論々書架 Library

ここには『論々神戸』に掲載された原稿が所蔵されています。(26、27号は号外のため割愛しています。45号以降は、論々書架2へ)

●BACK NUMBERS バックナンバー

44号/
 私にできる小さなこと 「do something」
     島田 誠(アートサポートセンター神戸 代表)
43号/
 
兵庫県知事選挙について、寂しくもの思ふ
     渡邊 仁(本誌)
42号/
 
建設中の神戸空港を走ってみたら
     
渡邊 仁(本誌)
41号/
 
失ったものの大きさに気づく、のはいつのこと?
  山本敦夫(滋賀県立近代美術館 学芸員) 

40号/
 
祭礼・儀礼が中心の暮らしが続くバリ島     
     
渡邊 仁(本誌)
39号/
 
「ローカル・マニフェスト選挙」を推進しよう
     松本 誠(市民まちづくり研究所 代表)
38号/
 
経済成長フェティシズムに、さようなら! と言ってみたい
     
渡邊 仁(本誌)
37号/
 
11回目の冬。震災関連行事を鳥の目と虫の目で観る。
     
島田 誠 アートサポートセンター神戸 代表
35号/
 
「地域ケア研究所」設立にあたって一言
     黒田裕子 NPO法人阪神高齢者・障害者支援ネットワーク 理事長 
 
木造住宅耐震改修は全額公費負担で義務的に
     竹山清明 京都府立大学人間環境学部助教授
34号/
 
田中康夫・長野県知事の「よそ者、ばか者、若者」
     東條健司 ミナト神戸を守る会
33号/
 
”ばかトリオ”が岩波新書     
      大谷成章(ジャーナリスト)
 
人の街 その5     
      永田 収(写真家)
32号/
 
連続台風災害&新潟中越地震緊急報告会 
      
報告:渡邊 仁
31号/
 
子どもと震災と記憶−そのつたわり方について− 
     国立歴史民俗博物館外来研究員、「記憶・歴史・表現」フォーラム
     代表  寺田匡宏
30号/
 
“大震災被災者の最後の一人まで救済を”のこころを持ち続けて
      兵庫県震災復興研究センター 事務局長 出口俊一
 
台風23号、新潟県中越地震災害被災者の生活・住宅再建の支援策についての
 緊急5項目提案
     兵庫県震災復興研究センター
29号/
 
とある横断歩道にて   本誌:渡邊 仁
28号/
 
現場と研究者がつくるボランティア講座第四回
  シンポジウム「震災ボランティアの10年」
    報告:渡邊 仁
25号/
 
拡大EU前に訪れた三つの国 その3
  
渡邊 仁
24号/
「これって、いのちを大切にすることなの?」をいつも問いつつ
  坪谷令子(画家)
23号/
 
メディアの功罪 
  林 英夫(フリーキャスター、ライター)
22号/
 
拡大EU前に訪れた三つの国 その2
  渡邊 仁(本誌)
21号/
 
まちづくり提案型選挙をたたかって
  〜2004年市民派京都市長選挙の実験と教訓〜

  広原盛明(京都市長選挙候補者)
20号/
 
拡大EU前に訪れた三つの国 その1  
  渡邊 仁(本誌)
19号/
 
人の街 4     
  永田 収(写真家)
18号/
 
フォーラム「人間・科学・文明」(3月7日)の報告 その2
   ──「関係性」を取り戻す

  渡邊 仁(本誌)
17号/
 
自立への財源探し──MSI事業について
  島田 誠(アート・サポートセンター神戸 代表)
 
フォーラム「人間・科学・文明」(3月7日)の報告 その1
   ──「関係性」を取り戻す

  渡邊 仁(本誌編集長)
16号/
 
ちょっと気になる神戸の学校       
  中川博志(バーンスリー奏者、インド音楽研究家)
15号/
 
「市民社会」と「合意形成」     
  
野崎隆一(神戸まちづくり研究所)
 
震災10年市民検証・9年シンポジウム
 「専門家の社会的役割を検証する」(1月26日)から     
  
鈴木隆太(被災地NGO恊働センター)
14号/
 街に「オジャマ虫」出没!──NPO法人リ・フォープ in 2004
  
宮崎みよし(NPO法人リ・フォープ 理事長)
 『駅前議会』─神戸市職員「出前」はやはり?     
  
渡邊 仁(本誌 編集長)
13号/
 
大震災が生み出した新しい息吹を伝える『KOBE発災害救援』を発行                    大谷成章(ジャーナリスト)
 
木造住宅耐震補強─540万円の補助金が出ない理由(わけ)
  平戸潤也(SOHOサポートセンター尼崎 相談員)
12号/
 
「公共」と「未来」のための記憶表現に向けて
   ─ベルリン・ユダヤ博物館をめぐって─
  
  
笠原一人(京都工芸繊維大学 助手)
 
年頭所感 小さなもちつき、大きな満足 渡邊 仁(本誌 編集長)
11号/
 
人の街 3  永田 収(写真家)
 
アウシュヴィッツから戻って  季村敏夫(詩人・「震災 まちのアーカイブ」)
10号/
 
芦屋市立美術博物館問題を考える 
  
島田 誠(アートサポートセンター神戸 代表)
9号/
 
始まった震災10年─もう一つの生き方と市民社会発展の道探る
  
山口一史(震災10年市民検証研究会 代表)
8号/
 
人の街 2  永田 収(写真家)
7号/
 
チョムスキー的期待にかける  大津俊雄(プロジェ22 代表)
6号/
 
あと1巻  高森一徳(阪神大震災を記録しつづける会 代表)
5号/
 
A少年事件を考える  中島 淳(神戸芝居カーニバル実行委員会事務局長)
 
セプテンバー・イレブンス セプテンバー・コンサート   渡邊 仁(本誌編集長)
4号/
 
尼崎の現在と未来を語る7時間シンポジウム
  
出口俊一(兵庫県震災復興研究センター事務局長)
 
市民参画 ― 神戸市案と私たちのオルタナティブ(代案)
  
高田富三(市民版参画条例研究会 代表)
3号/
 
人の街  永田 収(写真家)
 
神戸はふるさとになりうるか? その4─魂が帰る場所
  
大谷成章(ジャーナリスト)
2号/
 
「兵庫空想の森大学」を夢想する  島田 誠(アートサポートセンター神戸)
 
神戸はふるさとになりうるか? その3 現代遺跡をよすがに
  
大谷成章(ジャーナリスト)
創刊号/
 
震災10年? だから何?  平戸潤也(SOHOサポートセンター 相談員)
 
創刊にあたって -- 悩ましい市民社会  渡邊 仁(本誌 編集長)
創刊ゼロ号/
 
神戸はふるさとになりうるか?  大谷成章(ジャーナリスト)
  ─その1 人は記憶によって生きる
  
   
その2 ふるさとの原風景が問うものは?
創刊ゼロゼロ号/
 
「ベートーヴェンと私」  島田 誠(ギャラリー島田主宰)
創刊ゼロゼロゼロ号/
 
「阪神・淡路大震災をどう伝えるか」  歴史資料ネットワーク


  • no.44

    ●私にできる小さなこと 「Do Something」 

    戦後60年の夏が巡ってきました。戦争と平和を巡る様々な論争が行われるで
    しょう。
    でも、お茶の間評論、居酒屋評論を超えて、私たちの未来のために、続く若い
    世代のために、殺し合いのない世界を構築するための煉瓦を黙々と積む作業を
    しなければなりません。私にできる小さな提案です。

    #Do Something
    私がDo Somethingという言葉を知ったのはマイケル・ムーア監督の映画
    「華氏911」のエンディングの字幕が下から上へと水の泡が立ち上ってくる
    ように流れて行くのを見ていて、小さく書かれたDo Somethingという
    フレーズが心の隅にひっかかりました。
    そして、昨年9月11日のセプテンバーコンサート「平和への祈り」、12月
    23日にはギャラリー島田でジャズピアニスト・板橋文夫さんのライブ「戦争
    は嫌だ!」を開催、そこでコメントを求められて、小さな石を投げる
    「Do Something」と呼びかけました。
    これらのコンサートの会場におられた歌人・画家の南輝子さんが歌集「ジャワ
    ・ジャカルタ百首」のあとがきで「Do Something」の波紋をさらに広げて
    下さったのです。

    5月24日に「ソウル国際文化フォーラム」で大江健三郎さんが、エリオット
    の詩句「われわれは静かに静かに動き始めねばならない」と題した講演をされ、
    その訥々とした語りのなかで「ほんのわずかなこと」に希望を託すと語って、
    大きな感動を与えたそうです。(6月12日日経新聞 蓮實重彦)
    Do Something=ほんのわずかなこと 
    でも確実に、日々、言葉でも振る舞いでも。みんなで。

    「怒りをこめて振り返れ」という、J・オズボーンの旧作を思い起しておりま
    す。
    そこから「闘い」に走っても朝はこない。別の「表現」を持ち寄りましょう。

     「灯」を持ち寄れば「星」になる。「星」が集まれば「天の河」です。
                   (湯布院の中谷健太郎さんからの手紙です)

    #戦争はなくならないか
    20世紀は「戦争の世紀」と呼ばれました。しかし、それ以前の世紀だって、
    至るところ血塗られた歴史です。イタリアを旅しながらイタリアの歴史を読ん
    でいました。
    日本の戦国時代が終わり、一応の日本統一の基礎ができたのが16世紀末、
    ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が、サルディニアからシチリア島までのイ
    タリア半島に散らばる小国を統一したのは1859〜70年、ほんの150年
    前のことです。そして20世紀の二度にわたる世界戦争の歴史を踏まえての現
    在があります。日本人同士、イタリア人同士が殺し合う時代に戻ることは今や、
    想像できないでしょう。EU諸国間でも同様です。
    歴史の歩みを逆戻りさせないためには、みんなが「ほんのわずかのこと」「灯
    をかかげること」「Do Something」を静かに、しかし確固として始めねばなら
    ないのです。

    #私の関わる「Do Something」  平和を考える
     ■(1)映像とトーク「戦争を学ぶミュージアム/メモリアル」
       講師:笠原一人「メモリアルすることの困難」
          寺田匡宏「戦争メモリアル、アジアを歩く」
     日時:2005年8月2日(火)午後6時半より8時半まで
     場所 ギャラリー島田
     会費:1000円
     (会終了後、出版を祝う交流会を行います。席に限りがありますので要予
      約。)
     この6月、笠原一人さんと寺田匡宏さんが、戦争、平和について考える旅の
     ガイドブックを岩波ジュニア新書として上梓しました。二人は高校時代を神
     戸で過ごしましたが、当時つきあいはなかったそうです。そんな二人が出会
     うきっかけをつくったのが阪神大震災です。
     ガイドブックが目指すものは何かを、スライドを上映しながら語っていただ
     きます。フリートークの部では、季村敏夫が聞き手となって裏話なども伺い
     ます。
     ・笠原一人さん「メモリアルすることの困難」
      広島平和記念公園、ベトナム戦争メモリアル、ユダヤ博物館などをスライ
      ドで紹介しながら、戦争を記憶すること、表現することの難しさを語りま
      す。
     ・寺田匡宏さん「戦争メモリアル、アジアを歩く」
      アジアの近隣諸国との関係が現在おもわしくありません。昭和の戦争に密
      接に係わった土地に建てられたナヌムの家、南京大虐殺記念館、731部
      隊陳列館などについて語ります。

     ■(2) 「映画 日本国憲法」  監督 ジャン・ユンカーマン 
          8月20日〜9月2日  前売 ¥1200 
          神戸アートビレッジセンター KAVCシアターにて
          期間中に戦後60年を振り返るトークイベントを予定
          上映時間など詳細は神戸アートビレッジセンターにお問い合わせ
          下さい。
          Tel:078-512-5500

     ■(3) 「セプテンバー・コンサート」
           9・11に世界の平和を祈るコンサート  
         第3回となりました。今年はがギャラリー島田斜め向かいのライ
         ブ・ハウス「クレオール」も加わります。
         東京では庄野真代さんが中心になって大規模にスタートします。
          9月11日(日) 17;30〜19;00 クレオール
                   19;00〜21;00 ギャラリー島田 
         地元の音楽家多数が出演いたします。
             入場はいずれも無料
         終了後、交流会(参加費¥1000)
             
     ■(4)板橋文夫ジャズ・ライブ  
         「震災メモリアルと平和へのメッセージ」
         昨年のライブ「戦争は嫌だ!!!」に続いての開催です。思えば、
         私の「Do Something」は、このライブに始まり、大きな波紋と
         なって、またここに帰ってきました。
         南輝子さんの個展(ギャラリー島田1F Deux)のオープニングに
    合わせての開催です。
         板橋さんの渾身のライブは魂を揺さぶります。
         2006年1月15日(日) 18;00〜 ギャラリー島田
          前売り ¥2500  

    □プロフィール Shimada, makoto
    1942年、神戸市生まれ。神戸大学経営学部卒。海文堂書店社長を経て、ギャ
    ラリー島田を経営。アートサポートセンター神戸代表。公益信託亀井純子基金
    事務局長。著書に『忙中旅あり』(エピック)、『無愛想な蝙蝠』(風来舎)
    など。

