混迷亭日乗 Editor's Diary

7月31日

May est morte.
午後6時25分、前足を突っ張り、頭をそらせた後、ふっーと、まさしく息を引き取った。

昨日は、女房殿と交代でできるだけつきそっていたのだが、ほとんどブドウ糖水しか飲まなくなり、アイスクリームもなめなくなった。
午後6時半には娘がアミナタ師(今晩関空から母国ギニアへ帰国)とともに帰宅し、午後9時半には、仕事の合間を縫って東京から息子も到着し、二人とも思春期の大半をともに過ごしたメイの最期を看取ることができた。
メイは昨晩から2時間おきぐらいに、息づかいが荒くなり、鳴き声にひぃーっという音が混じるようになって、息子は我々に代わって今朝の明け方まで添い寝をして、飛行機で帰京した。

午後は、再手術後の母の病院へ。姉夫婦と妹がしっかりとサポートしてくれている。

帰宅後、午後5時半頃から苦しいのか呼吸が大きく荒くなり、鳴き声も付随して続くという臨終前の1時間だった。

1993年5月20日、大阪・北千里 S家生まれ、父は英国産、母は日本産ソラさん、8匹の兄弟姉妹(東京と関西)。本名(血統名):Bertha of International バーサ・オブ・インターナショナル、産んだ子ども2匹(♂ イエロー&ブラック ともに神戸市居住)。生後60日で我が家にきて14年余、しあわせな一生だったと思いたい。


7月29日

鼎談『身体性の教育』のため、Fさんと女学院へ。女房殿は、メイを病院(もともとの主治医のいる病院。しかし友人であるS医師は、ただいまハワイ出張中)につれていく、と言ってパス。
舞踊・振付家の島崎徹氏の話は初めてだったので、バレエの裏話やら、コロラド州デンバー(だった?)での暮らしの話など、笑いを誘う三者三様のあっという間の2時間であった。
11月には、さらにはゲストを招いて行う、という。それはそれはお楽しみである。

メイの散歩はあきらめる。二人の医師の診たてでは、子宮蓄膿に腹膜炎を併発。白血球も金曜日より目に見えて増加。彼女のいのちは、ここ数日かもしれない。
小さな頃からの14年間の姿が、走馬灯のようにめぐりめく。
女房殿は、居間のクッションに大きなシートを敷き、またどこでトイレをしてもいいように、フローリングの部屋を解放し、自由にさせてやる。そして、ちょくちょく床擦れしないように、横たわる姿勢を変える。30kgのぐったりした体は実に重いが、習った武術の介護応用で、対処する。

参院選、投票へ。午後8時から開票される予定。比例区と選挙区では、党の違う候補に入れた。一つは生きて、一つは死ぬか?


7月28日

土曜日、あまりにも暑いので、40分弱でランは切り上げた。
そして、昼食後、DVD『武士の一分』を観る。やはり、涙なしでは見られない。ゆったりとした時間が流れる映画。よくは知らないけれど、壇れいさんという女優も「いがった」。負けるとわかっても戦わねばならぬことがある。そこには損得という計算高さは微塵も入らない。ただ生き延びる、という概念はないのだ。

ご近所のつり名人、Fさんが釣り上げた明石の蛸をいただく。そして、そのまま、Fさん宅で、韓国との三位決定戦を観る。徒労感の漂うゲーム。

メイは、ますます衰弱し、朝の散歩は難しくなり、動物病院へ点滴へ連れていくのがやっと。


7月27日

朝、講義本をつくるH電鉄のTさんと打ち合わせ。

メイはフォーゲル動物病院へ。血液検査とCTスキャンの結果、子宮に腫瘍らしき固まり(膿み、であろう)があり、甲状腺に異常あり。息づかいの荒さに現れるように心臓も弱くなってきているし、背骨にも変形が見られ、老衰のきざし顕著。ただ、血液の状態はよく、やはり頑丈な身体だ、とあらためて獣医さんも感心していた、という。とりあえず、点滴で栄養補給。

仮に手術をして摘出しても、スキャンではわからない、その他への転移がわかれば万事休す。高齢なので、麻酔のショックによる危険性も高い。32kgの体重(今日の計測では30.5kg 衰弱しっているので)を支える後ろ足のへたりがあるため、術後は後ろ足用のハーネスも必要になる、という。
手術については、若いときならともかく、14歳をこえた今となっては、体力的に負担が大きく、大型犬にしては長寿で、すでに兄弟姉妹が天にみまかっていることを考えれば、安らかに天寿をまっとうさせてやりたい。
すでに、雑食系で貪欲だった食事もわずかに肉系しか受け付けなくなっている。
明日ふたたび、受診して、手術をしないことを伝えるつもりだ。


