混迷亭日乗 Editor's Diary

6月30日

28日。大阪にある関西外大で出かける。私の好きな劇団『クセック』(本拠地は名古屋)の公演。今年は大学の公開講座ということで無料。スペイン語学科の学生たちにまじっての鑑賞であった。演目は「プロクルプリンの恋」。同性愛に関わるものだが、相変わらず抽象的な舞台装置のなかで、けれん味のない美学が貫かれている。
今回気づいたのだが、徐々に耳が遠くなっているのだろうか。いつもの役者の台詞が聞き取れないことが時折起こっていた。
来年は愛知万博なので、スペイン館での公演が決定しているとか、演出の神宮寺啓さんが、名古屋でゆっくり語り合いましょう、ということで楽しみが増えた。

29日。とにかく暑い。電車での通学に萎えて、車で出かける。
今回は「アメリカの宗教、福音主義」。今日のアメリカの醜態の根源には、いろいろな要素があることが徐々にわかりつつある。建国そのものがかかえる宿痾がふつふつと湧いてきているのが今日のアメリカ。
講義が進むたびに、どんどん憂鬱になってくる。まさに帝国としてのアメリカは落ち目に向かっていることを実感している。で、来週は、私の発表となった。
テーマは、「ペリーから始まる日米関係、150年」。
だけど、調べる時間がはたしてあるのだろうか? エライコッチャ。

30日。今年初めての花園大学での講義。暑い、暑い。
昨年のレジュメを組み替えて、おおむね、私の思いをストレートに学生諸君にぶつける。50名にも及ぶ学生のなかには、二、三人、ZZZであったが、おおむね、よく聞いてくれたように思う。
感想を読み、来週には返事を書く。そして編集の技法についての講義に入る予定。
帰りはイラク人質事件の当事者の一人、ジャーナリスト・郡山氏の講演を聞く予定だったのだが、連絡が入り中止。急に、本人の体調が思わしくなくなったようだった。そういえば、週刊誌の見出しに氏が「自己責任も感じず、講演で稼いでいる」かのような記事が掲載されたことも、影響しているのかもしれない。
真綿でしめつけるようなメディアと世間の怨嗟に負けないで、とは思うのだが、著名人であるがゆえのしぶとさを身につけていない氏にとって、まだまだ試練は続く。
そこで、講師の坪谷さんと京都駅前で、ビールとホルモン煮込みで一時間ほどおしゃべり。
帰りの京都駅のプラットホームで、突然、ごましお頭、アロハシャツのおじさんが声をかけ、「わしゃあ、廣島からきとるんやけんど、大阪はこのホームでええのかのう。兄さん、ヒゲがようにおとる。わしゃ、滅多におとこはほめんけど、あんたはほめちゃる。大学の先生かの」と、よく通る声で立て板に水でしゃべりはじめた。(この廣島弁は自信がない?)
じっと、眼をみつめて、素直に「ありがとうございます」と答えたものの、どうもその筋の人かもしれない。車内に入ると、「まあまあ、すわりんしゃい」と席をすすめ、そのまま離れてたって、大阪で降りていった。いったい、なんだったんだろう?