  • no.43

    ●兵庫県知事選挙について、寂しくもの思ふ 
               
    兵庫県知事選挙。ついに、選挙戦中、候補者を一度も見ることなく終わったが、
    井戸知事(4党相乗り)109万対金田(共産)35万、史上最低の投票率
    33.3%という結果を残した。

    その原因を、地元紙・神戸新聞は分析する。
    1 もともと県知事選挙は国と市町の中間というあいまいさがあるので燃えに
      くい
    2 広い兵庫県、まとまりにくいので、求心力がない
    3 中央とは違って「四党相乗りVS共産」では、はじめから勝負は決まり
    4 候補者が二人では選択肢がすくなさすぎる
    5 知名度のあがった二期目はどんな選挙でも強いので、勝負は決まり

    そして、四年間の実績の通信簿としては、「合格点とはなったが、投票率も
    「通信簿」の一つとすれば、この面の県民の採点はかなり辛めである。」と結
    んでいる。(4日 神戸新聞「正平調」)

    上記以外にも、私がつけくわえれば、
    6 とくに失政がなければ、知事には二期八年はやらせてみよう
    7 共産党にしたって、幹部でもない候補者を急に立てるなんて、有権者をば
      かにしてる
    8 無党派にしてみれば、「どちらがベターか?」という選択のとば口にさえ
      辿り着いていない。
    9 現・知事が悪がしこそうな人格に見えない
    10 選挙管理委員会のサトエリ(佐藤江梨子/タレントだそうである。私はよ
    く知らない)起用に、しらけてしまった
     などもあげられる、

    ただ、66%のサイレント・マジョリティには、間違っているかもしれないが、
    気分としては、最初から無関心(どんな選挙も投票しない)、今回はパス(上
    記のいずれかの理由)、別にいいんじゃない(共産党だけならお断りだから)、
    という県民で構成されていそうだ。

    共産党もいいかげん、負け戦を承知で候補者を立て続けることをやめたほうが
    いい。負けても負けても、「時間が足りず、有権者に浸透できなかった」「敵
    陣営の理不尽な反共攻撃だ」「政策論争を避けて通った」とか、相変わらずの
    敗戦の弁を永遠に続けるつもりか? 「責任者出てこい!」と叫ぶのが通常の
    姿勢なら、その問いの矢は、自らに立ててこそ、外部は評価する。
    候補者がいないのであれば、立てなければよい。そうすれば、現知事の無投票
    再選となり、かえって、有権者の「本当に、これじゃいけない」という動きを
    誘うことだって可能だろう。
    彼等には「期間限定の思想」という概念がない。戦後60年の「負け続け」の
    総括をきちんとしてみたらどうなんだ? 天下の公党なんだろう。
    「いや、躍進した時期もある」って言われても、失政につけこんだだけのこと、
    他力によってバランスが崩れただけのことだ。これ以上はない、というまでの
    高度な消費資本主義時代にあって、いまだ、福祉・教育・平和の諸要求貫徹分
    捕り合戦では、民心も矜持の持ちようがない。
     
    また、平成の大合併にあって、都市部、郡部という行政区分さえ、市町合併で
    郡部的性格の市部が続出し、都市部では、郡部では、という括り方も一様では
    なくなってきた。
    神戸・阪神地域、但馬地域、丹波地域、播州地域(つい最近、岡山県にわたる
    備前、美作地域も入っていることを知った)、淡路地域、これほど「くに」意
    識の異なる兵庫県、もともと「まとまりようもないところ」であれば、無理に
    まとめる必要もないだろう。各地域で生まれ育った私こそ「兵庫県人」と言っ
    ていいところだが、そうは問屋がおろさない。
     私は、持論として「廃県置藩」を持っているので、今後も未来永劫、あえて
    兵庫県としてまとまる必要はないと思っている。地方分権を言うならば、そこ
    までの射程を持っていたほうがよいと思われる。地域の力は、やはり風土から
    うまれることを再認識すべきときがもう来ているのである。

    一方で、あまり語られていないことだが、いったい誰がテレビCMまでじゃぶ
    じゃぶと費用をかけていい、としたのだろうか?
    燃える要素のない選挙戦を冷徹に分析することなく、「20代、30代の啓発」
    のために、タレントを起用し、その下心がみすかされてしまい、啓発は不発に
    終わった。
    テレビ局を喜ばせたCMの費用はいったいいくらだったのであろうか。民主主
    義のコストと言ってしまえばそれまでだが、選挙管理委員会のコストを公表し、
    その効果を測定できなかった責任者を追求するのも必要だろう。

    以上、まったくフィールドワークもしなければ、取材もしない、傍観者として
    の直感で書いてみた。間違っていることもあるかもしれないが、正直なところ
    の感想だ。
    しかし、大きな変化が起こっているなかでの小さな変化に気づかなければ、い
    つのまにやら「より大きな変化」に飲み込まれ、独善的なリーダーを仰ぐ危険
    性があるのは、民主主義の機能しているポピュリズムの時代だった、ことは忘
    れてはいけないと思っている。

    私は投票しなかった。家族には、あえて何も言わなかったが、女房殿も行かな
    かった、そして、娘も行かなかった。
    それが、「見えない文化資本」が少しは蓄積されたかに見える「一家族」にと
    っての今回の兵庫県知事選挙であった。

  • no.42
    ●建設途中の神戸空港を走ってみたら
                 本誌 渡邊 仁

    ポートアイランド2期工事区という愛想のない名称の地区。その中心地区は、
    ポートライナー「市民広場駅」から「動く歩道」で南へ800mのキメックセン
    タービル(Kobe International Multimedia Entertainment City
     スゴイ名前でしょう!)だが、昨今は、お隣の発生再生科学総合研究センタ
    ーや先端医療センターのほうがなじみなのかもしれない。退去する事業所が続
    いて、ま、それだけ影が薄いというわけである。
    そこから南の空地は、夏場に時折、可愛いガキどものポップ・コンサートが開
    かれるに十分のだだっぴろい空地(企業用地)が広がっている。

    6月12日、神戸空港開設記念の市民マラソン大会は、この空地に大会本部が
    設置されて行われた。開港されてしまえば、もう道路使用許可など降りるべく
    もないので、06年の2月16日(216のゲンをかついだのかな?)の開港
    前の実施となった。
    全国から集まったランナー&ウォーカーは約8000人。空地南側にあるスタ
    ート&ゴールゲートまで、長蛇の列が続く。主催が地元の港島自治会連合協議
    会なので、応援演奏も港島中学校の吹奏楽部。

    スタート時間を待っていると、同じHTAの副理事長Sさんもふらりと登場、
    「これいらない?」と陽焼け止めクリームを差し出す。1時間ぐらいと思って
    いたので、つけ忘れていたのだが、素直にいただいて、下腕と首筋に。

    スターターは、神戸市の鵜崎助役。なにせ開港記念のイベントだもの、せいぜ
    い盛り上げなくっちゃ。
    合図から約1分経って、ゴールアーチを通過、「神戸空港、いらない」派の二
    人、そろってじわっと走り出す。彼の勤務する会社は市の優遇措置を利用して、
    ポートライナーの設置駅のそばに自社ビルを建設するという。どのようなビル
    にするのか、担当者は彼。なぜなら、自宅新築の際にビルにした経験が買われ
    た、ってなことをぺちゃくちゃしゃべりながら、軟弱な地盤の道をゆっくりと
    走る。距離表示はなんと250mおきという細やかさ。地元の人々の人海戦術
    か。
    そういえば、恒例である2月のバレンタインラブランのときも、「手伝ってく
    ださい」という声がかからないのも、自治会や管理組合理事会などと疎遠だか
    らなのかもしれない。

    ポートアイランド2期から空港島への橋にかかる。確か800mの長さだと記
    憶するが、六甲の山並を背後に、東に大阪湾を望みながら、ゆっくりと登る。
    大した坂でもないのに、もう歩いている人もちらほら。時折止まって現状の景
    色を写真に収める。晴れ渡っているので画面が見づらい。橋の途中で2km
    地点、通過は14分。なるほどゆっくりだ。

    渡り終えると、ほぼ滑走路の東端に出る。ここで走路は一気に広がり、走りや
    すくなった。ランナーたちは左右に広がって思い思いの足取りだ。
    ターミナルビルも外観骨格などできあがっているようだが、コンクリート色の
    無味乾燥といった呈の建物にすぎない。
    足元の滑走路はといえば、幅1cmほどの溝が進行方向と直角に切ってある。
    たぶん、滑り止めか水はけのせいか? さて、どっち? 滑走路は2500m
    と聞いているから、およそ半分まで西進し、Uターン。ターミナルビルなどを
    写真に収めていると、わがギルガメシュのIくんに追い付く。しゃべりながら
    走っていたので、すぐわかった。

    で、すぐに病気の話。なんでも血尿が出たので医者に行ったら、膀胱炎ほかの
    疑いで精密検査をしたとか。「月曜に結果がでるので、それ待ちですわ」とか
    らからと苦笑する。「内視鏡が痛かったですう。胃カメラとは比べ物になりま
    せん」と「ナニ」の痛さを強調する。思わず、私も泌尿器科での検査を想像し
    てしまって鳥肌が立つ。おーこわ!

    一旦、滑走路東端まで戻って、今度はロジスティックス関連敷地を少し西へ走
    って、再びUターン、2回目のエイドステーションを通過して橋の袂に戻り、
    復路へと。あまりにゆっくりめのスタートだったので、少しきちんと走る。一
    直線に延びる道路の彼方に六甲山をのぞみ、それからゴールまで一緒に走って、
    結果、1時間弱のランとあいなった。

    で、神戸空港に話は戻る。
    残念ではあるが、できてしまうものはできる。空港建設に反対する意志を表明
    している市民グループはいても、実力阻止する勢力は存在しない(それほどの
    ものかという、神戸「地方」空港だ)。
    どうしたところで、1960〜70年代の成田開港時代の三里塚闘争とは比べるべ
    くもない。
    生そのものとも言える「耕すべき土地」を持たず、「金」にしばられない戦い
    が可能だった時代が遠くなったポストモダンな市民社会において、すべては金
    に換算される事業になっていて、いくら「都市活力の夢」を描いても、描いた
    そばから、陳腐な現実の空港になってしまう。
    また、膨大な赤字をもたらしそうな計画であっても、責任所在をのっぺらぼう
    の役職に帰するため、進行をとどめることができない。市民の意志というぼん
    やりした大義が彼らの言い分だ。
    都市の活力を呼び起こす、というのなら、新しいものにすがりつくのではなく、
    今あるものをどう生かしていくかにかかっているという時代に入り込んでしま
    っているというのに。
    逆説的な言い方になってしまうが、優雅なる停滞、衰退をめざすのが、これか
    らの日本であり、神戸であろう。

    てなこと思いながら、ゴールを過ぎて、記録の計測チップを返して、ミネラル
    ウォーターをいただいて、ナンバーカードをつけたまま買い物自転車に乗って
    帰宅。
    実にお気軽なマラソンであった。
  • no.41

    ●失ったものの大きさに気づく、のはいつのこと?
                    山本淳夫(滋賀県立近代美術館 学芸員)

    「おう、待ってたで」「あ! こないだはどうも」
    ドアを開けると、ぶら下がった怪しげなオブジェたちがガラガラと音を立てる。
    薄暗い穴蔵のような店内に散在する、さらに一種異様なものたち。トイレのド
    アからにゅっと付き出しているのはマネキンの手だ。よくみるとテーブルは足
    踏みミシンを改造したもので、ペダルを踏むと連結された物体が頭上でガチャ
    ガチャ騒ぎ出す。初めての人は異様な雰囲気に一瞬たじろぐかもしれないが、
    入ってしまえば何かに抱かれたような安心感があり、妙に居心地がいい。

    カウンターに陣取ると、すぐ後ろのテーブルでは何やら楽しそうに作戦会議の
    真っ最中。現場芸術集団「空気」の面々が、秋の「横浜トリエンナーレ」にむ
    けて妄想を膨らませているらしい。ドアが再びガラガラと音を立てる。ふらっ
    とやってきたのは大野さんだ。コンピューター・プログラマーで音楽家。最近
    はほとんど人前で演奏活動しないみたいだけれど、ギターの腕前は半端じゃな
    い。すごく透明な感性の持ち主である。「空気」のテーブルから和田さんがや
    おら立ち上がり、二人で打合せが始まる。聞けば来月、二人の映像と音のコラ
    ボレーションをここでやるらしい(そいつは楽しみだ)。そう、ここはバーで
    あり、かつギャラリーでもある。ちなみに今月は好青年、タイヨウ君の個展が
    開催中。色を変えながらゆっくりと明滅する光の玉が、いくつも天井からぶら
    下がっている…

    以上は、昨夜(5/24)のバー「メタモルフォーゼ」(阪急・西宮北口駅)
    における実際の情景である。アーティストのたまり場であるにもかかわらず、
    この場所ではなぜか自分の肩書き(美術館の学芸員)をあまり意識したことが
    ない。「芸術」とあらたまるより、もっとその原形質みたいな「なんか知らん
    けど、おもろいこと」への興味。そんな共通項を持つ「人間」どうし、会話に
    花が咲く。この春から職場が遠くなったこともあり、「メタモ」でひと息つく
    と、脱力感とともに「帰ってきたー」という実感が涌いてくる。