7月26日

朝、成績表をファックスする。今回、残念ながら優はなし。
母が手術するアーバンクリニックに顔を出す。今日は、すぐわkったようで、目も開いている。熱がさがったので、起きて立とうとする。昨晩は、それで転んで頭を打った、と妹が言う。細かく刻んだここでの食事は進むようだった。
午後、KSJ社へ。淡路大会についての三者打ち合わせ。来週中には発表できる段階へ。遅すぎるがしかたがない。終了後、ニシムラコーヒーのバスケッットランチをいただきながら、Mレースディレクターとよもやま話。相変わらず、デリカテッセン(といえばトアロードのこと)のソーセージはうまい。
夜、講義ビデオをたくさんダビングしてくれたリフォープのMさん、Kくんを自宅に招き、夕食。女房殿の初作品「鶏肉・タマネギほか」の餃子をゆずこしょうポン酢で食す。中華風であっさり美味につき好評。

火曜日から、メイの体調が悪い。便秘と嘔吐、そして下痢。食欲なし、歩こうとしない。木曜は病院が休みだし、主治医のSさんはハワイへ行って留守。明日、Sさん紹介の水道筋の病院へ行く。


7月25日

大阪.本町の代理店Y社での打ち合わせ。久しぶりの訪問。およそ内容のアウトラインが決まったので、10月末の完成をめざして、8月に走ることになる。

明朝提出するH大の学生の評価をつけながら、日本VSサウジアラビアの戦いを聞く。
女房殿はフリークなので、画面に釘付け。局面に応じて、歓声と悪態が背後から飛んでくる。
結果はご承知の通り、敗戦。予定調和でいかないのがフットボール。


7月24日

前期最後の大学院。いただいた神戸大丸「星の王子様展」の招待券を声かけすると、さすがに、みなさんの感触はよくて、すべてはけた。
医療教育がテーマ。コミュニケーションの復活にナラティブ(ものがたり)の手法。そうだろうな、と同感。人間が人間に与える影響は数値には置き換えられない。
医療行為には身体部分の共感が非常に大切な役割を果たす、というのは首肯できる話。

終了後、打ち上げ宴会。院生、聴講生、盗聴生、総勢25名、これだけ集まると部分会話しか成立しない。
麻雀と合気道でクロスする若手が増えてきた。
まさしく、内田塾は数年後に向かって形成されつつある勢いだ。


7月22日

西京極での京都アクアスロン大会へ。隣の球場では、高校野球予選の応援の声がこだましている。
別段、役目はないので、旧知のスタッフたちと情報交換。
メディカルのK医師に、ここ一か月前ほどから感じる左ひじの痛みを聞くと、「テニスひじ症状」ですね、と。腱をいためてしまった、ということ。荷物の上げ下げで、限界点をこえてしまったのかも。あまりつかわないで、長い目でなおしていきましょう、だって。あ〜あ。

前の京都協会事務局長が定年後の日本一周サイクリングツアーを終え、精悍さをたたえた雰囲気で登場。今後は綾部の山林にて500坪の畑と宅地で、農耕生活に入るという。これも一つの生き方。

夕刻、「ぽー愛」へ。今日の母は今まででもっとも反応がよかった日。自らが立とうという意志を見せていた。熱が下がったせいか。


7月20日

昨日はなぜか、からだがだるく、事務所でうとうとしてしまう。

3月になくなった叔父の初盆の件で姉に連絡したら、母の状態が思わしくない、とのこと。
昨日、熱が39.8度となり、緊急で市民病院に。精密検査をしてもらったところ、昨夏に手術した乳ガンの転移がリンパ節に見られ、血液に異常はないし、肺や腎臓にも異常がなく、熱の原因はそこしか考えにくいという診たて。
老齢なので、とりあえず「ポー愛」に戻り、25日は施術してくれた担当医にかかり、28日以降のことを相談するという。


7月18日

備忘録。

15日。1時間ほどのランニング。夕方から、情報誌企画のためのモニター会議。どんな情報誌が読みたいか、50代以上の男女の方にお話を伺う。

16日。台風一過のヘンな天気。神戸学院大を通過するときに雨が降っていたが、一軒はさんでの隣の神戸夙川学院大学のそれでは雨は降っていない。折り返して、また神戸学院に戻るととぱらぱらと降っている。わずか数百メートルというあまりにも狭い地域での雨の分かれ目。こんな経験ははじめてだった。
新潟で大地震。相当揺れたそうで、倒壊家屋の映像が入る。黒い屋根が多かった。
事務所はシャッターペンキ塗りのため、2日にわたって閉鎖。
自宅で一日、企画書を書いて過ごす。

