混迷亭日乗 Editor's Diary

12月29日

朝8時半に出発。ひたすら高速を相生へ。1時間20分ほどで到着。
NPO法人兵庫農業クラブの商品だからして、ていねいに作らねばならないが、つく量はというと、なんと米2俵(120kg)、うすにして約50。それの突き手は私を入れて二人。女性陣は当然ながら突きはしない。
ただひたすら、交代しながら、突き続ける。
蒸して、小搗いて、さして、こねて、搗いて、返して、ちぎって、なでて、まるめての繰り返し。

餅は、稲の実を凝縮させたものであるからして、餅には霊力があると信じられ、それを食べることで霊力を取り入れようとした、という習俗だそうだが、私には
もちつきはとてもエロチックな行事、のように思える。
男と女が寄り添って突き、こねるのだが、特に、こね手の上手さにはいつも脱帽。搗きやすいように返してくれる。
全体のほぼ五分の四というところで、午後4時半になり、切り上げ。長丁場に耐えられるだけの体力はありましたねえ。お土産に、搗きたての餅とネギをいただいた。労働の対価という概念があてはまらないが、なんだかとてもしあわせな気分になるのが不思議だ。

急いで帰って、着替えて三宮に取って返して、神戸高校陸上部19・20回生恒例の忘年会。いつものメンバー8名で、同じ「とけいや」で鍋を囲んで、カラオケちょっとの超マンネリが続いている。でも、それがいいね。医者が2人、大学教授が一人、兵庫県・神戸市・大阪市など行政関連が4人、純然たる民間は私一人、約4時間の楽しいひとときであった。


12月28日

やっとこさ、年賀状を書き終え、中央郵便局まで持っていった。さあ、事務所の片づけにとりかかる。積んである資料関係の雑誌や本の類いを、とうとう捨てなければならないときがきた。しかし、始めてみるとなかなか片づかない。
しかも、論々神戸のメールが不調。まだ、受信をはねかえしているようだ。
なんだかんだしているうちに、ついに日没。あえなく、片づけは沈没。明日は「もちつき」なので、30日になってしまう.嗚呼。
夜、息子が新幹線で帰郷。迎えがてらに、女房殿と3人で王子公園駅前の「天天」で食事。うまくて安い、と友人のNさんが薦めてくれた。初めて食した味付けの皿もあり
で、満足満足。


12月27日

年賀状の宛名書きに終始する。今年は早い。いつも31日だったり、年を明けたりなので、なんとなく、ものが片付いているような気になるのがおかしい。
昼飯に、ハンガリーから持って帰ってきた瓶詰めの「ピリピリパプリカ」を使ってペペロンチーニをつくる。自分でいうのもなんだが、これは美味かった。
結局、賀状書きはがんばってはみたものの、一枚一枚書いているのと途中でいろいろ中断したので、200枚には到達せず、全部はできずに明日に持ちこし。皆さん、今年は番号つきなので、ひょっとした当たるかもよ、捨てないでね!
明日は事務所意の片づけのつもりだが、さてどうなることか。


12月26日

今日は能を観る日。
小鼓の久田舜一郎氏の還暦祝いで、大阪能楽会館にて『醒々乱』と『道成寺』。鼓と謡いの迫力とじわっとした動きの序破急があいまって、12時半〜5時までの長丁場、たっぷりと味わわせていただいた。会場は満員。でも、誘っていただいた久田後援会の一員である内田先生によると、お客さんが入らなければ大赤字だそうで、まずはご同慶のいたり。
終了後、内田先生がお寿司の店に連れて行ってくださり、総勢6名で美味しくて、楽しい語らいの時間を過ごさせていただいた。ブログというWEB日記で、内田先生とつながった滋賀県のえこまさんもきちっと和服でご登場。まるで旧知のようにおしゃべりさせていただいた。
文体って、やはり人を表すというひとつの真理がここにも現れた。
久し振りに「赤貝」を食し、ご満悦である私、ここちよい酔いの宵となりました。皆さん、ありがとございます。