    何がいいたいかというと、阪神間では生活と美術の距離が近いような感じがす
    る、ということだ。この3月まで約15年間、芦屋市立美術博物館に勤めてい
    たので、単に馴染み深いということはあるだろう。ただ、美大やギャラリーな
    どのシステムが城塞のように構築されるというよりも、街なかに有機的に溶解
    してしまったような雰囲気が、阪神間にはある。美術が収蔵庫やガラスケース
    の向こう側ではなく、手にとって握りしめられる近さにある。あるいはノラ猫
    のようにその辺を徘徊しているような、そんな気軽さである。

    私が理解する限り、芦屋市立美術博物館は、そんな地域特有の文化土壌にしっ
    かりと根を下ろしていた。予定調和的な「観客参加型」とも少しちがう、「観
    客/作品」「みる/みられる」という関係が対立しながらも溶け合っていくよ
    うな事態がしばしば発生したのは、やはり阪神間ならではの磁場のなせる技で
    あったと思う。その一隅に関わっていることに、私は誇りを感じていた。
    しかしある時気づいた。残念ながら、そうした「独自性」は、ある人々にとっ
    ては忌避すべきものでしかないことを。

    アーティストの石原友明氏だったと思うが、美術館を動物園になぞらえて書か
    れた一文が、強く印象に残っている。美術はいわば猛獣であり、人間にとって
    危険な存在である。危険と魅力は背中合わせな訳だが、一方で我々は猛獣から
    身を守るため、ガラスケースや収蔵庫の向こうに美術を閉じこめなければ安心
    できない、だいたいこんな内容だったと記憶する。ノラ猫はライオンに化け得
    るのである。

    情報化はしばしば均質化を促進する。周囲と同じだと、なんとなく安心、それ
    はまぁ、わからなくもないのだが、均質化への安住を望む人々にとって、オリ
    ジナリティは時に恐怖である。現在、芦屋市立美術博物館がおかれている危機
    的な状況は、表向きは財政問題が第一の要因だとされている。しかし私には、
    開きかかったパンドラの箱を、寄ってたかって閉めるのに必死、そうみえて仕
    方がない。

    安心して幽閉できない美術。剥製化を拒み、猛獣であり続ける美術とは、いっ
    たい何なのか。どういうかたちであれ、獣はしたたかに生き残るのだろうか。
    あるいは、いずれ我々は、失ったものの大きさに呆然とするのであろうか。

    ■プロフィール Yamamoto, atsuo
    1966年京都市生まれ。京都大学文学部哲学科美学美術史卒業。90年から
    05年まで芦屋市立美術博物館に学芸員として勤務。05年より現職。主な著
    書に"Moments of Destruction, Moments of Beauty: Gutai"(共著)
    Editions Blusson, Paris 2002。主な展覧会に、「村上三郎展」96年4月、
    「美育−創造と継承」99年12月、「堀尾貞治展 あたりまえのこと」02
    年7月、「震災から10年 米田知子展」05年2月、など。

  • no.40

    ●祭礼・儀礼が中心の暮らしが続くバリ島     渡邊 仁(本誌)

    インドネシアの観光リゾート(癒しとマリンスポーツ)として有名なバリ島。
    まずは、概略をまとめてみる。

    バリ島は人口2億人を越すインドネシア共和国26州の一つで、8県(20世
    紀初頭の古典的王国の支配領域をほぼ踏襲)で構成され、人口は約300万人。
    大半はバリ島人(バリニーズ)で、都市部やリゾート観光地にはジャワ人をは
    じめ非バリ系インドネシア人(ほとんどがムスリム教徒)も居住しているが、
    農村部居住の大半はヒンドゥー教徒のバリニーズである。

    地勢上、島を東西に走る山岳地帯を境にして、北部と南部にわけられるが、北
    部は山麓が海岸に迫っているため平地が少なく、西部とともに人口密度は低く
    南部は海岸部までゆるやかな傾斜が続き、肥沃な土地と多くの河川を利用した
    水田耕作が盛んとなっている。場所によっては棚田という形態をとり、近年こ
    の光景が先進国の人々に郷愁を喚起するのか、注目を浴びるようになった。
    河川が深い峡谷をいくつもつくっているので、東西間の交通は難渋をきわめ、
    かつての王国も河川に沿って長細い領域を支配していたのだが、現在もこの地
    勢が地域・文化の特質をもたらす要因と考えられている。

    州都デンパサール、海岸部のクタ・レギャン、ヌサドゥア地区など、都市部や
    リゾートも南部に集中しており、国の外貨収入の約3割をバリ島の観光収入が
    占めているという。つまり、ちっぽけなバリ島が国の財政の幾分かを支えてい
    るのだから、バリニーズは、「バリはバリ」とばかり、警察よりは村の役員会
    のほうがこわい? という、いわば分権意識の高い地域といってよい。
    さらに圧倒的にムスリム教徒が多いインドネシアにあってヒンドゥー教徒であ
    ることは、一つの言語と一つの文化で結ばれた同質的民族集団としての紐帯が
    つよく、独特のバリニーズの生活様式をつくりあげていったのである。

    バリ島には地域社会、村といったニュアンスを持つ「デソ」という言葉がある。
    これはバリニーズが生活する領域の地域社会で、伝統的な慣習村と行政村、集
    落(バンジャール)、水利組合(スバッ)、親族集団などを含むバリニーズの
    生活空間のことだ。バリ島には多くのデソがあり、寺院祭祀(寺院といっても
    日本でいう神社に近い感じ)や儀礼に関わり、地域社会の連帯感やライバル感
    情を支えている。

    デソでは、村長らの役員が定期的に会合を開き、寺院祭礼や行事をしきり、行
    政村からの通達などを末端まで人々に伝える。
    少し小さい単位のバンジャールでは、集会を定期的に開き、固まって居住して
    いる構成員の婚姻・出産・離婚・相続、火葬の協力など、相互扶助を行ってい
    る。デソとバンジャールは同心円的に重なる関係と言える。
    スバッは水田の灌漑、農作業の組織的運営、脳業に関する祭祀儀礼を扱う組織
    で、通常、一家族は複数のスバッに属していることが多い。水田の場所にもよ
    るが、相互に協力しながら収穫を増やすという意味があると考えられる。
    デソはバリ島のヒンドゥー化以前の形態とされ、バンジャールはヒンドゥー王
    権の浸透した地域に特徴的であり、行政村とあわせると複雑ではあるが、バリ
    ニーズは漠然としながらも上手に使い分けているようだ。

    さて、家族と親族について触れてみよう。父系の書く大家族が居住する屋敷
    (我々には宅地といったほうがわかりやすいかも)は、4つのカースト(身分
    制度)によって名称は異なるが、いずれにしても屋敷の北東には祖先を祭った
    小寺院があり、大家族の皆で祭祀儀礼を行う。ちなみに父系の親族は本家の祭
    祀儀礼にならって行うことになっている。
    食事と調理は親と子から成る核家族が行い、この単位がデソやバンジャールの
    構成単位、社会生活の基本単位となる。

    これに関していえば、ウブッドで最初に食べたナシゴレン(バリ風チャーハン)
    を提供した店は、屋敷のなかのそれぞれの家族の住居(一部屋+開放された居
    間)がテーブルになっていて、なにやら日本の民宿の居間がそれぞれ個別に分
    割された食事といった呈で、ゆったりとしていた。
    余談だが、気温30度のなか、ピリ辛の食事とビール(宗主国オランダのせい
    でハイネケン製ビンタンという)の上手いこと! ではありました。

    話は戻るが、総じてバリニーズの社会生活は、寺院祭祀儀礼に深く規定されて
    いて、成人の場合、地域の10以上の寺院に関わることは普通で、その多くは
    210日周期でめぐり来て、そのうえ人生儀礼や暦の上での諸儀礼が加わり、
    毎日の供え物献納儀礼があるのだから、聞くところによれば、およそ一年のう
    ち三分の二は儀礼に関わるということになってしまう(正確にはわからない)
    ……。

    すごいよね、これって。

    朝早く起きて、市で食材を仕入れ、家族の食事をつくり(一日分をつくってし
    まう)、子どもを学校に送りだし、農作業をはじめとするお仕事をして、供え
    物(椰子の葉で編み、手の込んだ儀礼食─りんご・バナナ・オレンジなど果実
    もたっぷり)をつくり、頭上に乗せて寺院に持っていき、お参りして、お下が
    りをいただいて持ち帰り、皆でわけ、夕刻の食事は屋台でいただき(家の食事
    の延長線にある)、そぞろ歩いて(といっても最近はバイクかも)家に帰って、
    というのが典型的な農村部のバリニーズ女性のライフスタイル、なのである。
    男はいったい何をしているか? 見ている限り(見えないところで働いてはい
    るのだろうが)よく働いてそうには見えない。父系家族ゆえの存在感はあるの
    だと思うのだが……。

    今回のバリ島訪問のきっかけとなったウブッド在住5年になる画家Mさんによ
    れば、「バリニーズは、なによりも村を第一に考えている。国だの世界だのは、
    遠いもの。祭祀儀礼中心の暮らしだから、ややこしいことはそんなにない」
    つまり、疑い深さや、教条的スタイルの欠如であったり、形而上学的なことへ
    の無頓着さは、ポストモダンに突入した先進国の民からみれば感動的でさえあ
    る。

    滞在中、うっかりしていてレンタカーがウブッドの街中でガス欠に。とまった
    ところがちょうど、スーベニールショップの店先の近くだったので、そこに居
    たおばちゃんに、Mさんが現地語で交渉。近くのカソリンスタンドまで、チッ
    プを渡して2リットル、バイクに乗って買ってきてくれることになった。まさ
    に互助(相互扶助)である。こちらはわずかのチップで助かり、彼女は臨時収
    入を得たわけである。

    ウブッドは観光地なので、街の中心の市場でも売り子が声をかける。「安いヨ!
     安いヨ! 千円! 千円!」。「不要なものは不要だ」というこちらの感覚
    とすれ違う。Mさんいわく「安いから、まとめて土産を買ってしまう日本人が
    多いので、声かけられるのでしかたないね。哀しそうな目がたまらんでしょ!」
    と言って苦笑。

    かくいうバリニーズの暮らしぶりが、先進国の芸術関係者や学者たちに安堵感
    を与えるのだろう。ウブッド周辺には約800人ともいわれる外国人が居住、
    もしくは別荘というかたちで、バリニーズと共生している。
    バリニーズのスタンスは明快だ。「外国人は外国人。私たちは私たち。雇用も
    してくれるし、現金を持ってきてくれる」という感覚か。
    Mさんの借りている家の大家さんは12人姉弟の長女、末の妹さんがMさんの
    世話をする。掃除(なにせいろんな虫がやってきます)、洗濯(アイロンまで
    かけてくれます)のお手伝いさんとして雇うことが条件になる。

    また、ここでは、必要以上にお金もうけに走る人種はいない。儲けても、寺院
    が大きくなったり、祭祀儀礼にお金を投じるので、地域にお金は戻ってくる。
    カースト制度はあるものの、インドのように職業の固定もなく、貧しいものは
    貧しいことで卑屈になる必要はないし、金持ちは金持ちでいばっている様子も
    ない。
    五つ星ホテルのフォーシーズンズやアマンダリがあるにもかかわらず、ベンツ
    なんてウブッドではついぞみかけず、州都デンパサールでかろうじて走ってい
    る程度。要するに、この村の雰囲気を壊すことなく存在しているのならば、い
    いですよ、という暗黙のメッセージが自然にあるのだろう。さらにいえば、そ
    れを担保するという意味で村の役員会が存在するわけだ。
    地域の村落共同体が強固に存在することで、バリ島は世界の時の流れと違う時
    間帯を生きているようの思えてならなかった。

    壊れてしまった地域共同体から、なんとかそれにかわる紐帯を持つものを再構
    築しなければならない我々にとって、失ったものはあまりにも大きいのかもし
    れない。
                                 (この項了)

  • no.39

    ●「ローカル・マニフェスト選挙」を推進しよう    松本 誠

    永田町と国会周辺では、今年は選挙がない年ということで与野党ともに緊張感
    が緩みきって、国会論戦も迫力を欠いている。地方でも統一地方選のちょうど
    真ん中の年で緊張感を欠いているが、どっこい、今年から来年にかけて地方自
    治の現場では“選挙の年”である。神戸では6月に兵庫県知事選、10月に神
    戸市長選が控えているが、兵庫県はじめ全国的にも市町村合併に伴う首長と議
    会選挙が今年から来年にかけて目白押しである。

