混迷亭日乗 Editor's Diary

1月27日

先週の後半は、お疲れ様の余韻のなかで時間がすぎていった。

諸々の連絡を終えて、ポートアイランド唯一のキャッシュコーナーに寄ったら、1ボックスしかないので、4、5人の列。世間的には25日は給料日なのだ。待っていた、ここの9分で駐車違反をとられた。道路は広くて、そんなのするところではないだろう、と思ったところで、係員はいないし、杓子定規には勝てない。証票を見れば、2分のオーバーだったようだ。クソー、情けない!

午後から、坪谷令子個展『いのちはまるい』を見に、ギャラリー島田へ。野菜や野山の植物を精密にかつ繊細に、いのちのいとおしさをこめて、紙にいのちを与えたかのような作品群。ミックスメディアという版画方法による作品があったので、気に入った1点を求めることができた。坪谷さん、いつも、ありがとうございます。

駐車違反のお金は何になるかわからない、ほとんど無駄金だけれど、作品へのお金は、小額ではあっても作家の力になると思うので、全然意味が違ってくる。

夜の、大阪府トライアスロン協会設立20周年記念パーティは遠慮させていただく。

女房殿に教わった鱗取り、小さな鯛の一夜干しをつくる。単純に、鱗と鰓と腑をとるだけなのだけれど、一仕事をした、という気になってくるから不思議だ。

日曜の朝は昨日の不運を取り消すかのように、FMの名演奏でモーツァルトの協奏曲(ピアノ&バイオリン)9番と24番が気持ち良く、古本で届いた堀江敏幸の散文集『一階でも二階でもない夜』を読む。静かなひととき。
12時から大阪国際女子マラソン。福士加代子の独走を見ていた。中間点を過ぎたあたり、1km3分28秒になった(それまでは20秒前後)、というアナウンスを聞いて、不安に襲われる。
そこで、切り上げ、永六輔さんのトーク(これも坪谷さん関連イベント)に出かける。いつもながらの皮肉たっぷりの快調なトークではあったけれど、声のトーンにお疲れのご様子か? 共通の友人たちに病人や死者が当たり前になってくると、じわじわとボディブローのように効いてくるのだろうか? 故・灰谷健次郎を中心にした集いだった。まさに死者が核になっていたのだった。

帰りに母の宅へ。女房殿の提案で、娘が甥の結婚式に着る着物、振り袖を母から借りることにしたのだった。これは母が自身の結婚のときに着用していたもので(昭和14年)、黒と赤が基本色で、実に柄が華やいでいて、古くていいものの象徴のような一品。さぞかし、娘も映えることだろう。
また、私が持っていた父母の写真(昭和45年頃?)をスキャンして、褪せてしまった色の補正をしてもらう。
宵の口まで、今後のことなど、妹といろいろと話す。帰ろうとしたら、BSハイビジョンでは大河ドラマは6時から始まるので、見て帰ることに。今年の天樟院篤姫には興味があるので見る。

夜は、ご近所の友人、Sさんの還暦のお祝い会。最大手のK建設の技術屋さんだから、一般的には老後の心配はないといっていい。赤いベストを着ても、じいちゃんという感じはまったくしない。
11時過ぎに切り上げて帰宅。


1月24日

maman est mort. カミユは『異邦人』の冒頭に書いた。

1月21日午後4時24分、母、逝く。
我々、子どもたちと孫に囲まれて、静かに息をひきとった。呼吸がゆったりと大きくなりかけたかな、と思って1分間の呼吸数を数えはじめた矢先だった。
ホスピスでの一か月余、食べ物、飲み物を口にしなくなったら、悪性リンパ腫も萎えていき、あれほど盛り上がっていた瘤も消え失せ、艶のある顔が戻り、死化粧は慈しみに満ちた美しいものであった。享年89歳。

夜、はやしやまにて仮通夜。孫たちが夜通し、そばにいてくれて、私と女房殿は隣の和室でまどろむことができた。
主に献身的な介護を続けていた妹の希望で親族葬に。母をよく知っている人ならともかく、会社関係、団体関係、知人関係にも知らせず、ひっそりと葬儀を営む。アンバランスになるがそれはやむをえない。

22日、朝、はやしやまのスタッフのみなさんに見送られて山を下りる。ほんとうにいいところで母を看取ることができたと思う。こころ温かいスタッフによって、どんなにかすくわれたことだろうか。
父のときもお世話になった湊川公園の真福寺にて通夜。D和尚に母の性格や人となりをつたえ、「慈室静道信女」という戒名をいただく。控え室においてごろ寝。

