混迷亭日乗 Editor's Diary

1月31日

昨夜は、大阪・中之島の川を渡る風に、ようやく安堵した身体が緩んでいくようだった。
発表会も無事終わり、後でわずかの時間の懇親会でもM市の方々にもねぎらっていただいて、めでたしめでたし、であった。
次の仕事につながればいいのだが。

先週末は大津でブロック協議会。無事、後任も決まり、ここでも一区切り。
終了後、尼僧のKさんと琵琶湖ホテルにて2時間ほどおしゃべり。暮れなずむ琵琶湖を眺めながらの、20数年の空白を埋めるかのように、いろいろお話した。
仏教の世界も世俗にまみれすぎてはいるというものの、少数の人たちは、しっかりと現世とあの世を見ているし、現世利益とは違って、生き方を問いながら死んでいく人の一人になりたいものである。

もう如月の声が聞こえてきた。今日は、お片付け。と思っていたら、欧州石鹸のカタログのコピーがあるのだった。なんとか送ったら11時をすぎていた。知り合いの仕事なのであるが、若い人たちの起業のお手伝いって、やはり成功してほしい。
石鹸の芳香が事務所に満ちている。


1月24日

ついに一仕事終えた。あとは、本番29日(東京)、30日(大阪)、2月20日(松山)を迎えるだけ。うまきいきますように。
ただし、今日、メールの発信が不具合を起こす。原因はわからない。
ようやく近畿ブロック協議会の資料作成にかかる。会長としては最後の大きなお務め、である。場所が大津なので、日曜は尼僧のKさんとも約束。つもる話になるのだろうな。


1月23日

20日。今日も事務所、気付いたら3時半。あわてて、着替えて結婚披露の二次会にでかける。
新郎はシドニー、アテネ五輪代表の西内洋行、新婦はナショナルチームに在籍していた下村真紀選手。福島、仙台での生活となるが、二人三脚で北京をめざす。その意気やよし。
ゲームで、なんとi-podがあたってしまった。
娘にいわせると「その運のよさはなに!」 
ま、こんなこともたまにはあってほしいものです。

21日。都道府県対抗男子駅伝。兵庫県の優勝。やはりいいもんである。
長距離選手として一世風靡した中山竹通の息子(須磨学園)が全国のメディアに登場。父に似て、大柄でみごとな走りっぷり。遺伝、世襲ということをあらためて考えてしまった。
急に心斎橋の友人、メロディのMから連絡があって、夜、メリケンパーク近くのライブハウス「上屋」へ。桑名晴子、長田和承(タコヤキ)らのライブに顔を出す。内田ゼミで一緒している牧師のKさんも、出演していたので、会場でにっこり。
2時間足らずではあったけれど、おばさんとなった桑名や長田の存在感は、だてに長くやっているもんじゃない。まだまだ若いもんには負けてはいない。

ようやく Mプロジェクトの峠をこえて、もう少しのところまできた。今日、最後の原稿を書いてバトンを渡す。もうハードルはない。フィニッシュまで、修正するだけだ。


1月19日

17日。5時46分、その時間はくるまのなか、胸でただ手を合わせる。
12年で、13回忌。今年は仕事で、休むわけにいかず、夜の「いのりのとき」追悼コンサート(松蔭女子学院大学チャペル)に出かける。フルートの水越典子さんが出演、企画そのものに、仕事仲間のデザイナーのWくんが関わっているので、いわば二人の共通の知人ということになる。カウンター・テナーの横田裕一さんの「アヴェマリア」の切々たる朗唱には、さすがに涙がたまってくる。曲と場所と追憶の三重奏。荘厳なるパイプオルガンの演奏で終了。プロデューサー兼指揮の上田益氏によれば、体力が続く限り、続けていきたいとのこと。8時半頃に退出。
女房殿は仕事で大阪の堺へ行っていたので、残念ながら家族ばらばらの17日だった。

18日。野村芳太郎監督『張り込み』(1952 原作:松本清張 主演:大木実、高峰秀子)をDVDで観る。佐賀市で判で押したような日常を送る子連れ再婚者(銀行員)の妻と、別れた後に上京し、うまくいかずに強盗殺人を起こし逃亡した元恋人との再会を信じて、張り込みを続ける刑事二人の姿。
生気のない日常から逃げるつもりでいた妻は、元恋人が逮捕された後、どう生きていくのか? 刑事は、二人の逢瀬の温泉宿で彼を逮捕した後、「このバスに乗れば、だんなに気付かれることなく、家に帰れるぞ」と言い残していくのだが…。
先頃亡くなった田村高広が犯人役。美男美女がそれぞれ鬱屈した思いを好演。余韻をひきずって終わる。エンターテイメントなる、すかっとする映画ではさらさらない。