    そんな情勢を踏まえて、昨年秋に「ローカル・マニフェスト推進ネットワーク」
    という新しい運動が立ち上がっている。前三重県知事の北川正恭早稲田大学教
    授が同大学内に「ローカル・マニフェスト研究所」を立ち上げて、目白押しの
    地方選挙を「ローカル・マニフェスト選挙」にしようと同志と共に全国を奔走
    してネットワークづくりを進めた結果、関西はじめ北海道、中部、中国、九州
    など全国8ブロックで分権型のネットワークが立ち上がった。
    関西では1月末に大阪で「ローカル・マニフェスト推進ネットワーク関西」
    (代表・新川達郎同志社大学大学院教授、木原勝彬NPO政策研究所理事長/
    事務局・大阪のNPO政策研究所内)が発足した。筆者も呼びかけ人として運
    営委員の一員に加わっている。

    ローカル・マニフェストとは、一昨年11月の衆院選で初めて登場した“マニ
    フェストによる選挙”を自治体レベルの選挙でも広げようという運動である。
    「マニフェスト」とは従来の「口先だけの公約」ではなく、具体的な目標達成
    内容や達成時期などの数値目標を明確にし、政策を市民に分かりやすく説明し、
    事後評価を分かりやすくする「政策選挙」をめざすものである。

    自治体選挙にマニフェストを導入することによって、次の3つの効果が生まれ
    る。
    一つは、従来の地縁、血縁、利益誘導の組織型選挙を脱却し、分かりやすい政
    策によって有権者が選択できるようにすること。
    二つ目には、すべての候補者がマニフェストを掲げるためには、行政が持って
    いる行政情報をすべての候補者に公開するという情報公開の徹底が前提になる
    から、現職が入手できると同様の情報をすべての候補者に公開しなければなら
    ないことであり、情報公開が一層促進される。
    三つ目には、候補者同士がマニフェストを掲げて政策論争をおこなうことが促
    進され、公開討論会等による政策論争の機会が市民に提供される。

    こうした結果、選挙が市民に身近なものになるとともに、政策について市民が
    積極的にかかわる機会が促進されて、市民の“選挙への参加”が進む可能性が
    生まれる。

    マニフェストは、選挙戦の中で市民に配布されなければ意味を持たないために、
    一昨年の衆院選では急遽、公職選挙法が改正されて、国政選挙に限ってマニフ
    ェストの配布ができるようになったが、地方選挙については選挙中の文書の自
    由な配布は禁止されている。したがって、ローカル・マニフェスト選挙の推進
    には、公選法の改正が不可欠で、この運動には公選法の改正による政策選挙の
    自由化という副産物が射程にのぼっている。マニフェストの配布のみならず、
    選挙を市民の手に取り戻す「市民参加の選挙」制度を実現するためにも、ロー
    カル・マニフェストの推進は大きな意味を持ってくる。

    全国8ブロックのネットワークが連携するために、すでに全国組織としてのネ
    ットワークも発足しており、これに呼応する形で「ローカル・マニフェスト推
    進首長連盟」も発足している。
    3月16日現在、知事20名、市区長118名、町村長61名の計199名の
    首長が参加しており、いわゆる改革派首長といわれる首長を中心に来るべき選
    挙には率先してローカル・マニフェストに取り組むことを宣言している。もち
    ろん、主張連盟に参加している首長は、マニフェストを作成するだけでなく、
    現職として自らが得られる行政情報をすべて候補者に公開することや、公開の
    討論会に出席することを条件としている。現職がマニフェスト選挙を確約する
    ことによって、当該の選挙ではマニフェスト選挙は間違いなくおこなわれるこ
    とになる。

    さて、兵庫県でも知事選や神戸市長選はじめ、これからおこなわれる首長選挙
    に是非ともマニフェスト選挙を導入したいものだが、すでに差し迫っている知
    事選でマニフェスト選挙をおこなうようネットワークのメンバーから井戸知事
    に働きかけたが、今のところ否定的な態度を示されている。マニフェスト選挙
    を拒否することは、市民に分かりやすい政策によって堂々と選挙をたたかうこ
    とを否定することと受け取られかねない。情報の公開や公開討論に応じること
    にも消極的だとみなされかねない。

    まだ知事選への出馬表明もなく選挙の構図はこれからだが、神戸市長選も含め
    て新しい「市民参画の選挙」を実現するために、ローカル・マニフェスト選挙
    へのうねりをつくっていきたいと思う。「参画・協働」の行政をうたうなら、
    ローカル・マニフェスト選挙への賛同はその第一歩になるはずだからである。
    知事選や神戸市長選以外の県内の首長選でも、こぞってマニフェスト選挙を実
    現していきたい。
    ちなみに、兵庫県内で上記の首長連盟に参画している首長は、蓬莱 務・小野
    市市長、渡部 完・宝塚市長、山中 健・芦屋市長、赤松達夫・稲美町長の4
    首長である。

    □プロフィール
    1944年、明石市生まれ。神戸新聞社で36年間、記者活動などを経て03
    年2月退職。同年4月の明石市長選に立候補し次点。「市民まちづくり研究所」
    を設立して、まちづくりの支援やアドバイス、コーディネーターなどで活躍。
    関西学院大学で「ジャーナリズム論」や「市民の政治学」、桃山学院大学で
    「都市政策論」、神戸学院大学で「明石まちづくり学」を講義。兵庫県の震災
    復興誌編集委員、武庫川流域委員会委員長、千種川委員会副委員長。明石まち
    づくり研究所代表幹事、明石まちづくり市民塾運営委員、明石を変える市民の
    会代表、市民社会推進機構幹事、自治・分権ジャーナリスト関西の会事務局等。
    主な著書に「阪神・淡路大震災10年」(岩波新書、共著)「市民が変える明
    石のまち」(文理閣)「分権・合併最前線」(文理閣、編著)「21世紀社会
    の構図」(文理閣、編著)

  • no.38

    ●経済成長フェティシズムに、さようなら! と言ってみたい

    この間、『経済成長神話からの脱却』(原題『GROWTH FETISH』)
    Clive Hamilton著、アスペクト刊、を読んだ。経済物にしては珍しく
    オーストラリアの学者というので、気になっていた。
    さらに、経済成長を「良いもの」とする多数の経済学者はもちろんのこと、
    「景気の回復」を望む圧倒的多数の有権者がいるこの国で、「そうじゃないぜ」
    というカウンター・パンチを期待していたのだ。 

    みなさんもよく聞いていることだろうが、GNPや平均所得が世界のトップレベ
    ルであるにもかかわらず、国民の「幸福感」は、それには遠く及んでいないの
    はなぜなんでしょう?

    と思っていたら、ちょうど、作家の村上龍の発行しているメールマガジン
    『JMMマガジン』(3月14日号)では、氏の質問「経済成長についてどのよ
    うに考えればいいのか」について、金融、経済の専門家7名がいつものように
    回答している。

    大雑把ではあるが、私なりに理解すれば、経済成長を疑いもなく肯定している
    のが4名、明確に懐疑的な態度を持っているのが1名、残りの2名は、現実の
    経済成長における恩恵が一部に集中することが果たして「幸福」なのかと逡巡
    を表明している(幸福感は個人的なものというのは承知のうえでの話である)。

    どうも、我々の経済感覚は、刷り込みされすぎているようだ。

    曰く、
    環境問題に取り組めば経済が停滞し、世界の競争から落ちこぼれて大変なこと
    になる。
    少子化、高齢化で、社会負担が大きくなって、増税は避けられない。
    広告宣伝の規制をしたら、自由度がなくなって、活力が落ちる。
    などなど。

    消費者資本主義への決別とは、消費者主権、マーケティングという戦後の王道
    へのグッドバイを意味し、市民主権とかさねるむきには、依って立つ基盤がく
    ずれるので、困惑するかもしれない。

    でも、911以来、固い信念をもつノーム・チョムスキーが、帯で「これこそ、
    待ち望んでいた書だ!」と叫んでいるのだから、だまされたつもりでお読みに
    なることをお勧めする。きっと、世界が違ってみえることだろう。 
     
    要するに、停滞する経済いいんでないの、ほどほどで幸せに生きられればいい
    んでないの、よけいな背伸びはしないんでいいの、極東の小さな島国でいいん
    でないの、「いいじゃないの、しあわせならば」主義、というのか、「ほどほ
    ど」主義というのか、グローバル(アメリカン)・スタンダードにはのらない
    生きかたを、模索していこうじゃないか、という提言なのである。

    これをきっかけに、同じオリジンを持ちながら、アメリカとは一線を画してい
    るカナダやオーストラリアの地政学的ポジショニングをまともに考えてみては
    いかが?

    神戸に活力を取り戻すべく、行政や経済界や少なからぬ市民は、神戸空港にす
    がる思いで期待しているようだ。
    また、復興なった神戸を世界に見てもらいたいとして、観光に力を注いでいく
    ようだ。
    しかし、私には、そのための設備投資がちっとも美しいものに見えはしない。
    ぺらんぺらんの映画のセットの街ではなく、歴史が重層的に見える街にはなら
    ないのだろうか?

    スローガンだけは、「優しさと温もりのある都市」「いきいきとしてこころ豊
    かな都市」「国際感覚溢れる都市」など、当たり前すぎて非のうちどころはな
    いが、いつまでも経済成長、経済活性化を叫ぶのではなく、シフトダウンの快
    感を味わうことで、まがまがしい金のにおいがするところから遠ざかることが
    できれば、おのずと品格というものは備わっていく、と愚考するのだが、いか
    がだろう。

  • no.37
    ●11回目の冬。震災関連行事を鳥の目と虫の目で観る。     島田 誠

    震災10周年の喧騒がようやく終わりました。自分が関わったもの、気になっ
    たものなど、駆け足で走り回った日々でした。「10周年記念行事」という祝
    祭的言葉にどうしても違和感があります。10周年に違いないのですけれど
    「11回目の冬」が一番ぴったりします。
    親しくしている方、お二人から「実は」と「一人娘を亡くした」「家で預かっ
    ていた甥を亡くした」と打ち明けられました。お二人とも、10年間、胸に秘
    めていたからこそ、全力で新しい文化活動に取り組んでおられますが、多くの
    祝祭とは遠い人々のことを思わずにはおれません。

    それにしても5周年、10周年と「ありがとう」「わすれない」と助成金の大
    盤振る舞いでした。それから生まれた大切な成果があることは承知しています。
    でも最初に事業の規模ありきで、平等主義で助成金がばらまかれるのは釈然と
    しません。それが次の文化の創造へ繋がっていくものでなければ意味がないと
    思うのです。

    数多のシンポジウムや講演があり、組み合わせは変われども、内容に新味が少
    なく、私のような活字人間には、全体像の検証は書籍に勝るものは無いのです。
    その中でも、あげておきたいのは次の三作品です。

    ◆震災10年市民検証研究会による『阪神・淡路大震災10年・市民社会への
    発信』(文理閣)は実に丹念に検証を重ねてきた結実です。私も執筆者の一人
    として本制作の現場を見てきただけに、関わった皆さん方の真剣さに打たれま
    した。3周年「市民がつくる復興計画」、5周年「市民社会をつくる 震後
    KOBE発アクションプラン」を受けて膨大な議論を積み重ねて纏め上げたもの
    です。
    「官」が行った検証に対して市民サイドの検証としては最良の本ができたので
    はないでしょうか。震災の体験で得た成果を伝えるという強い意思を感じさせ
    ます。

    ◆岩波新書『阪神・淡路大震災10年―新しい市民社会のためにー(柳田邦男
    編)』は、上の検証成果の普及本的な意図で、取りまとめを柳田邦男さんにお
    願いし、筆者は山口一史、大谷成章、松本誠。くらしの再建を求めて立ち上が
    った「自律市民」の多彩な活動を紹介しながら、教訓を伝えています。発刊後
    すぐに重版となり、2万部を超えたそうです。
     
    上記の本がNGO/NPOサイドからの検証とすれば、もう一つ。

    ◆『大震災10年と災害列島』(兵庫県震災復興研究センター編・クリエイツ
    かもがわ刊)が、より防災、経済、建築、行政、福祉などの専門家サイドの検
    証として注目されます。田中康夫(長野)片山善博(鳥取)橋本大二郎(高知)
    各知事が大災害への備えを語っています。但し、私は通読していません。

    *岩波ジュニア新書『神戸 震災をこえてきた街ガイド』(島田 誠/森栗茂
    一)は手前味噌で加えておきます。直接、震災について書いているわけではあ
    りませんが、知っているようで知らない、災害を乗り越えてきた街、神戸の歴
    史をわかりやすく書きました。

    C.A.P(旧海外移住センター)で1月14日〜23日まで、『震災10年 
    阪神大震災・記憶<分有>のためのミュージアム構想』展、2005年冬」が
    開催されました。この歴史の記憶を刻んだ場所とC.A.Pというアート・プロジ
    ェクトと主催団体である{記憶・歴史・表現}フォーラムの理念性が見事に交
    差した試みに多いに触発されました。「体験する」「記憶する」「伝える」と
    いうことの意味を問い直す試みで、ここでも深く議論され周到に準備されたも
    のが及ぼす力を実感しました。
    この中で、私もお手伝いした1月22日の音楽と詩のセッション「途上にてー
    投げ壜、足音、声―」で港大尋率いるバンド“ソシエテ・コントル・レタ(国
    家に抗する社会)”の音楽と朗読セッションした詩人・金時鐘(きむ・しじょ
    ん)の、社会性を失って<私>に閉じこもる日本現代詩の状況を嘆き、
    「私は詩を書いているのではない、詩を生きているのだ」
    との言葉が耳に残りました。