23日、同所にて告別式。位牌を持って霊柩車に乗り込んだが、涙の乾く間もなしで、フロントガラスから見える風景に現実感がまるでなく、からだが妙にふわふわしていた20分だったように思う。
鵯越葬苑にて骨上げをしていただき、小さくなった母を抱いて、お寺に戻る。
午後7時には初七日法要を終え、ここで福岡へ帰る長姉たちと別れ、いったん仮祭壇が安置されている母の家にひきあげ、それから帰宅する。
午後10時、さすがに疲れ果て、お風呂に入り、すぐ就寝。

長い長い3日間であった。


1月20日

18日。デザイナーのMくんに、ある区域活性化企画提案についてのブリーフィング。夕刻、叔父(母の弟)とこの間の推移についてのお話。聞き役に徹する。その後、はやしやまへ。母は昏睡状態に入った。もう、「イタイ」とはいわなくなった。主治医のR先生は週明けまで持つかどうか、とおっしゃる。夜遅く、妹とともに退室。女房殿が泊まり込む。

19日。京大英文広報「Rakuyu」のレイアウト到着したので、朱入れ。午後遅く、大学近辺を5マイルのジョグ。そして、はやしやまへ。夜は、私が泊まり込むので、ギルガメシュの新年会へ。昨年は娘のダンス発表と重なり欠席し、代表の立場上、今年は休めないので時間限定で顔を出す。
これが有名な「もつ鍋」店だったので、戻ると強烈なにおいらしく、部屋中にんにく臭くなってしまい、姉と妹からは「しょうがないわねえ」と冷たい目線。
妹の連絡により、福岡から長姉も最終の新幹線で神戸に。
義兄は、三半規管不調と高血圧による体調不良と月曜、火曜と取締役会議と経営企画会議で身動きとれず、今回は来れなかったのだが、死に目にあえないことへの忸怩たる思いが十分に伝わってくる。副社長辞任の意思はあるのだが、社長から慰留されている、という。大企業の責任者として、神経の休まるところのない義兄を心配して、姉も「できれば早く辞めてほしい」と思っているのだ。
結局、姉妹全員泊まることになり、午前3時過ぎまで起きていて、交代して寝入る。

20日。まだにおいぬけず、はやしやまのの道路をはさんだ向かいにあるスーパー銭湯というのか、に行っておいでと言われ、朝風呂に。露天風呂もあって、じっくり汗を流す。
母は小康状態。規則正しい寝息ではあるが、熱は高く、頭や手足は冷ややか。脈拍も120から100くらいで、血圧が100から80程度になって、弱ってきている。
今日、目を見開いたのは3度ばかり、もう焦点はあっていない。でも、まわりの言葉がとびかっているのは聞こえているのですよ、と看護婦さん。みんなに囲まれているのはわかっていますからね。
できるだけの身内が集まって、姉さんたちは交代で寝るから安心していて、といわれて、
いつ呼び出しがかかるかわからないが、夜、9時半頃にひきあげる。
一足先に帰った義兄(次姉のだんな)が、「箕谷は雪景色。路面凍結がおこるから、今日はかえってくるな」という連絡が入る。2月初頭に結婚式を予定している甥は、フィアンセとともに、実家ではなく、勤め先のある八尾にかえることに。
娘がポツリ、「雪がみたいな」。


1月17日

13年目の1.17。冷え込みのきつい一日。
大阪・野江の病院に先輩編集者のYさんとともに、食道癌の摘出をしたMくんのお見舞い。術後経過は順調で、見舞いしているのかどうかわからないほど冗談ばかりで、一安心。

冴え渡る夜空のもと、昨年に続き、六甲山麓の松蔭女子学院大学のチャペルでの祈りのコンサートに出席。
パイプオルガンに始まり、パイプオルガンで終わるささやかなチャリティ・コンサート。07年の神戸ルミナリエでのBGM組曲を中心に構成されていたが、空間といい、曲調といい、静かに鎮魂と希望の祈りを捧げるにふさわしいひとときだった。シューベルトのアベマリアには、いつものことながら感動させられる。宗教の持つ力、である。
フルートの水越さんとも11月以来の顔あわせ。
ルミナリエカンパにもなる販売していたCD(1000円はお買得!)のジャケットデザインは旧知のWくん。

16日夜、はやしやま。午後10時半までいたが、母はもうほとんど眠るばかり。清拭のときにかいま見る母のからだはやせ細り、いよいよ大地に戻ろうかとする準備が整っていくようだ。
今日は苦痛にゆがむ表情はほんのわずかだけであった。それが救い。