朝、くるまを飛ばして奈良へ。9時45分に永田眼科へ到着。大きな専門病院でびっくりした(診察室が6つ)。初診ではあるが、井上先生の紹介状があったので、まずは視力検査、初診担当の先生の診たて、視野検査、そして永田名誉院長の診察という順序で行われた。
結果、手術決定。視神経のやられ方が相当らしく、なんとかこの辺で食い止めなければ、ということだ。つまりは、自分で眼科にかかったときは、すでにかなり進行していて、その後、薬で眼圧を下げるようにしたものの、なかなか下がらないので、房水の流れをよくするために、手術に踏み切るということだ。
先生によれば、緑内障と遺伝子との関係性を解明するのが、世界の眼科医の目標らしい。それが解明できなければ、治しようがないからだ。おこったことへの対症はできるけれども、原因がわからないから、予防ができない。せいぜい早期発見、早期治療につとめるしかない。
3月6日に手術説明会。そこで術日が決定される。4月2日に、術前の診察。入院は両眼なので2週間ぐらい。

帰ってきてから、原稿を書き終えて、ようやく最後のハードルの二つ手前まで来た感じ。


1月16日

13日夜は、高校陸上部の恩師と物故者を偲ぶ集いが、世話人であるKさんの経営する三宮の「ピア・ジュリアン」(classic live bar)で盛大に行われた。
辻井五十鈴先生あっての生きているもののつながり、まさに「仰げば尊し」である。2年上の学年の灘高4×100mメンバーもゲストで登場、なぜなら、その学年と切磋琢磨していたからだ。辻井先生は、王子陸上競技場(サブトラック)で練習する彼等にもアドバイスしていた。まさに好敵手に塩を送る、謂いである。

13、14日と事務所にこもってウェブ・プランナーのMくんと作業。彼との合宿のような数日を過ごし、大きなハードルを一つ越えた。あとは詰めの作業を淡々とこなしていくのみ。

今日は遅刻したけれども、そのせいで、ファンだという町田康の鼎談記事をコピーして渡した学部学生のMさんとバッタリ。賀状とお礼状をいただく。文学好きゆえの、繊細な感受性に幸いあれ。
06年度大学院最後の講義と内田先生宅で打ち上げ。楽しくも知的な語らいとK牧師のライブもあって、あっという間に11時。内田先生のもとに集まる人々のなんともいえぬ温かさと刺激は、ちょっと何ものにも換えがたい。だって、持ち寄りといっても、私の持病のことを考えて、一品を用意してくださる方もいるのですよ。
できれば、07年度もなんとか。テーマは「教育」と「家庭」。それぞれが自ら足下の立て直しだ。
先生は60歳で定年で切り上げて、芦屋に能舞台と道場をかまえたい、とおっしゃっている。レヴィナス学者の贈与の核(本格的なパッサー)はこれから始まる。


1月12日

1月10日。H大での最終講義。趙博(singer & songwriter)、黒田裕子(阪神高齢者・障害者支援センター理事長)さんらとともに、パネルディスカッション形式で終える。当初の考えとは異なり、近代という病などについて、話すことになってしまった。こちらのストレートな思いが、一年を経て、少しは伝わり、確実に変化を見せている学生がいればそれでいい。
授業の前、講師室で見かける剃髪の尼様がいらした。臨済宗の大学なので、僧衣を着て抗議をなさる先生がいるのは当たり前なのだが、その女性が坪谷講師と立ち話されていて、突然、顔を見るなり「もしやスタジアムの渡邊さんでは?」と問いかけられた。「そうですが?」といいながら、唖然としていると、「勝本です」と。
なんと、1980年頃、当時所属していた会社でつきあいのあった大阪の広告制作会社のディレクターだったのだ。
面影はと言われても、剃髪・素顔・と落差があるので、すぐには結びつかない。ややあって、記憶が蘇ってくるという有り様だった。
お互い、すぐに講義がはじまるので、去り際に上梓されたばかりの『現代と仏教いま仏教が問うもの、問われるもの』をいただいて、「読んでいただくと、その後の変遷がわかるから」と、あわただしくお別れした。
これも新たな御縁なのであろう。

講義の後は、人権センターの八木教授の研究室でご挨拶をし、その足で、坪谷講師の友人であるフォークシンガーの高石ともや氏の奥様へのお見舞いで、ご自宅へ伺う。
その後、桂駅前の居酒屋で打ち上げ。趙さんとは関西フォークの頃の話で盛り上がった。小沢昭一が言う、江戸情緒を体現している入船亭扇喬の話も印象に残る。