    阪神淡路大震災は近代都市を襲った類のない自然災害でした。それらの教訓と
    して「防災」「減災」の技術、知恵が研究され、伝えられねばならないのは当
    然です。しかし阪神大震災の災禍は、「原爆」も「沖縄」も「ホロコースト」
    「スマトラ沖津波災害」をも決して越えることはできません。

    では何を伝えるべきなのでしょう。

    日本という近代文明先端都市において6433名の犠牲者出したことに止まら
    ず、数十万の人が死ぬかもしれないという恐怖を抱いた。私はそれを共同臨死
    体験と呼んでいますが、その体験が21世紀を迎えた社会の変革を促しつつあ
    るということだと思います。

    上記の書籍に共通しているのがNGO/NPOなどを含む「自律市民」の誕生に
    よって行政や地域との新しい関係性が社会全体の変革へとつながっていく姿で
    す。撒かれた種は、育って木となって成長している姿を見ることができます。

    しかし、共同臨死体験が未来を先取りして社会を変革するという私の高揚した
    思いは、自律市民の誕生と「参画と協働」の流れの中に生かされはしましたが、
    木が林となり緑豊かな森となるには、100年河清を待つ絶望的な気分の中に
    沈んでいきます。
    相も変らぬ行政の姿勢と、それに擦り寄る市民の依存体質の壁を崩すのは容易
    ではありません。

    公共事業の分野で取りざたされる官との癒着は、じつは学術・芸術の分野でも
    実に巧妙に仕組まれていて、忠誠度に応じた、あからさまなでない「利益供与」
    のシステムが精緻に作りあげられており、いまだに温存されているのです。私
    もかつては、その中枢にいただけに、その無邪気なまでの「もたれあい」は、
    隠微なだけに罪悪感すら麻痺しているのです。
    それに反旗を翻す私などは、茨木のり子さんの詩『よりかからず』を鼻唄のよ
    うにリフレインしている以外、なすすべもないのです。

    □プロフィール Shimada, makoto
    1942年、神戸市生まれ。神戸大学経営学部卒。海文堂書店社長を経て、ギ
    ャラリー島田を経営。アートサポートセンター神戸代表。公益信託亀井純子基
    金事務局長。著書に『忙中旅あり』(エピック)、『無愛想な蝙蝠』(風来舎)
    など。

  • no.36
  • no.35
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    目次◆1 
    「地域ケア研究所」設立にあたって一言
         寄稿者:黒田裕子 NPO法人阪神高齢者・障害者支援ネットワーク
             理事長 
       2 
    木造住宅耐震改修は全額公費負担で義務的に
         寄稿者:竹山清明 京都府立大学人間環境学部助教授
    ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
    ●「地域ケア研究所」設立にあたって一言     黒田 裕子

    阪神・淡路大震災を契機として災害看護に取り組んできた、兵庫県立大学看護
    学部が、「地域ケア開発研究所」を誕生させたことは、地域に存在するものに
    とっては、とてもうれしい話である。
    あの日、あのときから10年を迎えることとなった今、このような研究所がで
    きたことは住民にとっても安心である。

    大都市の直下で起きた大規模地震は、未曾有の被害をもたらしただけでなく、
    医療・福祉・地域社会・くらしのあり方にも大きな変化をもたらした。
    いまだ、あの音、臭、耳元で聞こえるあの声は忘れることはできない。
    1995年1月17日午前5時46分、阪神間及び淡路島は壊滅的な被害を受
    けた。6433名の尊い命の多くは高齢者であった。また生き残ったものも高
    齢者であった。そのため高齢者型震災と名づけられた。

    災害は突発的に来襲し、人としての「いのち」や財産、コミュニティーを壊し
    た。
    更には生きる気力さえも奪ってしまった。この間において見えてきたことは、
    「地域」が「地域」を支え、「地域」と「暮らし」が一体化になった中ではじ
    めて、人間が人間らしく生きることができることである。
    我々が生きる原点も「人間」と「暮らし」である。その人の生活様式をきっち
    り把握して、その人らしさを尊重したケアのあり方を考えることである。
    阪神・淡路大震災は、我々医療者にとってもそうしたことを考えるきっかけと
    なり、看護の再構築ともなった。

    そんなときに、このたびの「地域ケア開発研究所」の設立は大きな意味がある。
    研究所においては、地域の人々の様々な医療・介護の相談に対応し、災害情報
    も入手できる情報ネットワークの形成に取り組む、としている。地域の中で生
    活している我々は、毎日の生活の中で、複数の人々と、直接的、間接的に関わ
    っている。いろいろな人と固有な関係を持ちながら時には、お互いが支えあっ
    たり、助けあったりしている。

    地域は複雑化、多様化しているのが現状である。これからの新しい社会を考え
    たとき、「地域」が「地域」を支えていかなければ危機管理もできない、「安
    全」「安心」な「まち」に誕生することさえも難しい。

    いつ、どこで何が起きるかわからない現状の中で、常に地域をしっかりとらえ、
    アセスメントをしておくことが大切である、そのことが「防災」「減災」につ
    ながっていく。
    病院から自宅に帰る人々も多くなってきている、多くの人は在宅医療を受けて
    いる。そのために自宅酸素療法をする人、吸引を必要としている人、人工透析
    をしている人、ガン末期の人、地域の中でニーズが多様化し複雑になってきて
    いる。

    そのためにも看護師、保健師、医師は地域に介入をするにあたって地域の特性
    をとらえるための地域をアセスメントすることが大事である。
    コミュニティーの中でのケアのあり方は重要である。
    これからの新しい社会を考えたとき「地域」が「地域」を支えていかなければ
    危機管理はできない。いつ、どこで、何が起きるか判らない現状の中で、常に
    向こう三軒両隣りの人々だけでも、今、どんな情況中で生活されているか、な
    にかあったときには、そこに誰が助けに行くのか、地域の中での支援体制のシ
    ステム化が大切である。地域社会が複雑化、多様化する現状ではシステムの構
    築が重要である。

    一方で、これからの看護教育の視点も地域社会で暮らす人々の生活実態をとら
    え、その地域社会がどのような状況であるかを、把握するようにすることが大
    切であり、また、その地域は日本全体の中で、どのような位置づけであるのか、
    そして、どのような意味を持っているのかを常に考えておくことも必要である。

    今後の「地域ケア開発研究所」を成熟させようとしたとき、「看護のあり方」
    をも同時に考え、常にその人が「どんな地域の中で生きているのか」に視点を
    あてたケアのあり方を配慮し、「きめ細やかな目配り、気配り」のできる看護
    実践こそ生きたケアであり、ひとりの人としての「いのち」を重んじることが
    できる。

    災害より誕生した「地域ケア開発研究所」であるからこそ、地域で暮らす人々
    の「安全」が守られるような生きたケアのあり方、システムの構築・地域連携
    のあり方などの開発ができることを期待する。そのことが「人間」と「地域」
    と「暮らし」の一体化に結びつく。そして、地域ケア研究所が「人間存在の研
    究所」であることを願う。
                                  
    □プロフィール Kuroda, hiroko
    宝塚市民病院副総婦長時代に阪神・淡路大震災に遭遇。すぐ、ボランティア活
    動に従事、同年7月に病院を依願退職。阪神高齢者・障害者支援ネットワーク
    の副代表を経て現職。しみん基金・KOBE理事長、日本ホスピス・在宅ケア研究
    会副理事長ほか、兼務職多数。2004年度朝日社会福祉賞を受賞。著書に
    『阪神・淡路震災下の看護婦たち』医学書院、『固定チームナーシングの導入
    と実際』サンルート・看護研修センターなど。
    ───────────────────────────────────
    ●木造住宅耐震改修は全額公費負担で義務的に     竹山清明 

    予想される大震災に備える対策として最も重要であると思われるものに、既存
    木造住宅の耐震補強がある。木造住宅が倒れなければその下敷きになって亡く
    なる人はいない。また倒れなければ出火は大幅に減じ、関東大震災のような延
    焼による大火災被害はくい止め得る可能性が高い。阪神淡路大震災では発生直
    後に木造住宅の倒壊により88%、それに続く火災により10%の人々が亡くな
    ったが、木造住宅が安全であればこの被害は大幅に減じたに違いない。

    阪神淡路大震災以前も現在も、行政の都市防災の基本的考え方は建物倒壊と火
    災発生をやむを得ないものとし、道路やビルの防火区画で延焼を防止しようと
    するものである。しかし防火区画が効果を発揮したとしても、人々は命や財産
    を失うという大きい被害を受ける。今後の都市防災は、倒壊や出火をやむを得
    ぬものとするのではなく、住宅や建築を「倒さない、燃やさない」ように補強
    して最初の被害を最小限にすることを原則とするように改善すべきである。

    全国の少なくない自治体で木造住宅の耐震補強が取り組まれているが、その実
    績はなかなか上がらない。例えば、収入階層によっては満額近い補助を出す横
    浜市でも、改修事例は対象戸建て住宅総数の0.1%程度である。聞き取り調査で
    は、老後のための貯金を耐震補強に使いたくないという考えが大多数であると
    の結果も示されている。

    私は木造住宅の耐震補強は基本的な部分については、全額公費負担で実現すべ
    きであると思う。次の理由で非常に公共性が高いと考えられるからである。

    1 多くの木造住宅が倒壊して出火原因にならなければ、延焼による大規模火
    災の恐れは大幅に少なくなる。その意味で、火災の原因にならないための最小
    限の耐震補強は、極めて公共性が高いものと判断される。
    2 木造住宅が倒壊し逃げ道をふさがれれば、火事や津波が迫っていても避難
    することは困難になる。このように避難路を確保する意味で、木造住宅が完全
    に倒壊しないレベルでの耐震補強には、同様に公共性があると考えられる。

    対象の全住戸でもれなく速やかに耐震改修を実施するためには、必要最低限の
    工事費を全額公的負担とし、義務的に改修工事を行う必要がある。このような
    義務的な公的改修工事の成功した前例としては、便所の水洗化の例がある。公
    的資金による個人資産形成と否定するむきもあろう。しかし被害の重大性と公
    共的な必要最低限工事に限る限定性を考慮すれば、このような論難には賛成で
    きない。

    さて、この取り組みでどの程度の公的な費用が必要なのであろうか。
    最小限の耐震改修として住宅の四隅の柱の周辺1mを合板で補強するのであれ
    ば、1戸当たり100万円程度では可能であろう。危険といわれる対象戸数は
    1300万戸で、総工事費は13兆円となる。3カ年計画で実施するとなると
    年5兆円以下である。
    決して少なくはないが、失われるであろう多数の人命と、場合によっては数十
    兆円あるいは百兆円を超えると推測される被災額を大きく減じると考えれば、
    十分に負担する価値のある金額であると思われる。またこの工事費は中小の建
    設関連分野を中心に循環し、景気回復にも大きな効果が期待できる。

    □プロフィール Takeyama, kiyoaki
    1946年生まれ。京都大学工学部卒、大学院工学研究科修士課程修了。兵庫
    県営繕課を経て、82年より生活空間研究所を設立し、現在に至る。90年、
    神戸松蔭女子大学短期大学部助教授、96年、同大学部教授となり、97年よ
    り京都府立大学助教授。著書に、『市民がつくる文化のまち神戸』(共著)
    『大震災いまだ終わらず』(共著)、阪神・淡路大震災調査報告書建築編10
     都市計画・農漁村計画(共著)など。

  • no.34

    ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
    目次◆1 
    田中康夫・長野県知事の「よそ者、ばか者、若者」
         東條健司 ミナト神戸を守る会 
       2 
    震災以後の数字の変遷
         本誌:渡邊 仁
    ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
    ●田中康夫・長野県知事の「よそ者、ばか者、若者」     東條健司

    新年元旦、地元での初日の出のたき火に参加したのですが、立ち話時評のなか
    で田中康夫氏の評判が高いものでした。

    昨年末、テレビで田中康夫氏と塩川正十郎氏(元・財務大臣)との対談があり、
    塩川氏が閣僚時代に「神戸空港はやってもあかんといったのに、神戸市が責任
    を持つからと認めた」との12月20日の「報道ステーション」での発言があ
    ったので、注目して見ていましたが、田中康夫氏の情熱を感じました。
    その中で「よそ者、ばか者、若者」との言葉が話題になり、「ミナト神戸を守
    る会」のML(メーリングリスト)のなかでも評価がされました。

    その「よそ者、ばか者、若者」の語源、発信元を知りたかったのですが、「論
    々神戸」前号(33号)の大谷さんの記事で、はしなくも地元神戸であったこ
    とを知り、共感したはずだと納得をしました。
    順序こそ少し違っていましたが、田中康夫氏はその説明を一瞬のうちに行い、
    見事でした。8割方進んだ企画書の承認を求められても、「原因はそっちにあ
    る」と突っ返す頑固さがなければ役人との勝負には勝てない、と貴重な指摘を
    していました。