6月27日。

若狭路デュアスロン大会に行かなくてもよくなったので、オフ。これ幸いとばかりに1時間余のジョグ。走り初めと当時に梅雨らしい雨が降りだした。ポーアイ2期の最南端まで走る。伴走は、チャイコフスキーの「悲愴」(トスカーニ指揮NBC交響楽団)。聞き慣れた曲ではあるが、やっぱ、いいなあ。
神戸空港に近づくこの辺りは殺風景なところだが、同じように雨のレースに終始した87年の琵琶湖アイアンマンジャパンを思い出していた。手先がふやけて白くなり、朝からフィニッシュラインまで水びたし、という有り様。アメリカ帰りの友人からプレゼントされたベルのヘルメットは当時の最先端、まるで白いカブトガニのような格好で、愛車にまたがり、湖北地方を走ったものだった。
昼食後、松本健一『第三の開国と日米関係』を読了。続いて、佐伯啓思の『20世紀とは何だったのか』へと移る。いずれも、水曜日から始まる花園大学での講義の準備に関わるもの。どんなレジュメにしようかと思っていたら睡魔におそわっれあえなくダウン。
夕方には、女房殿の誕生祝い(本当は明日)のケーキと品物を求めて、JR住吉の『CASSALADE』(カッサレード)と諏訪山下の『トアロードリビングギャラリー』へ。
ろうそくは5本で打ち止め、50歳過ぎているのだから、もういいだろう。
娘が、無花果のケーキを一口一口、運ぶたびにほめちぎる。「神戸で生まれた幸せ」とのたまう。「頼むから百貨店に出さんといてほしい」と。結局、2個たいらげた。


6月26日

久しぶりにオフとなった。朝のお勤めの後、断続的に寝た。午後1時に起きて、『アンレーヴ』の打ち合わせでトアロードまで。その後、リーガルのセールで黒デザートブーツを購入。
夜、『ヴェロニカ・ゲリン』鑑賞のためハーバーランドのシネカノンへ。ここで人生始まって以来、はじめての現象に出会った。
土曜日の夜、8時の映画館である。なのに観客は私一人のみ。誰もいない。どまんなかでの鑑賞。それはそれで気分はいいのだが、逆に不安を覚えてしまう。
150万人の都市、ハーバーランドという商業集積地、アイルランド映画とはいえ、実話に基づくケイト・ブランシェット主演のジャーナリスト魂を描いた佳品である。
50過ぎのオジンが一人で観にいくような映画、ふだん映画を観る客層と時間帯が違うというのであろうか。
この一点で、このまちの文化度までおしはかるには乱暴すぎるが、行く末には暗澹たる思いがよぎる。アイルランドの国民的ヒロイン(彼女の死後、ダブリンの麻薬関連犯罪はほぼ半減した)を描き、メディアへの希望を抱かせる映画にして、この不入り。
建物の1階に降りれば、まばゆいばかりのスターバックスに若者たちがたむろしていた。


6月24日

午後、大阪の広告代理店A社で、南米大陸横断4300kmジャーニーランの阪本真里子さんを支援する会議。お盆明けには、下見&チャレンジに出発予定なので、クルマの支援、現地情報の協力体制が急務となっている。A社としてもビジネスにつなげられるようがんばってはいるのだが、まだはっきりしない。
私としては、ネットワークで情報収集の支援をするばかりだ。


6月23日

飯田眼科。「眼圧高くなっているけど、薬切れてるの」とひとこと。夕方、点眼するほうの薬をどこにやったかわからなくて、一週間ほど切らしていたことがモロに反映。「薬つけてて、この眼圧だと、薬考えなくちゃいけないからね。私は事実が知りたいの」ともっともなお言葉。
一年前にくらべ、病状の進行は留まっているのかなとも思うのだが、視神経さま、ごめんなさい! である。
帰りにジュンク堂。今日は本を購入ぜず。朝日新聞夕刊に、昨今のベストセラー小説に関する中条省平の批評が掲載されていたが、キーワードは「フラット」。人情の欠落への憂いである。


6月22日

大学院、今週のテーマは「アメリカとシリアルキラー」。シリアルキラーとはケロッグのシリアルではなくて、無気質に連続殺人を犯す者のこと。人口比にくらべて、なぜ、アメリカに多発するのか、という重くて暗い謎の糸口を探った。内田教授の、わからないねえ、といいながらも、仮説をぐいぐいとたてていくさまは、とても小気味よい。