鹿島茂・編『あの頃、あの詩を』(文春新書)は、我々の世代の中学時代の教科書に掲載されていた詩のアンソロジーだが、これも「希望」という名のメタファーだったのだ、と感心する。帯に、内田樹氏激賞「泣ける!」、とあるのには苦笑したが、先生が推薦されるのもよくわかる。我々の父母の世代の強い願いが反映していたのである。
一つひとつの厳選された「つよい」ことばには、今さらながら、時代の刻印だった、と思わずにいられない。


1月14日

11日。母の状況が悪化。今晩より、妹や次姉、女房殿が交代で泊まり込みに入る。逢わせておきたい人には連絡するように、との主治医のことばがあった。
福岡の長姉が来神。声に反応はしてくれるものの、次第に無反応なときも増えてきた。
内田先生より、神戸女学院大学で連続講義3回の非常勤講師(半期)への打診。ビジネス・コミュニケーションという課題。ビジネスマンらしくないのだが、喜んで前向きにお受けすると返事する。

12日。はやしやまへランで。3回目ともなると、なれてきて坂道が短く感じるようになる。
姉二人と近所の食堂で昼食。母の若い頃の話、分かる範囲で聴いてみるが、やはり勘違いや知らないことが出てくる。父が早稲田の夜間にいったんは入っていた、なんてことは初めて聞いた。私は誘われていた、としか聞いていなかった。母の精神的な病は、庄屋の娘という特権階級の没落や、嫁姑関係や、役職上下関係の反映した官舎での奥様方のいじめなどで、こころがどこかでこわれていった、というのが事実に近いのだろうか。
家事万端において器用で、趣味も多種で、というのは単なる逃げ場だったのかもしれない。次姉などは「私はお母さんと一緒に遊んだ記憶はない」というし、長姉は父から「Kチャン、お母さんを頼むぞ」と声かけられるのが、毎朝出勤前の日常だったという。
確かに、母になにかを無理に頼んだり、ダダをこねたり、要求することはなかったなあ、と今さらながら思う。母に対する反抗など、もちろんなく、進路での相談などもしなかった。
昭和16年生まれの姉は、私が小学高学年の頃はすでに社会人だったので、いわば、私や妹は今でも保護すべき子ども扱い、というところがある。
いまだに「はい、おこづかい」といって、なにがしかを手渡してくれたりするのも、その名残。
今日、明日と女房殿が泊まり込み。

夜、元町にて、現代美術のリ・フォープの年次総会。出席者5名で成立。
神戸ビエンナーレ、09年もやるそうだけれど、もう総括出ているのだろうか? 名前ばかりのショボイイベントだったけど、横浜トリエンナーレなど、終わった直後から、時価への取り組みが始まっているそうだから、展示レベルと意気込みが違う。

13日。今日は私が昼間、母につきあう。「イタイ、イタイ」と痛みを訴えて、水薬を服用すると、15分から20分後には、ほとんど寝るようになった。夕方から、姉と妹が相次いでやってきて、部屋の中で3人で簡単な夕食。母は起きてこない。8時前に退室。

14日。成人の日。平成生まれが二十歳になる。しかし、このハッピマンデー法案とやらでつくられた3連休。すこぶる居心地悪し。そういえば、花園大では、4月からこの振り替え休日は開講するそうで、年間30抗議なると言っていた。ゆとりの見直しか?
会社案内の作り直しと寒中見舞いの原案を作成。

夕方からはやしやまへラン。所要時間、1時間を切った。やはり、走りなれてくると坂道が苦ではなくなる。
姉と交代してしばらくすると、妹がやってくる。彼女が今日は泊まり込み。母は食事ができなくなってきていて、薬すら吐き出すようになってきた。冷たいデザートを少しだけ。飲み込むのがつらそうになってきている。
妹に託して、8時半のバスで帰る。三宮では、あでやかな晴れ着姿のお嬢さんたち。


1月10日

4日。初走り、5マイル。

5日。腫瘍手術で入院する友人、Mくんの仕事の一時引き継ぎのため西宮へ。帰りにはやしやまへ。高速長田駅から歩いてみたら、坂道ゆえに急ぎ足でたっぷり汗をかいて3kmを34分。
6日。予定していた打ち合わせがキャンセルになり、中古CD屋で乱魔堂、岐阜県中津川フォークジャンボリー(1971)でのライヴ復刻版(98年、廃盤)が出ていたので思わずゲット。スタジオ録音のLPはたしか持っていたはずなのに、いつのまにやら見当たらなくなっている。私が参加したのは翌72年のことで、いまはもう忘却の彼方の話。