夕刻、母のいる「ポー愛」へ。少し、返事をしてくれた。「起きたい」と言ったので、車いすにのせて、居間スペースへ。そしたら「水が飲みたい」と。ヘルパーさんに伝えると、昼食で食べていなかったのか、果汁ゼリーを持ってきて、口に運ぶ。ひきとって、私もスプーンで運ぶ。口をあけるので意志はある。2個たいらげた。でもやはり、水がほしかったのだ。自室で、コップの水を飲ませ、再びベッドへと横たわらせる。もう2週間を過ぎるというのに、よくなるきざしはあるのだろうか?

雨のなか、梅田へ。東京からの大学院聴講生、Tさんが休みを利用して、来阪しているので、内田先生の助手ともいえるUさんを中心に、面々とともに食事会を誘われた。私以外はすべて女性の総勢6名で、北新地の鉄板焼「がるぼ」へ。なんだかまぎれこんでしまったようで悪いような気もするが、タカラヅカ観劇の後だったので、それぞれのお話が弾んで、さらに大阪の鉄板焼は、工夫に富んだお味で、これもよろしかった、ですハイ。

17日、花園での講義の資料づくり、そして先週は休んだ大学院へ。テーマは「トレランス 忍耐」で、例証として「オタク」への寛容を、と訴えた。とりあげたのは現役の高校の先生であるAさん。今までで最も多いレジュメ(10ページ)、熱意はわかるけれども、これは長過ぎました。
それによれば、むかし、中学生の頃は、私もオタク、だったらしい。鉄道ファンも典型らしい、のである。被害者意識を先取りして、メインストリームとして、とりあげられると、真正「オタク」たちは、さらにマイナーなネタを探し、タコツボを求めていく。「私たちだけのヒミツ」をあらわにしたくないとか。

内田先生いわく、
「寛容」を持つ人は、は知性と想像力があることで担保される。寛容は生き方であり、「寛容論者」は論者でしかない。それは相手が持っている内的なメカニズムへの知的理解を届かせることでもある、と。
また、寛容であることの条件であるコミュニケーションを支えるのは「知性」だ。他者への架橋は知性でしかできえない。自身のなかの異物を含めて、違うことを同時に考えられ、かろうじて統合でき、一体化できる主体を知性と呼ぶ。
牧師であるK先生は、それを「愛」と呼びたいとおっしゃった。
他者を受け入れることを「愛」と呼んでもいい。だれかに承認されたことから、他者への架橋は始まるのだから。
それが、わずかピンポイントの承認であっても、「寛容」という態度へのきっかけになるだろう。

そして、今日。14日に続いて、きょうもJRで人身事故。急遽、阪急に変えて西院へ。
花園大での2回目の講義。編集の技法をかいつまんで話し、連想ゲームを入れながら、終える。今年の学生たちも、とりあえずは聞いてくれているようだ。今日はほとんど眠る学生はいなかった。
終了後、坪谷講師がお勧めの西院の小さなおでんやさんへ。
これが、実に上品かつ滋味がしみこんだという味わいで、茶わん蒸し、こんにゃく、はんぺん、いわしつみれ、ゆば、もちふ、などなど、いずれもすばらしく、仕上げの八の日だけのかやくごはん(オーナーのおかあはんがつくられる、という)は、これまでに食べたかやくのなかでは最高だった。
これで、芋焼酎「伊佐錦」を飲んで、ひとり3000円だったのである、京の底力を見た思いがした。名は五合と書いて「はんじょう」という。次回、京にいくときには、ぜひ立ち寄りたい。

7月14日

また10日間もあけてしまった。
週末に大会はなかったし、特段忙しいわけでもなかったのだが、それでも、画面に向かわなかった。気力の低下か。

7日。朝、置塩医院。6月のHea1cは6.8%、血糖値は121。入院でのアルコールなしが効果あったのだろうか、5月にくらべて、やや低下。
友人の結婚式のため、帰神した息子に会ってから、少し横になり、母の入っている「ポー愛」へ。ちょうど、食事どきであったが、まさに流動食。まだ表情は乏しく、反応はなかった。