11日。守口の井上先生から紹介された奈良の永田眼科に連絡し、来週火曜日に診察を受けることにする。ちなみに手術は3か月先ぐらい、入院は一週間ぐらいになるのだそうだ。いのちと関わりないのだから、そんなものなのだろう。

夜。西宮戎神社の残り戎に、ご近所のFさん夫妻と出かける。何年ぶりだろう? 前回は子どもたちやメイと行ったはずだったが。凄い人出だった。
少し遠くからお賽銭を投じて手を合わす。福がやってきてくれるだろうか?
帰途、なぜか沖縄の出店で、黒糖かりんとうと十八茶を求める。

12日。午後から事務所にて、ウェブ・クリエイターのMくんと共同作業。少し、峠が見えてきた。
女房殿とデザイナーのMくんは、文化人類学者の石毛直道さん(前・国立民族学博物館館長)に久しぶりの取材。テーマは「日本人は何故かくもカレー好きになったのか?」という、雑食系北東アジア人の深淵なる謎、である?


1月9日

ようやく松の内がとれた雰囲気。この休み中にせっせと書いた原稿をD社へ送信してから置塩医院へ。10日間の薬きれがどういう結果になっているか。血圧は124の76。T先生の自叙伝、ご子息の原稿とKさんの口絵レイアウトがとどいたので、これでほぼ揃ったので、いよいよ第4コーナーにさしかかることになる。

昨夜は井筒和幸監督の「パッチギ」をDVDで見る。趙博のキネマも含めて3回目だ。彼が大学に行かず、大阪で苦労していた時のことを知っているので、昨今ブラウン管で彼の大人としての発言を聞くにつけ、人は仕事によって鍛えられ、成長することの実証例がここにある、と言っておこう。


1月7日

お正月から、成人の日まで、ほとんど休みという感じだろうが、こちらはそうもいかず、いずれも仕事。
6日に、東京赴任中の友人Mくんが、正月休みを利用して、オフィスをのぞいてくれた。12月の日記のなさに心配してのことだった。スタッフと作業中だったため、立ち話だけだったが、ありがたいことだ。
夕方より風雨強く冬の嵐。
昨日・今日と、夜、TVで白虎隊をみる。ちょっと強調し過ぎではあるけれど、やはり滂沱の涙となる。
会津がやられる前に蹂躙された二本松少年隊(二本松藩は母の故郷、父は福島藩)のことにも白虎隊士は触れていた。
この年始に、庄内藩出身の内田樹先生には、白虎隊士の血が流れていることを知った(祖母さまの父上が白虎隊士)。
三代、四代前のご先祖が、敗残者でありながら必死で生き抜いたからこそ、いまの私たちが存在している。
「よく死ぬためにはよく生きること」。白虎隊士の母が息子に語る言葉と遠い地平にいる現代の私たち。
次世代に何を伝えていかなければならないのか、あらためて自問していくしかない。


1月4日

謹賀新年 2007 丁亥 ひのと い

元旦。大晦日はなんだか整理していて午前3時過ぎに就寝。
いつものように、諏訪山神社にでかけようとしたら、左前のタイヤがパンクしている。GSでタイヤ交換していあたら、日没となり、あきらめて、次姉宅にて、母や妹たちとともに食事。

二日。箱根駅伝をじっくりと鑑賞。前評判どおり、順大・今井の山登りの走りっぷりに感嘆! これが平地に活かせるかどうか、彼の実業団での動向が気になる。
久しぶりに息子が帰省しているので、メイとともに諏訪山神社に初詣。その後、大丸で買い物と娘の誕生祝い(年娘)を求める。凄い賑わいだった。夜は、友人のTさん親子とともに食事。

三日。やはり箱根駅伝。これでお正月は一応きりがついた。
午後から、塩野七生の『ローマ人の物語 14』を読む。最終巻(15)が年末の書店に並んでいるので、一年遅れの読書。キリスト教の司教が皇帝よりも上位概念になっていくプロセスは単純ではないが、一神教の酷薄さが伝わってくる。これって、キリスト教原理主義じゃないの。そして、ローマは自壊していくのだ。
夜行バスで、息子が東京へ戻っていった。29日から居たのだが、もう家族4人がそろうことはそうそうないのだと思うと、初老の域に入りつつあるのだという思いがよぎる。

そして、仕事始め。気ぜわしくなってきた。


12月18日

言い訳してもしかたがない。師走に入ったとたん、精神的にゆとりがなくなって、論々神戸に向き合えなかった。
いろいろあって、落ち込む。
でも、仕事だけはしなくては。


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06年12月&07年1月いま