    神戸空港がその適例です。思えば震災直後の神戸市長の空港は「希望の星」発
    言から、神戸に草の根を生やした住民投票運動まで、今ではその重要性が余す
    ところなく確認された公的支援の運動も含めて、官僚との闘いの根幹をこの粘
    りと頑固さに求めなければなりません。

    神戸空港裁判は従来の裁判闘争の常識を破って、2000名を越える原告団に
    よる底上げが、ギルド性による法曹界の内枠を破った本人訴訟のままのキリの
    一刺しも含めて高裁で争われています。神戸市は反論放棄の状態になり、昨年
    末には裁判所から最後の救済チャンスを差し出されました。
    また、2500名による新たな「補助参加人」の応援団による神戸地裁での
    「平成16年度予算差止訴訟」においては、神戸市は証拠不提出の状態です。
    裁判では200%の確証が無ければ勝てませんが、私たちは今、それに近いも
    のを準備しています。

    この裁判闘争も含めて、被災地が神戸空港に“ど根性”をぶつけるべき200
    5年に、“田中康夫方式”から学ぶべきことは多いです。
    今朝のたき火でも、田中康夫氏はブレーンがしっかりしているそうだ、とも言
    われていました。要は知恵ある対応ということでしょう。

    「よそ者、若者、ばか者」の語源の想いを知りたいとも思います。

    *注 
    大谷成章氏によれば、この言葉は震災前から、神戸のまちづくり関係者周辺で
    言われていたように記憶している、とのこと。
                                  
    □プロフィール Tojoh, kenji
    1940年東京・深川生まれ。慶応大学在学中、60年安保で国会を取囲む。
    工学部卒業後、母が被災した関東大震災の再来による一家全滅を避けて神戸に
    就職。90年、勤め人と学生による「神戸・地球環境研究会」を設立、フロン
    回収実践運動の最中、阪神・淡路大震災に出会う。「週末ボランティア」を立
    ち上げ、被災地支援。神戸空港建設の賛否を問う住民投票運動に参加。「ミナ
    ト神戸を守る会」の設立に参加し、神戸空港反対を司法・行政・立法の3所か
    ら攻める。
    ───────────────────────────────────
    ●震災以後の数字の変遷     渡邊 仁

    1 被災者に国と自治体が全半壊世帯に上限350万円で貸し付けた「災害援
    護資金」、事実上のこげつきは約100億円。県内22市町のうち、神戸市分
    が約72億円。なお、定期的に返せる分だけ返している少額償還を現在も続け
    ている借り受け人は約12900人。

    2 国の復興予算16兆3000億円(推計)のうち、被災者の生活再建に向
    けた予算はおよそ四分の一。兵庫県は4兆数千億円のうち生活救援対策には
    13%程度(貸付金中心)。神戸市は2兆7000億円のうち生活支援は6%
    台。(総理府半身淡路復興対策本部、兵庫県阪神・淡路大震災復興本部、神戸
    市「94〜04年度予算」などより)

    3 03年、全国の自己破産(新受件数)は25万件で過去最高、96年にく
    らべると、全国は4.2倍、神戸市は6.5倍に増加。

    4 04年、生活保護率(被災10市10町=当時 人口千人あたり受給者の
    割合)は18.1人(全国平均10.9人。94年は10.7人。

    5 被災10市10町を訪れた観光客 93年度(アーバンリゾートフェア)
    7256万人、03年度7364万人。

    6 犯罪発生率(被災10市10町 人口10万人あたり発生件数) 95年
    1329.5件から、02年3218.3件に。全国平均は2236.1件。 

    7 域内総生産(被災10市10町 実質値) 93年度を100とすると、
    02年度94.7(全国111.1)に留まる。

    8 神戸市の起債制限比率 94年度17%から03年度25.8%へ。芦屋市
    は21.4%に。県内被災地市町平均は19.3%。

    9 04年4月までの神戸、芦屋、西宮市の建物復興率は、世帯数ベースで
    79.2%。駐車場にもなっていない更地は約8700世帯分。
    地域別では、芦屋、西宮、東灘区は80%を超えるのに対し、長田区、兵庫区、
    灘区は70%に留まる。(奈良大学不際調査団調べ)

    10 兵庫県内災害復興住宅のうち、65歳以上の高齢者が一人で暮らす単身高
    齢世帯は、9166世帯で全入居世帯の37.8%を占め、神戸市と明石市では
    40.1%となっている。(04年12月調査)

    11 家計収入の回復状況では、「震災前より減少」と「回復は無理」で68.7%、
    「震災前と同じ」は24.7%、「震災前より増加」は6.6%。(04年11月、
    神戸市と西宮市の1200人対象 大阪教育大学住居学研究室調査)

    12 神戸港のコンテナ取扱量は、94年度約291万個(世界6位国内1位)、
    03年度は205万個(世界30位以下、国内4位)。

    13 被災地の商店街 この10年で51ケ所減少(組合組織としての登録商店
    街)。そのうち、神戸市が29ケ所を占める。明石市は6ケ所(40%減)、
    芦屋市は7ケ所(30%減)

     取急ぎ、書き集めた資料のなかから適宜に拾いました。数字で割り切れるも
    のではありませんが、これも現実の姿です。

  • no.33
    ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
    目次◆1 
    ”ばかトリオ”が岩波新書     
          寄稿者:大谷成章(ジャーナリスト)
       2 
     人の街 その5     
          寄稿者:永田 収(写真家)
    ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
    ●”ばかトリオ”が岩波新書     大谷成章

    ふたたび「震災もの」の出版がにぎわっている。胸に詰まっていた思いを、や
    っと吐き出せるようになった人たち、わずか10年で区切りをつけられたくな
    いと立ち上がった人たち、あらためて整理しなおした人たち。
    そうした人たちに混じって、私も仲間とともに柳田邦男さんが編集の「阪神・
    淡路大震災10周年−新しい市民社会のために」(岩波新書)の執筆に加わっ
    た。すでに書店に出ていると思う。

    内容は、被災地から生まれたボランティア活動や、NGO、NPOの活動を検
    証して、行政に頼らない、行政に任せない「市民による、市民の社会」の萌芽
    を紹介したものだ。

    10周年を前に、アート・サポート・センター神戸の島田誠さんが岩波書店に持
    ちかけて話が進んだ、と聞いている。
    岩波書店は、ノンフィクションライターの柳田さんを?看板?にして売れる本
    にしたい、と出版計画を進めた。
    先日、柳田さんに会ったら「近いうちに反省会をやりましょうよ」と言ってい
    た。まだ言いたいことがあるらしい。

    地元のライターは、山口一史、松本誠、そして大谷だ。大震災の「市民語り部
    キャラバン」の一員だった大津俊雄さんは?元神戸新聞記者のばかトリオ?だ
    という。

    ありがとう、大津さん

    なんで?ばか?なのかよくわからないが、山口はラジオ関西の社長をりっぱに
    務めてから、もうけにならない「ひょうご・まち・くらし研究所」をはじめる
    し、松本は「勝算はないよ」と忠告されながら明石市長選挙に打って出るし、
    大谷は「NPOひょうご農業クラブ」で泥まみれになるのを楽しんでいる。確
    かに?ばかトリオ?だ。

    もっとも、ぼくら自身が、まちづくりの開拓者の条件は「よそ者、若者、ばか
    者だ」と言ってきたから、?ばかトリオ?と言ってもらえるのは、ほめ言葉だ
    と思っている。ありがとう、大津さん。

    そのばかさ加減がどんなものかは、どうか書店でお金を払って確かめてくださ
    い。なお、印税は、もう少し力を入れてまじめに書き込んだ、市民検証研究会
    編の「市民社会への発信」(文理閣)の出版費用に全額当てられる。こちらは
    1月17日発行予定。

    「これから10年」の意気込み

    ?震災もの?はおそらく短命だろう。そんなことを思っていると、倒産した
    「月刊神戸っ子」からぼくに原稿の依頼がきた。「つぶれたんやけどね、そや
    けどまた出すことにしたんや」と小泉美喜子さんは言っている。
    「借金は、まあなんとかなるわ。そやけど10周年でなにもせんわけにはいか
    へんもんね」
    小泉さんは「10年で区切りをつけたない。これからの10年にこだわりたい」
    としつこい。

    実は、ぼくは大震災のとき「月刊神戸っ子」にいた。編集だけではなく、広告
    依頼にも駆け回っていた。義理がある。
    で、「やっと10年、これから10年」というシリーズを引き受けてしまった。
    「市民社会」の検証と「神戸のお嬢さん」を売り物にする雑誌とのギャップに
    どう身を置いたらいいのか、戸惑いは消えないが、「これから10年」という意
    気込みにはほれた。

    飯のタネの雑文書きのストレスを野菜畑で発散し、神戸の「これからの10年」
    にしがみついて余命を延ばそうか。と、まあ、これがぼくの年末年始の区切り
    の思いだ。

    ついでに、お知らせ

    「まちの記録者たち展」を1月8日から17日まで「北野・工房のまち」3階
    大会議室で開きます。
    代替バスのアナウンスなど音の記録を射場崇夫さん、定点撮影の記録を大仁節
    子さん、三宮の光景のビデオを原山和敏さん、言葉による記録を安水稔和さん、
    写真による記録を米田定蔵・英男親子が展示します。ぼくは、その世話人の一
    人です。よろしければお立ち寄りください。

    ■プロフィール おおたに・しげあき 
    1939年但馬の国生まれ。神戸新聞記者、百科事典行商、竹ざお売り行商、
    和紙加工販売、埋蔵文化財発掘調査作業員、「月刊神戸っ子」編集者。
    「WAVE117」編集スタッフ、財団法人阪神・淡路大震災記念協会「復興
    誌」執筆者、神戸新聞広告局、兵庫県中小企業活性化センターなどの社外ライ
    ター。NPOひょうご農業クラブ専務理事。著書に「市民がつくる復興計画」
    「市民社会をつくる」「KOBE発海外災害救援」(いずれも共著)、「神戸、
    その光と影」(1・17市民通信ブックレット)など。
    ───────────────────────────────────
    ●人の街 その5     永田 収

    先日あるテレビ番組をボーっと見ていて、今の日本の中で犯罪発生率が減少し
    ている県があるという報告が眼を引いた。
    それは鹿児島県で、若者などへの声掛け運動の取り組みが効を奏しているから
    だという。これは犯罪に引き込まれそうな若者を中心に大人から積極的に声を
    掛け問題になりそうな芽を未然に摘んでいくことだと。こんな安上がりなこと
    で犯罪を減少させることができるならもっともっと他県も見習うべきである。
    しかし、これは簡単そうで難しい。まずそういうことができる大人を確保しな
    ければいけない。下手に声を掛けて注意すると危害を加えられる恐れだってあ
    る。誰にでもできることではない。鹿児島ではそういう点でいい人材がそろっ
    ていたのである。

    ここで見習うべきポイントは二つあるように思う。一つは街は人がつくるとい
    うことと、もう一つはコミュニケーションが大事であるということ。
    街は人がつくるというのは、何も制度や環境だけが街の要素を形づくるのでは
    なく、やはりそこに住む人が街をつくるということ。当たり前のことなのだが
    これが本末転倒していることが多い。きれいな街にして道路を整備して……。
    こういうことだけすすめても、いい街ができるわけがない。
    そして、その人と人とが何かを生むためには会話・コミュニケーションが必要
    ということ。これがなかったらいくらいい人材が集まっても意味がない。
    いや、特別な人材なんて要らないのだ。普段から隣同士でも気軽にコミュニケ
    ーションできる状況があればずいぶんと街は変わるのである。

    しかしこれもまた簡単なようで難しい。さっきのテレビ番組に戻るが、イギリ
    スでも犯罪減少に大きな成功を収めた都市があり紹介されていた。そこでは以
    前失業者が増え続け、街の公園では多くの娼婦がたむろしていた問題の都市だ
    ったのだが、ここでもあるボランティアグループが英語が不得意な失業者など
    に積極的に声を掛け、閉じこもりを未然に防ぎ、娼婦も取り締まるのではなく
    会話を重ねて改善に導いていったという。いい人材が有効な働きをしたのであ
    る。

    犯罪問題とは異なるが、地震災害を経験した神戸でも結局は多くの人材が様々
    な方面で積極的に人に関わることで何とか潤いを保ってきた。充分ではないに
    せよ、これがなかったら街はもっと殺伐なものになっていただろうと想像でき
    る。だがそんな中、街の変化は早かったしそれは現在も進行形で、形だけの街
    ができつつあるのが気がかりなところ。

    今回は柄にもないことを書いてみたが、今年(2004)はじめに報告した市
    場の今年を振り返って終わることにする。長田の丸五市場では市場の中の空き
    店舗を利用した作品展を二度催した。いずれも現代美術の堀尾貞治氏が関わり
    その周辺の人々が参加した。わかりやすい絵画もあれば実験的な作品もあった。
    堀尾氏は昨年から兵庫運河を利用した美術運動を展開していたが、今年は市場
    への関わりも広げていった。氏は元々兵庫運河の近くで生まれ育っていて丸五
    市場も自宅からそう離れてはいない。つまり氏にとってこれらは特別な空間で
    はなく日常の延長なのである。

