ激減による海底での生態系の変化がどうなるか、など興味深いことありすぎて、録音しておけばよかった、と後の祭り。
しかし、コンセプトは定まった。企画書もって、東京の版元にもあたってみたい。


3月24日

本日、帰神。

19日未明、神戸を出立して、途中から雨のなかを長崎まで。午後2時過ぎに到着、長崎奉行所を模し、新装なった長崎歴史博物館を見学。
午後、福岡・大牟田での賛助出演コンサートを終えた息子と合流して、長崎でのコンサートをプロデュースに近いかたちで支援していただいた元NBCのアナウンサーで、現在、イベント製作会社を経営するKさんにご挨拶。

20日。風冷たく快晴のなか、蛍茶屋の山麓にある女房殿の実家への墓参り。急な階段故、お墓参りができなくなった頃からは、いよいよ次は自分の番だと自覚するところに、ここのお墓の立地条件のすごさがある。今度くるときは、あなたは軽くなって運ばれててくるんだよ、と。
シーボルトの鳴滝塾の跡地に建つシーボルト記念館を訪ね、その足跡を知る。平和で美しい日本を理解して、その相対的な価値を世界に紹介したシーボルトの功績は高く評価されていい。彫刻家・富永直樹先生の塑像も現場で確認した。軍服姿の若き日のシーボルト、である。妻となったイネの写真を見れば、すこぶるの知性のある美しさ、であった。

帰宅後、母娘三代にわたる雛人形の飾りを借景に、義母のたてるお茶をいただく。
午後からは、長崎湾をひとまたぎする海面からの高さ60mの女神大橋を渡って、神ノ島に出かけて、鼻先の純白のマリア像を拝顔する。ここにも工業団地ができていて、新旧の顔が裏腹な表情。
夜は、長崎のJTU・K理事と一献。彼は22日が東京での理事会・社員総会なので22日のコンサートにはこられない。中華街から少し裏に入った小体な魚料亭『桃源洞』で馳走になる。

21日。この日も暖かく快晴。図書館で2時頃まで勉強。事務所での勉強だとすぐに眠くなるのだが、環境が違うとこうまでもちがうのか、と一驚。次の機会もそうであれば、事務所がよくない、ということか。
夕方、坂道ラン。風頭という地域をぐるっとまわって50分程度、神戸に比較しても急坂の多い長崎の人たちは、自然に足腰が強くなるのではないかしらん、と思うがはてさて真実は?

息子はこの日、震災のときに一時疎開した、桜馬場中学に挨拶、オーケストラ部の生徒たちを指導した。長崎新聞が取材に来ていたらしく、23日の朝刊にて写真入りで紹介された。

22日。正午にはホールに入り、若干の椅子のセッティング、受付の用意、パーカッション機材の運搬と、久しぶりにイベントのお手伝い。定員300のところ、230名の来場があり、胸をなでおろす。もちろん、義母、伯母、女房殿の集客の集大成。
トリムルティの構成はクラリネット、ピアノ、パーカッション。増幅装置は使っていない。したがって、全体に音が柔らかく、なかなかの妙味を出す。
K氏が司会・進行で、さすがプロ。うまく場内の雰囲気をリードしてくれた。
一部はクラシック、現代音楽、二部はジャズ、ラテン、タンゴ、オリジナルによって構成され、緊張と弛緩がうまくとれているが、もっと実験的な音にチャレンジしているかと思っていたら、そうでもなく、聴衆は珍しいユニットを聴いて新鮮だった、という声がアンケートからは読み取れた。
一旦、実家にひきあげて、その後、関係者をまじえての簡単なイタリアン料理店で打ち上げ。帰り際に、義兄(女房殿の姉婿、西海町の歯医者)とどじょう鍋(ほたるどじょう、という種類)をつついて、仕上げ。

23日。雨。さすがに疲れたので、朝は遅めに起きて、引き上げの準備。午後、おみやげを求めて、長崎から博多へ。3時間を見ていたので余裕で、天神に到着。大名MKホールの開場を待って4時に入り、6時の開場までに準備。小さなホールゆえ、満員を心配したのだが、9割で良かった、と胸をなでおろす。いっぱいだと人の熱気で、どうなることか、と。
義兄(大姉の婿、Q電)の人脈だとこのホールだとたちまちオーバーになってしまうので、今回は控えていただいたのが良かった。
一部でのショパン幻想即興曲は圧巻、二部での彼等のおしゃべりも軽く進んで、無事、終了。ビブラフォンの解体に時間がかかるので、ホールのすぐ向かいの店で打ち上げ。演奏者と身近な近親者でわいわいとおしゃべり。
姉の自宅についたらもう12時半。体調を考えて、打ち上げに参加しなかった義兄をまじえて、しばし談笑。
息子は従兄弟たちと一緒で、盛り上がったとか。