自らのなかにある邪悪性を認知しないとどうなるか。外部にそれを求めることで精神的にバランスをとるとしたら、やはり一神教のなかでもピュアなキリスト教信者であればあるほど、二元論で外部の他者を切ってすてることになる。
アメリカ人大衆にとって、アラブ人は他者であり、理解不能の存在となり、見ようとしなくなり、見ないものは存在していても存在しないのと同じことになる。それが邪悪なものならば、抹殺しても神の罪はない。
邪悪なものは、先住民であり、黒人であり、コミュニストであり、東部のエリートであり、フェミニストであり、同性愛者というように、時代は変わっても常に存在し続けてきた。
いつかは悪魔を追い払ってやるという情念が基層にある社会、民兵が武装することを国是としている国家には、そのような大衆の気分を代弁する政治家が多くいる。
地域共同体から邪悪とレッテル張りされると、村八分どころか抹殺されるという怖さをアメリカ社会は建国以来、内包しているのだ。


6月21日

台風6号、明石に上陸。お昼頃、暴風圏最高に。樹木の小枝の切れっぱしが事務所の前をふっ飛んでいく。
夜、HTAの常任理事会。コース案、ままならず頭抱える。お役所に直訴、しかない。


6月20日

16日。一日遅れで『論々神戸』発行。
夜、HTAの技術委員と淡路島大会コースの相談。

17日。夜6時に塾のため、事務所から離れたこと幸いに、今月はじめてのジョグ。43分で約7km。ご近所の走ることが仕事みたいなSさんと遭遇、久しぶりに話しながらのジョグだった。

18日。F薬品納品が終わり、一段落である。疾風怒濤のごとき、5月・6月だった。
夜、大阪森ノ宮でJTU近畿ブロック協議会。会議室が9時までしか使えず、もっといいところはないものか。

19日。午後、これも久しぶりにバイクを走らせて、女学院へ。体育館で、一年ぶりに光岡英稔師範による韓式意拳講習会。内田先生のHPの案内だけで、約70名もの参加。体育館がいっぱいになった。
形体8種、站椿2種(挙式、抱式)という基本の型だけをみっちり4時半まで。昨年のことを覚えてはいても、初めてと同じこと。自然体になるには遠い道のりがある。
ことばとからだ、「確認」と「体認」の違いを教わる。
「確認」とは、認知した体感を再認することで、「体認」とは、未知の体感にふれること、だそうだ。しかも、体感にいたるプロセスこそが大事であって、結果ではない。
だから、わからない。「空手の経験のある人は、妙に力がはいってしまうんだね。意識しないで、脇をしめないで、指先から自然に」と師範に指導していただいた。
次の予定が入っていたので、懇親会は残念ながらパス。

急いでバイクを走らせて、約1時間で、6時着。
高校の同級生N君(人口透析の専門医)が学会で来神しているので、T君(「unreve」のオーナー)とともに『串乃家』(これもM君の経営。NPO
国際チェロアンサンブルの代表)にて会食。その後、『pia julien』へ。クラシックのライブにはいたく感心したらしく、「うらやましいよな、神戸は。ゆったりしていて」と。
震災で芦屋の実家は全壊。その後、両親を東京に呼んで暮らしているとのこと。
彼は歴史研究会所属だったらしいが地味なのでほとんど誰も知らない。だって、県下の古刹巡りをしていたんだぜ、高校時分に。部員がたった3人だったというから、よく学校も許していたもんだ。それだけ懐が深かったんだろうな。
それが、3年になって理系のクラスに入り、苦手な数学を克服して京都府立医大に入り、研究を続け、今では人工透析で東京でも知られる病院を経営するまでになった。
談論風発、医学界の内輪話など興趣につきず、かと思えば辻邦雄の「背教者ユリアヌス」の話や江戸時代の金・銀の話など、話題はあちこちにとんだが、こんな話ができるのも、高校のカラーが持っている文化資本なんだなと実感した。