    その日常が今危殆に瀕している。だが市場を活性化するのはあくまで地元・周
    辺の人。そして市場の人の意識。それは分かっているがもどかしい現実。そん
    ななかで停滞するのではなく何かを発信したり、人とのかかわりを積極的に進
    めていくことが重要。

    その点では今回の作品展などはすぐ何かに結びつくとかどうかというのではな
    く、やること自体にに意義がある。この流れはしばらく続きそうである。これ
    らが短期間で終わるのではなく新しい街づくりに発展することを期待する。

    もう一つ、平野市場でも今年は動きがあった。
    元々歴史研究が盛んな土地柄だけにその方面の活動は今までにも増して盛んだ
    った。また秋には市場の空き店鋪や閉まったシャッターを利用した地元の人の
    写真展を催した。これには筆者も協力して平野市場でも初めての試みをなんと
    か成功させた。この市場では詩人の玉川侑香さんが小さなギャラリーを開いて
    いるのでその功績も大きい。


    やはりここでも人が街をつくる、という大切さが実感できる。市場を取り巻く
    環境は日々悪化しているように思うが、そのなかでこんな活動が生まれている
    ことは、街にとっては希望の灯りにもなる。なにも巨大な美術館や贅沢な街を
    つくることが好ましい未来につながっていくとは限らないわけで、その逆のこ
    とが多いことを行政は認識すべきである。

    最後に震災10周年の1月15日以降、どちらの市場でも地震関連の写真や作
    品が展示されるので、まだ行かれたことのない方は、ぜひ一度足を運ばれるこ
    とをお勧めする。そのときは買い物袋もお忘れなく。良い食材の店がそろって
    います。

    ■プロフィール ながた おさむ
    1953年、岡山県生まれ。フリーカメラマン。写真専門学校卒業後、世界各国を
    転々とする。93年より、下町をとりあげるミニコミ誌『SANPO』を発行。
    以後、変貌する街をテーマに撮影を続行。大阪・神戸にて、写真展を開催。

  • no.32
    □読者のみなさまへ
     12月10・11日、市民とNGOの「防災」国際フォーラムが、神戸市中央
    区で開催された。閉幕時に発表された「震災10年神戸宣言」では、くらし再
    建と新しい市民社会形成の基軸として、「1 もうひとつの生き方を選択する
     2 最後の一人まで支える 3 震災文化を伝えていく」という三つの視座
    をすえ、今後の具体的な活動に結びつけていくことを確認している。
     この10年の来し方を振り返り、そして次の10年を歩んで行く、その頃、
    私たちの世代は確実に「老い」の時間を生きていることになる。 
    ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
    目次◆1 連続台風災害&新潟中越地震緊急報告会  
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    ●連続台風災害&新潟中越地震緊急報告会
     (2004年11月14日 午後2時〜6時すぎ 神戸クリスタルタワー)

    #報告者・所属・活動地域(報告順)
    馬場正一  兵庫県社会福祉協議会 兵庫県豊岡市
    小森星児  ひょうごボランタリープラザ、神戸復興塾 兵庫県
    鮎沢慎二  コープこうべ 豊岡市
    東 佑樹  洲本市社会福祉協議会 兵庫県洲本市
    手島 洋  兵庫県社会福祉協議会 洲本市、一宮町
    高砂春美  フリー 洲本市
    増島智子  被災地NGO協同センター 洲本市
    橘高千秋  ゆめ・風基金 兵庫県津名郡、豊岡市
    永井幸寿  阪神・淡路まちづくり支援機構 新潟県
    越村俊一  人と防災未来センター 豊岡市
    能島裕介  ブレーンヒューマニティ 兵庫県宝塚市、西宮市
    石井明美  ゆいまーる神戸 新潟県小千谷市
    浦井聖也  兵庫県立舞子高校防災科生徒 豊岡市、洲本市
    小野綾子  兵庫県立舞子高校防災科生徒 豊岡市
    吉田公男  ハートネットふくしま(震災がつなぐ全国ネットワーク=Jネット)
          新潟県
    野崎隆一  神戸復興塾 兵庫県養父市
    田村雅一  神戸市社会福祉協議会 豊岡市
    三木あゆみ 神戸市社会福祉協議会 洲本市
    渥美公秀  NVNAD(Jネット) 新潟県
    藤原雅人  兵庫県阪神・淡路大震災復興本部統括部 新潟県
    出口俊一  兵庫県震災復興研究センター 新潟県
    田村太郎  多文化共生センター 新潟県、豊岡市
    田中英雄  ちびくろ保育園 新潟県
    上田耕蔵  神戸協同病院、神戸復興塾 新潟県
    諏訪清二  兵庫県立舞子高校防災科教員 豊岡、新潟県
    池田啓一  都市生活コミュニティセンター 兵庫県出石町
    黒田裕子(報告書)  阪神高齢者・障害者ネットワーク 新潟県

    #進行
    村井雅清(被災地NGO協慟センター)
    ─────────────────
    馬場 震災以降、社協と災害は切っても切れない関係になった。兵庫・豊岡で
    は23日に活動を始めた。ボランティアセンター(以下VC)の設置について、
    豊岡は市長の決断が早く、地元のJC(青年会議所)、NPOなどと連係しなが
    ら活動を展開した。一方で、日高町の赤坂地区には対応できず、出石町は逆に
    豊岡に組み込まれてしまい、取り残された感があり。長期の人員が必要だと思
    う。

    小森 但馬・淡路(兵庫県)では、大震災の教訓が活かされていない部分があ
    った。水害も取り入れたかたちで検証が必要になる。地域防災計画でボランテ
    ィア受け入れに触れているのはごくわずか。つまり行政だけのもの、市民が立
    案に加わったり、計画にもとづいて具体案をつくるようにはなっていない。

    鮎沢 ニーズを拾うローラー作戦をもう少し早くしたら良かったかな、と思う。
    豊岡は京都寄りの市民性があるのか、ボランティアに頼るのを遠慮する傾向が
    見えたが、ニーズの情報を早くとる必要がある。

    東 行政など関係機関との連携があまりとれていなかった。地元ボランティア
    の参加が少なかった。

    手島 ニーズの把握に悩んだ。一宮の土砂災害にボランティアがどこまででき
    るのか? 震災の教訓が活かされたことは、初期段階に経験者が入ってくれた
    こと、しかし、マネジメント能力がついてこない。

    高砂 県からの要請で、24日に西脇に入った。近隣の市町と組んで対応、三
    木市のVCは、すばやく西脇の災害に対応した。防災マニュアルができていたた
    めと思われる。
     洲本市では、立ち上げの遅さを感じた。ローラー作戦は全体ではないと思わ
    れる。地元の会長は「市で調査をしている。VCでは、かける必要はない」と言
    った。調査を早くして、スムーズにボランティア活動ができるようにシステム
    の構築を。

    小森 西脇(兵庫県中部)、豊岡では社協自体が被災し、機能停止、資料も十
    分にひきだせなかった。地元社協が弱者対応を優先するために、ボランティア
    対応が空白になった。ボランティア活動については応援部隊に期待したほうが
    よいのではないか。応援部隊との役割分担だ。

    馬場 福祉救援は地元社協の役割。膨大なニーズの発生する災害救援は応援部
    隊が対応する。応援部隊のミッションを理解したうえで、コーディネートして
    いく必要がある。

    増島 地元とのつながりが大事。JCやサーブなどVCで一緒に活動した。最後
    の方ではよくできたと思う。地域の人口に対して25%の独居率。なかなか片
    付けできない人が多かったが、近隣からニーズが上がってきて、コミュニティ
    の強さを感じた。

    橘高 障害者の作業所がある豊岡と津名郡に入った。障害者の家が被災。避難
    所に入り、復旧に時間がかかった。困ったことはVCにあげるようつないだ。都
    市と地方では、障害者の置かれた環境が違う。地方では、あらかじめ障害者は
    施設に入っていることが多い。だから、ニーズがなかなかあがってこない。

    永井 大震災の時、裁判は増えなかった。法律相談(カウンセリング的役割)
    で未然に対応したからだ。専門家職能の連携が必至という意識から阪神・淡路
    まちづくり支援機構を設立、相互連携しながら課題を解決、全国に設立への流
    れをつくった。
     新潟県の被害状況だが、建物は意外と壊れていない。被害は後からも拡大し
    ているので、まだ法律問題は顕在化していない。ただ、新潟の方はおとなしい。
    立法をふくめ、法律の支援がなければ地域が崩壊する可能性もある。被災者再
    建支援法の成立には積極的にやっていく。

    越村 円山川の地理的特徴、一極集中のようない支川から本川に流入。市街地
    が本川のすぐ近くにあり、水が溢れると大きな被害になる。10年、20年に
    一度の大雨に対応できなかった。行政としては、やるべきときに正しいタイミ
    ングで水門を閉鎖した。豊岡市も兵庫県民局も相談窓口を設置して被災者に対
    応していた。

    能島 両市からの依頼で宝塚と西宮の被災地に行った。西宮の住民の話ではボ
    ランティアの受け入れをオープンにしたくないということだ。宝塚については
    社協で受け入れていた。

    石井 30日から11月6日まで、小千谷の片貝地区に入った。被害は少ない
    ほうだ。ライフラインは大丈夫。炊き出しをして、165名の避難民に対して
    ニーズの調査。市のVCは午後4時までの対応だったので、要介護者、弱者に対
    してのミニのVCの立ち上げ。マッサージとか足湯とか行い、帰るころには家族
    的な感覚に。 
     小千谷のVCは機能していない、たぶんVCの機能をまわせる人がいなかったと
    思う。地元のボランティアを育てる事が必要。後方支援で何ができるのか?

    浦井 洲本のVCの運営はスムーズだったと思う。豊岡はボランティアの数が少
    ないと思った。

    小野 一日だけのボランティアで、神戸からだと往復で6時間。その時間にも
    っとできることがあったかもしれない。

    小森 バス一台で同乗したボランティアが行動を共にする「バス・ボランティ
    ア」システムができた。これは7月の福井豪雨災害ボランティアが最初。県の
    トップレベルから話があったと聞いている。ただ、本当にマッチングしていた
    のか?
     今回は対応に迷った。往復6時間で実動数時間というかたちで良かったのか
    ? 日帰りという問題、災害の特殊性という問題、というのは二次災害の可能
    性の高いところには行かせないという配慮もあったのでは? さらに、せっか
    くのボランタリープラザのスタッフがバスに割かれて、もっと大事な仕事にま
    わせたのではないかという自問だ。

    吉田 被災地の地域性は重要。ボランティアは不要、というのは地域の助け合
    いがうまくいっているかもしれないということ。新潟ではその壁にぶつかって
    いる。

    手島 土砂災害の一宮町(淡路島)ではボランティアは少なかった。社協の通
    常の手順にのっとったかたち。まずボランティアを受け入れるかどうかという
    話。地元の社協が被災者個人と話をし、ニーズを引き出すという手法をとった。
    被災者の満足度は高かったが、同じことを洲本市でできるかといえば疑問だ。 

    小森 ボランティアを送りだす側からすれば、仕事の内容、募集の内容など、
    受け入れ側、コーディネートする側ともに、もう少しフィードバックがあって
    いいのでは。

    高砂 洲本の場合、消防団が効率よく動いてくれた。高校生ボランティア(実
    動3〜4時間)の扱いには、安全性など苦慮する。

    馬場 豊岡では、ボランティアの半分がバス・ボランティアという時期もあっ
    た。そこでサテライトをつくり、現地の区長などに対応していただいた。受け
    入れ側も現地解決型のしくみをもっておかないと、今後対応できなくなる。

    野崎 出石町では、日頃からまちづくり活動をしている人たちが主体で動かれ
    たと思う。日高町JR江原地区、養父市のまちづくりに携わっているが、そのな
    かで過去の災害の話が出てくる。堤防の弱点を指摘していたのだが、住民主体
    のまちづくりでは取り組めなかった。結果、大きな被害が出た。防災は、まち
    づくりのこれからの課題だ。

    吉野 県内被災団体向けにユーズドPCの寄贈(2台限定)を始める計画。PC
    提供元のイーパーツでは、新潟への対応も考えているそうだ。

    田村 豊岡のボランティア、初日175名、二日目750名。三日目から長期
    ボランティアが来てくれてVCの態勢が整った。運営スタッフをスカウティング
    して、スタッフの受給バランスに気をつけながらコーディネートした。11月
    3日にVCを閉鎖したが、4日にも約200名が押し寄せ、急遽対応した。結局、
    7日まで延長した、と聞いている。

    三木 21日から25日までに洲本へ入った。地元社協が組織だって動いてい
    た。市外ボランティアには、求められるニーズのポイントがずれないように項
    目についてはシンプルにしていただいた。地元の関係団体がしっかりしていた
    ので、混乱は最小限におさえられた。今後が大変かもしれない。

    東 ボランティアは二、三日で入れ代わり、そのつど説明しなければならない。
    三日目バスの駐車場が確保できたのでVCを移転した。

    渥美 今後のことだが、きめこまかな対応が望まれる。地元の特徴をどのよう
    にとらえるか。
    一、いつまでVCを設置しておくのか?
    一、災害時の知恵をどう活かしていくのか?
    一、農村地域と都会との災害の差
    一、長期的な復興について
     VCがひっかきまわしたことによって、地域によい影響を残せた面もある。い
    いかたちで残せばよい。