帰った後、メイの散歩もかねてルミナリエ会場へ。約2kmの散歩はどうってことないのだが、東遊園地の会場には、相変わらず屋台の群れ。異様に明るいので幻滅。こんなことは、誰も報じない。ほとんどの人は「異様だ」とは思わないんだろうな?
被災地神戸の大事なイベントであるにもかかわらず、聖性が感じられなければ、そりゃあないだろう。つぎはぎだらけの和洋折衷とはいうものの、和の代表が屋台というのでは、あまりにも寂しい心根だ。屋台は雑然とした神社の祭りにこそふさわしい。

夕食後、男子高校駅伝をビデオで観る。とんでもないスピード駅伝の時代になった。5000m13分台の選手がポツポツ、14分台が当たり前。ビデオが2時間で切れてしまったので、最終区は見られなかったのだが、たぶん2時間1分台の大記録が出るのだろう。
高校生だけに、これを連続するのはむずかしかろうが、すいすいと軽やかに走れるのは、それだけ指導者の層が厚くなってきた証拠。しかも、昨今は選手をつぶすような無茶な練習を、おおむねしてはいない。トップレベルの選手は、確実に育っている。
問題は置いてかれた中間層だ。


12月25日

クリスマスイブからクリスマスへ。娘も大きくなり、毎年飾っていた小さなツリーも、昨年あたりから見なくなってしまった。代わりに卓上におわしますのは、洋蝋燭(高さ20cmぐらい)の小さなツリー。
昨日、今年の最終週とて、ほぼ最後の仕事を早朝に送って、ほっと一息。と思っていると年賀状が届いて、ちょっとびっくり。受け取った方が気付くだろうか、たぶん気付くだろうけど、「アホやなあ」と言っていただければ、幸いだ。

今日、車検以来の洗車をした後(可愛そうな私の車)、少し走ったけれど、また、ガス欠。二周続けてなのは、どうも昼ご飯の量が足りないのか。
雨もぱらついて、静かなクリスマスであった。
夜、女房殿と『アメリカン・ラプソディ』という映画(ビデオ)を観る。第二次大戦後のハンガリーを脱出した若い夫婦が置いて行かざるをえなかった赤ん坊が主人公で、それを育てた田舎の養父母のもとで貧しいながらも愛をいっぱい浴びて育った娘が、政治的な思惑から急にアメリカの実父母に戻る。これは美談としてメディアに受けた。
捨てられたというトラウマをかかえこみ、やさしい養父母との間で揺れ動く「思春期の女学生」のこころを描いた映画。そのみずみずしい感性をナスターシャ・キンスキーが好演。でも、公開当時はヒットしなかっただろうなあ。
スターリンによるハンガリー動乱も描かれず、アメリカの50年代後半から60年代初期の黄金時代がまばゆいばかりに映し出されていた。いわば絶頂期のアメリカだ。自由の国、アメリカ!の存在感ががますます大きくなっていく時代だった。


12月23日

昨日の京都往き電車のなかから、半藤一利の語りおろし『昭和史 1926-1945』をひもとく。まだ満州事変のあたりなのだが、一級の書物。なぜ、昭和の戦争にブレーキがかからなかったのか、昭和天皇の思いとは裏腹に、政府内一個人の思惑と断念とが織り成す人間模様が総体として戦争へと突き進む様は、初耳のことも多く、教科書にしたいぐらいである。

夕刻、クリスマス前の天皇誕生日、にぎやかな大阪・梅田でJTU近畿ブロック協議会の臨時会合。2005年度以降のJTU組織運営のための改革案について説明。各加盟団体への理解と今後の活動展開の話し合いをした。なにせ、三県の会員が100名を下回っているだけに、危機感は一入なのだが妙案はない。

帰宅後、事務所に戻って、D社へ提出の報告書をまとめる。午前1時半に終えた。まだ、外気の冷え込みは感じられない。


12月22日

今年、最後の講義で花園大学へ。児童文学者のKさん、被災地NGO恊働センターのMさん、シンガーソングライターの趙博(チョウ・パキ)さん、そして胴元(?)の坪谷令子姉さん。
いま、神戸新聞など、日本の有力地方紙に11月から連載中の灰谷健次郎氏の小説に挿絵を描いてらっしゃるのだが、灰谷さんが癌の手術のため緊急入院、休載のはずだったものが、暗転して中止となったよし、気の毒な状態に。合議体だけに、一社だけでも「休載は認めない」となれば、一気にヤメー! ってことになったらしい。釈然としないのは、私だけではあるまい。ある筋から、「これはいい機会」とばかりに、中止となったのではという疑念がつきまとう。