台風余波で雨。帰りの電車で、同じく高校の陸上部先輩の県庁管理職、Kさんにばったり。いまは、環境問題啓発事業の企画セクションにいるとのこと。お子さんを失ってはや2年を過ぎているが、元気そうでなによりだった。

20日。なぜか快晴。台風はどこ? 六甲の山を越えれば黒い雲、と思いきや三木のほうでも晴れていた。
朝からグリーンピア三木でトライアスロン教室の視察と大会の打ち合わせ。台風の影響は及ばず、好天となった。25名もの参加で、指導者養成委員たちも教えがいがあったようだ。5時解散。

家にいればついつい見ているNHK大河ドラマ『新撰組』は、いよいよ芹沢鴨暗殺へと向かう。一つ一つの判断の連なりが大きなうねりになっていくさま、まこと歴史とは奇怪ともいえなくもない。


6月15日

1960年日米安保条約改定反対の全学連(全日本学生自治会総連合)主流派が国会突入。東大生樺美智子さん(神戸高出身)死亡の日。思想家吉本隆明はこの日、現場にいた。
私は10歳、遠く丹波・柏原で、ラジオから聞こえる「アンポハンタイ」という言葉を」呪文のように聞いていた。
国会をデモ隊約30万人が取り巻くなか、条約は19日に自然成立。日米の絆が否応なく強くなった日として記憶しておいてよい。


6月14日

5年に一度の市民版オリンピック、ワールドマスターズゲームズ2009に立候補していた滋賀県が落選。開催はシドニーに決まった。残念である。
推測ではあるが、施設の整備、県議会での不協和音などが、アジア初開催という利点を消してしまったようだった。
招致委員会に出席していた身としてみれば、ぜひに実現してほしかった。大きなスポーツイベントの残す財産は、経済効果は当然として、それ以上に計量できない文化の継承にあるので、余計に悔しい面がある。
大阪オリンピックに続き、JTU理事在任中、二度目の敗戦となってしまった。


6月13日

あたふたと事務所で作業して、大阪舞洲スポーツアイアランドへ。阪神電車野田駅でバスに乗り換え、約30分。
あいにくの雨模様。降ったりやんだりが続いていた。大会準備に動いている大阪府協会、ランナーズのみなさん、他府県から応援の審判員など、余裕を持っているようで一安心。
夕食を大阪府協会U理事長、K審判長、S顧問とご一緒する。後は、岡山、岐阜の審判員をまじえて舞洲ロッジの部屋で懇談。11時に散会。

5時起床、というか5時半でよかったのだが、眼は勝手にさめる。みごとに晴れるようだ。
9時スタートに向けて、スタッフそれぞれが動き出した。ランナーズが入ったことによって、大阪府協会の作業負担は軽減され、その分、スムーズな運営になった。やはりイベント事業に慣れている業者が入るとサマになる。
スプリント・タイプ(オリンピックディスタンスの半分の距離)オンリーの大会になったが、かえって良かったのかもしれない。3人一組のトライアスロン駅伝も数年ぶりに復活した。チームでの出場は皆さんやはり楽しそうで、見ていても好ましい。
大きな事故はなく、成功裡に終了。
帰りは淡路の審判員の方に送っていただいて、6時前には帰神。顔とひじから下だ
が日焼けで赤くなってしまった。あらためて要注意。


6月11日

いろいろな雨が降った。しのつく雨、横なぐりの雨、こぬか雨、ぱらつき雨……
文字校正、再校正が重なったので、大阪のF薬品に届けた後、心斎橋の「テキパキ」で散髪。昨日の今日なので、はっぴいえんどや四人囃子、乱魔堂、高田渡、矢吹申彦などの話になった。
飯田眼科に行く日だったが、キャンセル。月曜日に延期。
夜、再校正の戻りに大きな変更はなかったので、一安心。後は月曜日。