夕刻からギャラリー島田にて、井上よう子さんとYUKO TAKADA KELLERさんの展覧会オープニングパーティ。両者のコラボレーション、息のあったところが如実にあらわれていて、すてきな空間が出現していた。タイトルはデンマークからの風。ちょっとくすんでいるブルーではあるが、キラキラした風が吹き抜けているようなクールさがかっこいい。
オーナーの島田さんから突然のご指名で、あいあさつさせられる羽目に。なんとか切り抜けてほっとした。YUKOさんのご家族も来日、最終日までの盛会を祈る。

8日は、Tさんの講義のテープ起こし。夜、女房殿につきあって、日本VSカタール戦を観る。結果、勝ちかけていたところで、引き分けとなった。サッカー文化を背負っている哲学者といった趣のオシムという監督の言動に注目する。
9日は、11日の花園での講義のレジュメづくり。
11日、京都へ。今年の一回目は、私の問題認識をストレートに話したので少し難しかったのか、ちらほらとそのような感想が見受けられた。まあ、いいだろう。わかりやすくする、というのも一長一短だ。
講義終了後、主任のY教授と助手のTさん、坪谷講師と、昨年の卒業生のN君と、駅前の韓国料理屋さんで一献。知らぬ間に、たくさんいただいたような気がする。

12日、広告代理店D社のディレクター2人が珍しく来社、それゆえ事務所の中が少し整理されていて、この状態がしばらく続けばいいな、と思う。

別の代理店から、新しい情報誌の仕事が決まった。季刊誌とはいえ、しっかりすれば柱になるので、喜ばしい。

13日、雨。ビデオカメラ返却のため、元町のリ・フォープにいってたら、近くに古本屋があったので、のぞいたら、辻原登の初時代小説集『夢からの手紙』があったので、求める。しらなかったので、さてどのような世界になっていることだろう?

母は寝ているばかりであった。手を握っても、返す反応はなかった。微熱はおさまった、というものの、やはり哀しい。

そして今日も雨。万博の民族学博物館へ。バングラケひきいる太鼓集団とアミナタの踊りを見にいく。娘も加わっている彼等のツアーの宿泊場所を提供してくれた性海寺のT住職夫妻とも2月の星供養以来。また、娘をかわいがってくださっている民博のM教授ご夫妻とも初めてのご挨拶。
昨年以来のバングラケ、カタコトの日本語も覚えながら、部族文化そのものの暮らしに溶け込んだすばらしい太鼓を叩いていた。手拍子をたたき過ぎて、手が痛い。

4時過ぎに、肥後橋へ。内田先生とアジア交流史が専門の真栄原教授との対談。中国を中心とした華夷秩序のなかでの交流なのだが、さらにインドシナを含めて、漢字文明圏での歴史の捉え方をしていくのがやはり正しいように思える。
帰りに、文芸春秋をもとめ、内田先生の「昭和人よ 吉本隆明、江藤淳、鉄腕アトムへ」という論考を読む。
お父上の世代に対する論評なのだが、それは私の父にもあてはまるのかも、と思って読んだ。なぜ、父は、戦争時代のことや戦後すぐのことを、語らなかったのか? そして、私に対しても優しかったのか? 死して語らず、というわけで本当のことはわからないけれど、理解してみたいという思いはこれからも抱えていくのだと思う。


7月3日

大学院へ行く前に施設へ立ち寄る。今日はベッドにこしかけていたが、なにをしようとしているのかがわからない。車いすにのせて、3時のおやつの時間でもあったので、みなさんの集まるテーブルへ。みなさん、それぞれがひとりの世界を持っているので、集まっても、コミュケーションが成り立たないようだ。若いケアスタッフのご苦労を推察する。
肌のツヤはいいのだが、お昼であっても、すぐ眠ろうとする。せめて、昼夜逆転だけでもリズムがかわってくれればいいのだが。
動かなければますます筋力は衰えていくのが道理。でも、なにもしてやれない。
帰り際に、手をふってくれた。少しの変化が現れた。


7月1日

滋賀の高島大会は欠席する。
母の介護施設へ。想像以上に、衰えているような気がした。私の呼びかけにほとんど反応がない。いつも見ていただいているケアスタッフから、「これが、あのワタナベさん?」という印象を伝えられる。肺炎や気道つまりを心配しているので、ご承知ください、との申し送り。1時間ほどいたのだが、最後まで私の名前は出てこなかった。
出た後、姉に電話。今日の状況を伝える。気は重い。

日本陸上選手権、最終日の模様を見る。もう少し観客が多くてもいいのにな、と思う。


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