講義の後、学生の有志とともに大学近くの食堂で懇親会。私が言い出しっぺだったのだが、男子学生ばかり7人とともに、ささなやかな宴会。学生たちも初対面だったらしく、あっと言う間に7時。
その後、迫力満点の趙さんのライブを聴くために、京都のライブハウスの老舗『拾得』へ。もう、場所も内部の雰囲気も忘れてしまっていた。ゲストには、地元京都の「ふちがみとみなと」という一風変わったデュオが登場。いかにも個性的なピアニカとウッドベースとの組み合わせがキッチュで、情感もあり、のいい意味でのヘンなデュオ、たぶん「ずっっとマイペース」で歌って行くのだろう。なかでも『手紙』(正式タイトルは?)という歌は、手紙は身体だ、という感覚が伝わって白眉であった。
結局、最後まで残った学生二人にしゃべりまくり、気付いたら我々が最後。最終の新快速にも間に合わず、快速で帰還。帰宅は午前1時となった。坪谷さん、ちゃんと明石で降りられただろうか?


12月21日

午後、大阪に納品と暮れのご挨拶に車ででかける。J社は西梅田のハービスエントに入居、エントランスは花々で華麗なる雰囲気。美しくなった分、管理が行き届き、息詰まる一面もでてくるだろうな、と。
帰りは、阪神高速・芦屋で降りて、住吉へ。東灘地域で子どもたちを育てるNPO法人をつくり、スポーツ事業にのりだすI君をつれて、市会議員の浦上氏の事務所へ。私と同じく理事就任の依頼で、小一時間ほど談笑。彼はいつも前向きなので、怒りとともに笑いも絶えない。少しばかりの元気をもらって帰る。

夕食は、三人分用意して、二人とも帰りが遅いので一人で水炊き。何気なくテレビ欄を観ると、教育テレビに上野千鶴子女史が登場しているので、久し振りに顔を見てみようとチャンネルをあわせた。
そうか、彼女は私より年上なのか! 思い込みとはおそろしい、80年代にフェミニズムの旗手として、ニュー・アカと呼ばれた京大の浅田彰、宗教学の中沢新一、などとともに思想界をにぎわした彼女も、もう56歳、社会学者ではあるが、今は福祉を対象に研究を続けているという。
90年代には私は素通りだったので、内田教授の著書に出会わなければ、もう過去の人だっただろう。
東大大学院教授として、相変わらず意気盛んとともに、伶俐な打算も見えかくれ。立て板に水、まったく揺れのない発言で、鉄仮面・上野、健在であった。しかし、「私の思想的スタンスは変わらないが、対象は変わり続ける」「当事者である私」の強さっていったい、なんだろうか。


12月19日

17日。早朝、神戸大橋の本土側交差点で心配していたガス欠。交通整理のおまわりさんがかけつけてくれて、すぐさま、向い側の倉庫会社の方に助っ人を依頼、みんなで押してくれて、道路外へ。ありがと、助かりました。
後で御礼にフーケのクッキー「アーリータイムス」を届けました、です。このクッキー、実は名付け親であります。
そもそも、前の日行きつけのGSに寄ったのだが、8時を少しまわっていてクローズド。後から聞くと、その後女房殿も三宮往復していたとか。嗚呼! 
往復4kmならなんとかなるさ、と思ったのが運のつき。でも、おまわりさんがいて、手伝ってくれる人がいて、幸運でした!