6月10日

淡路島大会のコースのことで、HTAのS事務局長から電話。海峡公園事務所が公園内バイクコースを使わせない、という。「どないなってんねん! 根回しは」と剣幕。こちらも寝耳に水。代理店側の対応が、安易であったのかもしれない。
使わなきゃ大会はできはしない。担当者レベルの問題ではないな、と思う。それこそ、国体開催の責任問題となる。やれやれ、だ。

夜、リ・フォープの会合に8時まで出席。六甲山とはいっても、実は自然のままの摩耶山エリアでの野外美術展の企画。10名以上の出席で活況を呈す。六甲アイランドがなくなっただけに、作家たちも渇望してたのかもしれない。今度は山との格闘だ。

息子の誕生日は明日だが、明日は教育実習の打ち上げとかで、今日、ちょっとしたお祝いの遅い夕食となった。23歳になったのだが、大人と子どもが同居している感じ。震災前まで仕事をしていた洋菓子店『フーケ』のバーズデー・ケーキで祝杯! ご近所の友人Tさん(翻訳業・女房殿と息子同士が仲良し)が、ぽつりと
「兄妹、仲いいのねえ」という。そういえばそうだな、と納得。ともに楽しく過ごす。
明後日、彼は東京へ帰る。

急遽、さしかえとなった原稿のための素材、エンヤの最近作「A Day Without Rain」を購入。ついでにアオイレコードによったら、「はっぴいえんど」の話になって、再復刻されたCD6枚組を魅せられ、格段に音がいいとのこと、受注生産なので置いておいたらしく、アオイのおにいちゃんの「安くしとくよ」の声もあって、買うことにした。
原稿のほうは今晩やってしまえ、と思ったが、もう寝る。


6月8日

午前中、ようやく、しごとが一段落。
さっそく兵庫県体協提出用の書類3通の作成にかかる。HTAにとっては大切な補助金申請の書類なので神経を使う。結局、午後3時までには終わらず、大学院の出席をあきらめる。今日はK君のアメリカの訴訟社会、陪審員制度などについてだったはず。
夕方、HTA顧問の会社を訪れるが、自転車関連グッズの売れ行きはまだだ回復しない。口をそろえるのは、仕事忙しく休みがとれない、給与はダウン、したがって大会に参加する数が減り、競技者が減っているという。一方で、リッチな競技者もいるわけだから、まだら模様。
でも中間層が支えてきたスポーツだけに、みんな疲れているのを見るのはお互いにつらいものがある。


6月7日

4日。ぎりぎりまでかかって草稿をおこし、和歌山へ。大阪で30分待たされたので、もうこれからは、地下鉄と南海にする。
HTAのM副会長宅で、奥様の手料理をごちそうになる。Mさんは1952年ヘルシンキ五輪の400m代表選手。いまも協会の事務的な部分をしていただいている貴重な戦力だ。実にありがたいことである。気持ち良く酔って、あっという間に眠りこんだようだった。

5日。8時のバスの始発で、大会会場の和歌山マリーナシティへ。関係者にご挨拶をして、開会セレモニー、そして女子のスタートを待つ。大会を予定している滋賀県や千葉県からも大会の視察に来られている。今年で3回目となり、審判団も要領よくなり、随分とスムーズに競技運営がなされた。昨年8月の地獄のような暑さとは格段に違う。「日本はどんどん亜熱帯になっていくようだから、西日本では真夏のスポーツを禁止したほうがいい、なんてことになるかも」と救護の医師と冗談を言い合ったが、冗談ですまなくなるかもしれない。

簡単な打ち上げを終えて、9時に現地を発って、11時半に帰神。ご近所のFさん家族とMさんらの家での夕食会の終了間際だった。明日は日曜なのでゆっくり、というわけにはいかない。
原稿を夕方までに仕上げなくてはいけないからだ。

6日。本来なら内田教授の属する下川流「能」の発表会に行くはずが、ムリ。夕方までかかってしまった。しかも、容量オーバー。短縮しなくてはいけない。小泉先生の興味深いお話だけに、切るにはしのびないのだが、明日の朝には完成原稿をデザイナーW君に送らねば。
昨日の好天から雨模様になって、「unreve」の打ち上げ夕食会で、居留地の四川料理『天府』へ。W君の事務所がここのリーフレットを制作した。今日はT社長の持ちで、制作担当者による慰労会。想像どおり、甘さと辛さのバランスがとれたコースになっていて、楽しい2時間であった。社長! ごちそうさま!