8日。朝の仕事中になにやら暑いのか寒いのかヘンな感じがするので、ナントナクやばいな、と。日中は気にもならなかったのだが、女学院からの帰宅してから、ドスンときて、Fさん宅でのあたたかい「ふぐちり」も効果なく、はやばやと退散して、ひたすら厚着をして寝るに任せる。

9日。午前中はベッドのなかで寝汗かいて、午後から花園大学へ最終の講義。月末からギャラリー島田での個展が始まる坪谷令子さん、趙博さんとともに話をして、最後に趙さんの生演奏で締めくくられた。
夜は大阪で、会計士のMさんの紹介による青汁生産会社の幹部のみなさんと会食。これからどのようなスタンスでおつきあい、お手伝いができるかを両者で検討していく。

10日。取引先であるK印刷Aさんがあいさつに。やはり仕事が減っているという。たまたまとある音響機器メーカー社長の経営方針を英文用に短縮するために読んでいたのだが、やはり国内需要が伸び悩むのでおのずと世界へと進出する、という。それも、東欧と中東、中国ローカルに本腰を入れるとのこと。
昨日の青汁でいえば、北米市場への足固めで優秀な社員を送り込むと言っていたし、夕方のニュースでは、松下電器が社名変更するという。いずれも製造会社は、果ての果てまで市場を開拓するグローバル資本主義のなかで、どう生き残っていくか、に尽きる。


2008年1月3日

あけまして おめでとう ございます 

元日。朝5時過ぎまでマージャン。なぜかしら、一番へたな私が初勝利。チョンボを2回やったにもかかわらず、+32で一人勝ちとあいなりました。めたしめでたし。
起きたらもう10時で、元旦恒例のニューイヤー駅伝はすでに2区に入っていた。家族3人起きてこないので、一人で駅伝に見入る。1km3分以内が当たり前のスピード。ただ恐れ入る。マラソン練習中心の中国電力に勝て、というのは無理な話だけど、それでもレベルの高い走りっぷりに感心する。

遅いお雑煮で新年のごあいさつ。

夕方5時より、はやしやまの食堂で、母を囲んで息子のクラリネット演奏。最後のご奉公かもしれないので、施設のスタッフたちにも聴いていただいた。伴奏はカラオケ。
姉、妹と一緒に、おせちをつついてのささやかな新年宴会。

2日。箱根駅伝。ラジオを聴きながらテレビの映像を追う。往路は久しぶりに早稲田の優勝。驚いたのは箱根の山登り。昨年の驚異的な区間新記録にわずか7秒差で走った早稲田の駒野選手、決して傑出した走力の持ち主ではないのに、この記録。さすれば、スピードを誇るエースが走る区間ではないところで、当分は破られないだろうと思われていた昨年の今井選手の記録はいったいなんだったの、ということになる。
山登りと山下りが大きなタイム差を生む可能性が高い区間となってくると、どの大学も今後はこの5区、6区を重視せざるをえないのではないだろうか?

夕刻、はやしやまへ。娘、25歳の誕生日。母を囲んでかんたんなお祝い。
はやいもので、ぼちぼちと高校・大学時代の友人たちが結婚する季節が到来しているようだ。

昨日の予測があたり、早稲田は山下りの区間も好走。駒澤の追撃は9区途中までかかってしまった。順天堂、大東文化、東海大の3校にアクシデント、たすきつなげず途中棄権。低血糖、脱水、足首捻挫と理由は違うが、ぎりぎりまで追い込んで仕上げる高速駅伝のプレッシャーがかかっていることだけは間違いないと思う。
また学連選抜が上位に食い込んだ、ということは予選会出場チームのレベルアップが確実だということだ。かくして、全国の高校の優秀なランナーはますます関東の大学に集中することになる。
関東学連の名物大会に過ぎぬ箱根駅伝が日本最大の駅伝大会になっている功罪の一つ、である。

朝、息子は上京。遅い初詣を諏訪神社にお参り、西神墓苑に墓参りして、はやしやまへ。母が寝入ったところで退室し、夜は友人である翻訳家のTさんと妹とともに食事。介護の話から3世代家族論まで、なんだかんだと話が弾む。
あらためて、大正9年生まれの母の人生はどういうものだったのか、想像しかできないことがあまりにも多すぎる。


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