18日、明日のJTU理事会用資料をまとめ、年賀状の原稿をデザイナーのWくんに送り、ジョグ。でも午後2時をすぎていたためか、約40分後にはガス欠状態で、ポートピアランドからてくてくと歩き。汗をかいていたので、風邪ひきを心配したが、温水シャワーでなんとかなった。4時頃、うとうとしていたら、ピンポンで「ものみの塔」がやってきた」。いつも清楚で、にこやかで、礼儀正しい人々だ。これもキリスト教の生み出した泡の一つ。

19日。朝8時伊丹空港発なので、6時には起床。週に一日ぐらいは、10時頃まで寝ていたいもんである。
午前10時過ぎ、渋谷の事務局に到着。新幹線と変わらないのである。午後3時すぎまで理事会。予想とは違う人事、組織体制の改革。JTUの第2ステージは、ビジネスとしても成功する競技団体への脱皮だ。そのための会社を強固にして、プロの経営する協議団体になる、ということだ。 JOC傘下のオリンピック28競技団体のなかでも生き残りをかけて、会長は背水の陣をしいた。
会議の後の懇親会、トライアスロン好きの連中が談論風発するのだが、これが私の好きな時間帯だ。
午後7時半、羽田発、ジャンボは満席。ディズニーランド帰りがひときわ目につく。自宅に着いたのは10時過ぎ。やっぱり、くたびれた。それにしても、最近のウエストのふとりぐあいは尋常ではない。なんとかしなくては。


12月16日

昨日、論々神戸の32号を発信。11月14日の災害報告会の発言集だが、長文になった。これもオフィシャルではない記録なので、後日、照合すればいい。
内田先生からメール。ちょっとしたおしごとの打診だった。うまくいけば、大変にうれしい。さっそくお返事。

明日提出のシンポジウムの企画案をまとめて、帰ると10時過ぎ。娘から頼まれていたBSのビデオ録画は、李朝時代の朝鮮宮廷ドラマ『チャングム』。宮廷厨房女官の人間ドラマだが、これがなかなかおもしろい。ついつい一緒になって見ているのだが、封建時代(中国では明の時代)ゆえのしばりのなかで、権謀術数渦巻く宮廷のなかで健気に生きる登場人物に味があるし、女性たちが可愛い、です。脇役やトリックスター的人物も登場して、あきさせない。世は『韓流』ばやりらしいが、これもその一環とはいえ、歴史的事実としても初めて知ることも多いので(といっても、今年の大河ドラマ「新撰組」のように変えられたのではたまらないが)、一緒になって観ているのでありました。


12月14日

義士祭。随分昔、播州赤穂に住んでいた。幼稚園の頃、陣羽織に烏帽子をかぶり、槍をもったお稚児さんに扮して、四十七士の行列に参加したことがある、らしい。写真は残っているのだが、本人は覚えていない。白粉で真っ白の顔がなんとも、はや。
先だって、テレビで寺坂吉右衛門のドラマがあったり、忠臣蔵がリメイクされていたが、永遠にすたれないだろうな、と思わせるのは、やはり規矩のなかの忠義と武士の一分を立てたことにあるのではないかしらん。

今年最後の講義だと思って、大学院に出かけたのはよかったのだが、正門をすぎたあたりで、女学生(あたりまえか)に会釈されたので、講義でご一緒だったのかな、と思ってると、少し通り過ぎて声がかかり、「あのう、今日は講義ないんですけど…」、とためらいがちに言われて、ありゃまあ、と。さっそく院生のウッキーさんに電話したら、間違いない。
しかたなく、そのままUターンして、ジュンク堂に立ち寄り、数冊の本を求めて、頼まれたバゲットなどの食糧を手に入れて帰宅。
仕事仲間のGデザイナー・Mさんの息子、小さい頃から知っている16歳のSくんが、スペイン在住の父上、フェルナンド・バリヌエヴォ氏に(ファインアーチスト)に会いに行くので送別の宴。ところが、旅行用のコートを買いに行ってた彼が迷いに迷い、だだ遅れで、「まさしく主賓がスペイン時間にかかった」状態で、待ちきれず、同じくご近所のセラピスト、Tさん母・子と勝手に盛り上がる。
Sは父の血をひいて、背は高く(180cm)細身で、母の血をひいて色白の美少年。
いま、ギター小僧になっていて、将来はロンドンに行きたいとぬかしておるが、はたして一人旅で、なにを感じていくのやら。幸運を祈る。