7日。昨日の夜、デザイナーNさんとのやりとりがあって、今朝早く印刷所にデータを渡し、9日朝10時までに色校正を出してもらうことになった。綱渡りの時間設定である。一方のW君には、明日の朝、10時半にデータのプリントを受け取って大阪へ、という段取りになった。修正については、これまた夜中の作業。女房殿が、クルマでWの事務所へデータを持っていってくれた。

世の中の動きに、シンクロしていない。
佐世保の事件が起こったのは1日だった。それから、はや一週間になる。じっくりと考えていられない。
久しぶりにリ・フォープの宮崎代表に電話。ご無沙汰をお詫びする。今年の夏は六甲山にアートを登らせるらしい。
10日に打ち合わせがあるから、来て! とのこと。ギャラリー島田にも、足が向いていないので、なんとかしたい。


6月3日

31日。午後より松江に取材出張。新神戸からのぞみで岡山、特急やくもに乗り換えて、午後7時50分に到着。駅弁は、岡山の祭りずし。豪華なちらしで満足。さっそく、小さな旅館に入ってチェックイン後、近くの売布神社のそばのそば屋で出雲そばを食べた。じいさんばあさんの切り盛りするふつうのそば屋だったが、約30分の間、客はいなかった。つい、大丈夫なんだろかと心配してしまう。
帰って、4階の展望浴場へ。ここでも入っているのは私一人、随分羽根をのばさせてもらった。小さいけれど、北側の川に向けて露天風呂も用意されていて、火照った身体をさますにはもってこい。部屋は6畳和室の安普請ではあったが、眠るだけなので、別段困るにはいたらない。

1日。朝、ジョグ。松江城北堀端の小泉八雲旧居・記念館まで、往復約35分。お城の雰囲気がいい。堀端も縄手屋敷一帯も景観保護されていて、凛とした武家屋敷のたたずまいが残っている。すばらしい風景だ。
なにより、色合いが緑と黒と茶と白が基調となっているのがいい。それ以外の色彩は、空の青と水の碧だけだ。空気も澄んでいて、行き交う人々ものんびりしている感あり。帰ってから朝風呂浴びて(またしても一人だけ)、朝食とって、いざ、出立。
昨日とはうってかわって見事な快晴。松江駅から一駅の乃木でおりて、タクシーで県立島根女子短大へ。住宅街にあるこじんまりとした女子大だ。
小泉八雲の曾孫となる小泉凡さんは、想像どおりのあたりの柔らかい方で、アイルランドと山陰との関係の深さ、同調性など、あっという間の1時間となった。
松江に戻って、旧居と記念館を訪れ、八雲の遺品や暮らしの基盤となった部屋を拝見。庭のみどりがまばゆいばかりであった。八雲は、庭の小動物や昆虫たちと共生感をもっていたという。
午後1時半の特急やくもとのぞみで帰神。午後4時40分に新神戸に着いた。駅弁は、松江のもどり寿し。これも美味なり。
大学院は欠席となった。
この日、末松信介HTA会長(自民党県連幹事長)の参議院選挙出馬のための励ます会(神戸JC有志の主催)に顔をだした。約160名の参加。候補者5名で2議席を争う激戦区となる。兵庫県の民主党には失望しているだけに、無党派として個人を選ぶことになんら躊躇はない。HTAとしては応援しないので、個々の会員の判断にゆだねるのみである。午後8時半帰宅。


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