24日。会社に出かける義兄と、国際ソロプチミスト協会の会合に出かける姉を見送って、たくさんのおみやげ(主に焼酎)をいただいて、義兄から聞いていた真言宗の草分けの寺、東長寺に参内、大仏の下部にあけられた漆黒の闇を体験して、帰途につく。
博多から約7時間、無事神戸に到着。よくぞ走ってくれたのは、調子の悪いわが車に代わって、妹の車の「プラッツ」、でした。


3月16日

土曜日。来週の九州行きを控えて、雑用の処理。
夕方、神戸空港まで14kmのラン。日差しが暖かいので気持ちよかった。

朝の仕事を終えて、午前中、勉強。午後からお彼岸前の墓参り。霊位に刻まれた母の名と家紋(七ツ割り二引き)の修正を確認。
帰路、明石の魚の棚に周り、がしら、ミニ・ホタテ貝、わかめ、たこわさびなど。夜の食卓を彩った。


3月14日

13日。大麦若葉青汁会社のブースが大相撲春場所に出店しているので、大阪府立体育館へ。試飲でのPR状況の視察だったのだが、担当者が気を使ってくれて、中入り後の後半戦を観戦した。
ずいぶん前に、友人のはからいで、国技館で「福祉大相撲」を桟敷席で観戦して以来のことだが、本場所を観戦するのは、初めてだ。そのときは、いま話題の北の湖理事長がまだ現役の横綱だったのだから、昔のことである。
ぶちかましの音などは聞こえないのだが、花道の引き上げ通路の奥あたりで、思いのほか近くから見ることができた。
しきりの時間が短く感じて、淡々と進んでいく。微妙な判定や、差手争いの妙など、ラジオで解説を聞きながらの観戦だとわかりやすいのかもしれない。
平日なので、客は7割ぐらいの入りだろうか。設えは仮設だから、専用の国技館にはおよぶべくもないが、昨今の閉鎖体質問題を抱えながらも、昔ながらの雰囲気はできるだけ失わないようにしなくてはいけない、と思う。

14日。雨模様。
どうしても所用で出られないNPO法人リフォープのM理事長に代わって、六甲アイランドでの補助金申請の審査会に出席。旧知の市民活動家たちも、当然のことながら来ていた。このような補助金申請の上手なグループはあるもので、ふだんから指導のセミナーも行われている。
説明5分、質疑5分という予定だったが、しっかりと説明したので、質問は一つのみ。
助成の不足分をどうするのか、ということ。団体の自己資金でやる、と言明する。


3月12日

クラブのことで、後継をお願いするつもりのIくんと話す。
思いがけず、彼の身内の問題で引き受けられない、とのことで、暗礁に。
しばらく休止状態にせざるをえないのかと考える。


3月10日

とある事情で、アッシュという北アイルランドのロックグループのライブを聴く。ギター、ベース、ドラムスというシンプルなユニットで、ストレートなロックを展開。若いけれどもスタートが早かったのでもう15年もの芸暦がある。ベーシストがしっかりしているので、安心して聞いていられる。むしろ微笑ましい、といってもいい。これが褒め言葉になるのかどうか。
サウンド的にはパンクの系譜をひくのだろうが、メッセージは政治的、社会的なものではない。
ならば、ものごころつく頃から、ロックが所与のものであった世代のJ-ROCKと称される連中のテクニックだけは、本家外国の連中に遜色はないから、日本で洋楽の衰勢は否めない。
同じサウンドなら、伝わるメッセージが「理解できる」ほうが選ばれるのは当然だ。

てな、こと思いながら、雨のなか、帰路につく。場違いなおじさんは、素直に楽しめない、のである。


3月9日

8日。母の四十九日法要。一つの見送りの区切り。位牌とともに近しい親族にて会食を共にして散会。
そして、18年ぶりに、父と母は一緒になって、仏壇に入った。

そして今日、春陽という言葉にふさわしい日和。

高橋尚子は、8年という歳月をあらためて知らしめた。
いろいろあろうが、多くの人々の思いを背負っての42kmであった。
私のなかでも、シドニーが、一つの歴史に、思い出になろうとしている。
はじめてのオーストラリア、はじめてのオリンピック、はじめてのトライアスロン。
そして、アンセットオーストラリア航空会社(今はもうない。911以降に消滅)という得意先の仕事はほんとうに楽しかった。


3月5日

弥生三月に入って、すぐ六七日を迎え、はや今週は四十九日。
儀式とはいえ、そのたびになにやらと、母にまつわる事柄が過去から現在へ浮かび上がってくる。

墓石の刻印の終了の連絡が入った。お彼岸には新たな銘板との対面だ。

今日、クラブのI君に、口頭で代表を譲ることを伝えた。来週、詳しく話すことに。
少しずつ、周りの人たちに、生き方の転換を伝えていくようになるが、厳しい世界に入ることは間違いないので、不退転になるように外堀を埋めていくような感じだ。

4月27日、奈良から剣豪の里柳生を通って伊賀上野までのマラニックに申し込んだ。これも一つの区切りだと思う。


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