12月13日

内田先生の新連載が始まったので、久し振りに文藝誌を買った。ぱらぱらめくっても知らない批評家や作家がいっぱい。売れない雑誌でも看板だから、PR誌にも似て、品位だけは保ちたい、というところなんだろうか。文壇って今でもあるのか知らないけれど、きっと様変わりしてるんだろうなあ。
「文學界」1月号で「私家版・ユダヤ文化論」。若かりし頃にヘブライ語を勉強して、原書にチャレンジしていた先生の鬱勃とした姿は想像しがたいが、フツーの人には遠すぎるユダヤ文化、第一稿を読んだ限りでは、私たち凡人にもわかる「眼からうろこ」のユダヤ文化論が展開されるに違いないと確信した。


12月12日

午前中、女房殿は塾なので、をこなし、午後から兵庫県体育協会競技力向上研修会のため舞子まで。HTA競技力向上委員のチームテイケイの八尾監督、オリンピアン小原工とともに参加。2年後の「のじぎく国体」に向けての研修だけに主催者側の切迫感が伝わる。50年に一度の国体のもつ意味をあらためて問うことになる。次の時代への資産にできなければ意味はない。
終了後、今後のJTUの方向性について八尾監督とともに「pia julien」で話す。その後、オーナーのKさんとともにゴルフ理論についてひとしきり。10時過ぎて、神戸フィルの演奏会打ち上げで、どどっと人が増えたところで、退散。
夕方から降り始めた雨が、まだ降っていた。


12月11日

昨日から始まった『市民とNGOの「防災」国際フォーラム』に午後から参加。柳田邦男、芹田健太郎、松本誠の鼎談、各分科会の報告が手短に行われ、そして、エンディングには、震災後発足した北区八多地区の中学生、高校生の太鼓を鑑賞。これが良かった。毎年、沖縄と佐渡に稽古に出掛けるらしく、ビギンの「ちゅら島(?)」をエイサーで舞い、鼓童の創作曲を最後に乱打。「よくぞここまで」と他愛もなく感動。勝手に涙がでてきてしまったのだ。まいったよ、おじさんは。
最後は、友人でもあるシンガー、摩耶はるこさんの朗々たる歌声でしめられた。震災10年という節目でのフォーラムの「神戸宣言」を発表して終幕。
最後まで参加者がもっと多くてもいいと感じたのは私だけだろうか。新聞メディアで大きく取り上げられていても、この程度か、と残念。


12月10日

小春日和というよりも、まだセーターもいらない秋日和。
息子がお世話になっている三宮のクラシック・ライブ『pia julien』のオーナーKさんのお兄様が急逝された。65歳とはいえ、お元気で柔道の先生をなさっていたのだが、突然の心不全だった。夜、女房殿とともに、お通夜に参列。合掌。


12月8日

1945年、日米開戦の日。1980年、ジョン・レノンの命日。
さまざまな人の顔が目の前をよぎっていく。

政府間同士では、もっとも蜜月期間といっていい、小泉ーブッシュの時代に、有志連合の一員としてイラク派兵一年間の延長が決まった。後世からの批判に耐えうるものとは到底思えない。衰退していくアメリカに「イヤイヤではなく、お追従した」首相として歴史に名を刻むことだろう。

高森一徳さんが急逝された。「阪神大震災を記録し続ける会」を主宰し、一年に一冊、記録集を出し続け、10年で活動の区切りをつけると言われていた。
今年最後にお会いしたのは8月頃だったろうか、「近くまで来たもので」と、いつもの柔和な笑顔とともに事務所に立ち寄られ、お仕事や世事の話をした。
いい人が天にみまかれてしまった。早すぎる。合掌。


12月7日

朝の電話で、夕刻に急遽クライアントとの打ち合わせとなり、大学院講義は休むことに。内田先生への資料を届けて、即引き返す。女学院は普段より一層静かだった。
今日は娘が外泊なので、夜は私のキーマ・カリー(彼女はいわゆるニッポンのカレーが好きだ)とする。さらに、塾を終えた女房殿はきびなごが新鮮だったのでと、フライと焼きでぱくぱくと、二人で数十匹食べ尽くす。
今日のNHK-BSは黒澤組が製作した『雨あがる』(山本周五郎原作)。二度目となるが、映画としては、山田洋次『たそがれ清兵衛』『鬼の爪』(藤沢周平原作)に軍配をあげる。
ようやく夜具に毛布が入った。女房殿ががまんしきれなくなったらしい。しかし、12月だというのに、まだ暖かい。


12月6日

夕食の「寄せ鍋」の材料をそろえていて、なにげなくNHK-BSで『カルテット』(久石譲監督)をみていたら、結構おもしろくて、最後まで見ていた。宮崎駿作品の映画音楽を担当していたら、映画そのものが撮りたくなったのか、題名どおり、弦楽四重奏楽団の4名の男女が織り成す人間成長物語。
音楽のそこここに久石フレーズが出たり引っ込んだり。あと、ロックであろうがクラシックであろうが、どさ回りは何処も一緒ということを知りました。マネージャーの気苦労は耐えませんことね。


12月5日

4日。朝のお勤め、メイの散歩、朝食、事務所でコピー作成、昼食はにしんそば、そして、内田先生の竹馬の友、リナックスカフェ代表の平川克美「反戦略的ビジネスのすすめ」を読了。みずからにあてはめてみると、いかなる差異を大きくつくりあげられているかと考えると心許ない。さらに、ポートアイランドという場所がらとはいえ、やはり、人がわざわざ用もないのにやってくるという魅力に欠けているのは事実だろう。年末は過去の物を捨て去って、あらためて事務所のイメージをつくりなおしてみたい。
夜、ギルガメシュの忘年会。雨の中、13名が集まった。6年前に富山に転勤していたU君が神戸に戻り、久しぶりの顔を見せてくれた。嬉しい限り。脳梗塞で障害者となったK君も仕事が見つかり、はじめてボーナスをもらったと嬉しいニュース。
来年は、2月のバレンタインラブラン(地元ポートアイランド)、5月の鯖街道マラソン(福井〜京都80km)、8月のファッションタウン児島大会(岡山)の3つをわがクラブのメイン参加大会とした。やはり、目標をつくってがんばろう、ということだ。ここ2年の停滞からなんとか脱却しようという意気込みである。

5日。メイの散歩、朝食、事務所で整理、お昼どきに50分のジョグ。走りながら聞いていたNHKFMで、モデル兼タレントの「はな」のおしゃべりを聞いていたら、彼女、仏像行脚が趣味だとか、なんでも上智大での美術史の講義ではまったらしい。さらには、お菓子づくりが大好きだとか。つくっては食べ、差し上げてということをくりかえしているらしい。その時間がたまらなくさわせなのだという。そのことだけで、この女性は与えることがごく当たり前という、いい資質を持っているのだなと嬉しく思った。いわば、観音様のような自然な無償の行為、「私がつくったものを遠慮せずに召し上がれ!」である。
幸い、女房殿もそうだし、娘もそうだ。彼女たちの行為は自然に周囲をなごませるのである。

昼食はあさりのペペロンチーニ、そのあと内田先生の「他者と死者」の後半部分を読む。どうにかこうにか読了。なにせラカンとレヴィナスである。凡人だけに一回だけではどうにもならぬ。今後、何度も読み返すことになるだろう。
夕飯前に、三宮のリズムボックス(中古CDショップ)で「ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番」を求める。先日、ゲルギエフとウィーンフィルのものを聞いたばかりなので、興奮さめやらぬところ、というところか。


12月1日

まだ暖かいままの師走。朝方、2日ほどロードレーサーにまたがったせいなのか、また少し汗をかいて、少し鼻グスン気味となり、ビタミンCはいつもどおりだが、今回は風邪薬を服用。なんだか、冴えない日となった。
国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉)の寺田さんが約束通り、原稿を送ってくれたので、「論々神戸」を発信。
災害と歴史と記憶にこだわる彼ならではの持論で、震災10年の展覧会(神戸・山本通のCAP HOUSEにて)も、しっかりとした展示になるに違いない。


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