    《休憩》

    藤原 11月3日から10日まで、第一次26名、延べ64名を派遣。第一印
    象は、阪神・淡路と全く違う。被災地が山間部で、県庁は日常の中。まずは、
    非日常感覚の共有をスタートさせた。新潟の方々は、家族の絆。コミュニティ
    が力強い、辛抱強い、要求はほとんどない、村で集落で結束する、といった特
    徴があげられる。それを維持することが今後問題になるのではないか。
     はじめの頃はボランティアは見知らぬ人であり、警戒感が強く「ほっといて
    くれ!」。だから。押し付けはダメ。地元の方にアレンジしてもらうことが大
    切。
     建設予定の仮設住宅は、3700戸、3Kが40%、2DKが50%、1Kは1
    0%。(場内どよめく、阪神・淡路大震災とは広さが決定的に違う)。新潟で
    は、お年寄りと一緒に暮らすのがふつう、デイケア施設を仮設にも創ってしま
    おう、という発想だ。また長岡地域にはボランティアが多いとは思えない。
     時代が変われば、そのつど災害対応も違うと思う。例えば、自宅の跡地、庭
    先に仮設を建てることが認められた。それだけ土地が広い。

    出口 この10年の被災者の声が生きはじめている。新潟県が国を上回る施策
    を出しているのは大きな前進だ。私たちは、後方支援の政策ボランティアとし
    て、「生活・住宅再建の支援策についての緊急九項目の提案」(資料参照)を
    発表した。

    田村 中越地域には約5000人、うち長岡に2000人の外国人がいる。
    26日に長岡入り。まず長岡市役所で地元の国際交流センターの人々と一緒に
    避難所を回った。
     ブラジル、中国、フィリピンの人が多い。一日のスケジュールをたててルー
    ティンワークとした。動いた20日間、出せる情報は全部出し切った。今は、
    外国人は避難所にはほとんどいない。そこで、ラジオ情報を流すことにした。
    番組をオンエアするにあたって、携帯ラジオを集めて持っていき配付する。 
     中・長期サポートを考えれば、これからがNPO支援が必要かなと思う。また、
    ニーズがあるから行くのではなく、おせっかいでもいいから、「あるはずだ」
    と思って行くようにしている。地元、神戸、専門家という三角支援のありかた
    がいいのではないか。

    田中 施設が在宅障害者を把握。避難所での生活から「車中死」をうんだのは
    残念。全国で乳児の16%を預かっている保育園だが、十日町の教会や長岡の
    お寺が受入先として決定している。十日町の商店街は壊滅状態だ、今後の経済
    状況が心配。量販店は健在。

    橘高 もともと障害者が外に出ていない地域。大規模施設主義というのか、み
    な施設に入っていて、自立障害者がいない。通所施設もない。草の根作業所も
    数える程しかない地域だ。「ニーズがない」とは発信力がないということでは
    ないか? すべては施設へという流れ。
     私たちはノーマライゼーションという考え方で災害を考えていきたい。在宅
    障害者へのケアへのニーズが潜在しているのではないか。聴覚障害の方へケー
    タイを配付する自治体も出てきた。個別障害へ対応していけるシステムをつく
    る」必要がある。

    上田 新潟に入り、避難所に行ったが、医療態勢はよくできていました。関連
    死については「車中死」が特徴的。レジュメ(資料参照)で現時点での分析を
    報告しているのでご覧ください。

    村井 テントを選ばなかった人が多かったのはなぜか? それは地域の特殊性
    なのか? 一時避難の方法は多様化するかもしれない。

    藤原 車から離れたがらない人がいた。また、福井の水害で予行演習していた
    というか、緊急保護では授乳施設はその日のうちに設置していた。

    能島 私たちは、学生による防災のしくみに取り組んでいる。職員2名、学生
    19名、二ケ所での炊き出し、子どもたちの遊び相手などを行った。感じでは、
    新潟では「官」に対する信頼が厚いのかな、と思う。残された私財もあるので、
    ボランティアをかたった犯罪に対する警戒感、警察に対する安心感がある。
     私見だが、現地はよく勉強していて、細かい対応がなされていた。ただ、あ
    る意味、ボランティアも管理されているのかな、という感じもした。VCは午前
    9時〜午後4時で決まっていて、組織化されたボランティアと個人のボランテ
    ィアをわけて対応する必要があるのかな、と思う。真人(まっと)地区では、
    夜に現地の自治会の酒盛りに入れてもらい、それから打ち解けるようになった。

    藤原 まさに農耕型社会、知事は殿様という感覚。現知事の就任後三日目に地
    震が起こった。42歳で若く、聞く耳を持っているが、まだ、県庁になじんで
    いない。

    諏訪 中・高校生はボランティアをするべきだ。44歳の私より体力、持続力
    があるし、覚悟を持って出かけている。彼らは大震災の頃、小学校の一、二年
    生で、ボランティアのお兄さんお姉さんにしてもらってうれしかったことを覚
    えている。大人だけの感覚ではカバーしきれない面があり、大人と子どもの中
    間項にもなれる。
     問題は学校が避難所になっているところの運営だ。一、学校の運営を行政が
    仕切ると、学校の授業と避難している人たちとのパイプがつくれない。二、小
    学校から他の小学校へ避難しているところではストレスの問題だ。三、マスコ
    ミの動きへの対応。四、ふるさとと切れていくことへの心配と冬(雪)対策。

    吉田 先の水害でVCをつくった三条に入ったが、長岡や小千谷大変そうだ、と
    いうので24日からVC立ち上げを協議。25日にスタート、中越全体を後方支
    援。ニーズがあがってこないので、ボランティアがあまっている、被災者もな
    ぜか「大丈夫だ」だとおっしゃる。ニーズの掘りおこしができないし、させて
    もらえない。で、11月14日には県外ボランティアはひいてもらうことに。
    そしたら15日になって、社協が「ボランティアを10名を出してくれ」と。
    そして仕事をしたが、どうしても批判的にならざるをえない。すべてのことが
    「公共事業」という認識ではないか。新潟の社協は行政の一部だと思ってよい。

     長岡のボランティアの半分は県外、残りの大半は県内、地元は一割に満たな
    いのが現実だ。 これからボランティアが必要になったとき、どうするのか?
     看板はあげているけれど、お断りする、長岡市民のなかにボランティア・グ
    ループができて広がっていくのだろうか? 雪がふれば、テントはだめで、コ
    ンテナハウスも耐久用でないとだめ。ボランティアの拠点づくりも大変だよ。
    長岡からクルマで出かけるようなボランティアになる。

     仮設住宅には集落毎に入るが、場所は市内からクルマで20分、いわゆるニ
    ュータウンで、大きなSCがあるのみでふつうの店はない。山古志村では店がな
    くても不便ではなかった。移動店がやってきてくれたから。
     川口町には、一ヶ月滞在のボランティアグループがいる。ここはテント派が
    多く、仮設住宅をつくる場所がない。
     腰をすえてかからないと大変だという認識があるので、長岡にアパートを借
    りてしまいました(笑)。

    池田 私は新潟出身です。十日町は人口4万人。雪は災害だ、という認識だ。
    これからの季節、ボランティアには雪おとし、雪掘りのニーズがある。
     出石では、ダイレクトに対応して聞いていくと、ニーズがボロボロと出てく
    る。仮設住宅でのコミュニティ問題はこれから出てくると思う。

    渥美 新潟の地域性だが、まず、クルマが気をつかわないですむ空間だという
    こと。だから、避難所よりも住むのはクルマという感覚ではないか。
     西宮から来たとわかるシール一枚で、神戸から皆さんが来てくれた、と喜ば
    れる。シールだけでも、阪神・淡路大震災の経験者だということがわかればプ
    ラスになる。
     また、山古志の人たちは長岡では「山の民」と呼ばれている。神話もあるし、
    闘牛という独自の文化も持っている。人類学的におもしろいところなのだが、
    調査公害にならないようにしなければならない。
     その広い縄張りを持った人たちだから仲もいいわけで、仮設の壁一枚で連な
    る環境になれば、経験がないだけにどうなるのかわからないとも思う。長期的
    にうごいていきたい。

    小森 ボランティアが安上がりの労働力だと思われてはかなわない。災害初期
    以降は、専門性を持つ人々がやったほうがいいだろう。

    黒田(報告朗読)救援物資はオムツやほ乳びんなど、なかなか考えられていた。
    車中死につながるエコノミー症候群については具体的な方法のアドバイスが必
    要。余震の恐怖があり、お風呂にはいらなかったり、登校拒否になったりして
    いるので、要注意。

    以上、メモからの復元のため、発言の内容については精査できません。正式な
    報告書はいずれ主催者側で用意されると思いますが、取り急ぎの速報版という
    ことで、とりわけ発言者の方々にはご容赦願います。

    (文責:編集長)

  • no.31
    ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
    子どもと震災と記憶−そのつたわり方について− 
         国立歴史民俗博物館外来研究員、「記憶・歴史・表現」フォーラム
         代表  寺田匡宏
    ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
    ● 子どもと震災と記憶−そのつたわり方について−

     いま、2005年1月に開催される「震災の記憶」をめぐる展示会の準備で、
    子どもたちに震災の話を聞くフィールドワークを行っている。神戸・山本通の
    CAP HOUSEで行われる“阪神大震災・記憶の<分有>のためのミュージアム
    構想|展”「someday, forsomebody いつかの、だれかに」に、わたしは
    「Die Kindheit in Kobe(神戸の幼年時代)」という映像を出品する
    予定である。

     この展覧会は、詩人、キュレーター、プロデューサーや建築史、社会学、歴
    史学などの研究者のコラボレーションによって、阪神大震災の記憶をつたえる
    方法をさぐろうというものである。記憶をつたえる方法を目に見えるようにあ
    らわすというその課題に対して、私は、子どもに視線をすえることでそれを表
    現することができないかと考えた。震災を体験してはいるが、しかしそれを言
    葉では語ることのできない子どもに、あえて震災について語ってもらうとどう
    なるだろうか、と問いを立ててみたのである。

     体験しているが、それを語ることが出来ないとはどういうことか。それは、
    生まれてこの世にはいるけれど、乳児であったとか、あるいは、すでに母親の
    胎内で生命活動を開始してはいたけれど、まだ羊水の中にいたという状況であ
    る。あえてそのような子どもたちに、震災の体験を聞いてみる。子どもたちが、
    震災のことを語れないのは当たり前であろう。「そんなんしらん」「まだ赤ち
    ゃんやったからわからへん」、そういった声が返ってくる。しかし、彼らとて
    それで終わってしまうことはなく、あのとき、赤ちゃんだった自分を父親がど
    うやって守ったかとか、彼が宿った大きなおなかを抱えて母親はどのように避
    難したのかを語る。彼らは、その意味では、紛れもなく震災について語ること
    ができる。

     考えてみれば、彼らが語っているのはだれの記憶なのだろうか。それが彼ら
    自身の記憶でないことは、当時のことを彼らが覚えていないことから明らかで
    ある。では、だれの記憶か。彼らが、語れるのは、母親から、父親から、おじ
    いちゃんから、おばあちゃんからそれを伝えられたからである。彼らの語りが
    教えるのは、私たちの記憶のはじまりはつねに、だれかから伝えられた記憶で
    あるということである。

     記憶とは個々人の脳内の現象である。私たちは個々人の肉体が別であるから、
    本来は他人の記憶を知ることは不可能である。だがしかし、あるいは、だから
    こそ、人は記憶をつたえようとする。群居する生命体の一種である人類の、そ
    れは本能的な希求である。体験してはいるが、しかし、それを言葉で語ること
    が出来ないはずの子どもが、しかし震災について語るのは、その意味で人類史
    的過程に参加しているといえる。

     もうすぐ震災から10年である。「震災の記憶」が問われることが多くなって
    くるだろう。「風化」が云々されるかもしれないし、「教訓化を」「防災のた
    めに」などという声も高くなるかもしれない。たしかに、震災の記憶がつたわ
    ることは必要だ。また、災害に際して被害を少なくすることは人類の願いであ
    る。
     
     だがしかし、記憶は「教訓」や「防災」のために伝わるべきものなのか? 
    違うのである。そんなふうに言わなくても、記憶はつたわるのである。震災を
    覚えていない子どもが震災について語ることができるように、もともと私たち
    のはじまりの記憶はだれかの記憶なのだから、そんなふうにしゃにむにつたえ
    ようとしなくてもつたわるものはつたわるのである。私たちが震災の記憶につ
    いてやるべきこと、それは、声高に記憶せよとさけぶことではなく、ただその
    過程をゆっくりと見守ることだけである。
     

    someday, for somebody いつかの、だれかに
    阪神大震災・記憶の<分有>のためのミュージアム構想|展
    2005冬神戸
    2005年1月14日(金)→23日(日)11時〜20時 ※1月18日(火)は休館
    会場:CAP HOUSE(神戸市中央区山本通 旧神戸移住センター内)
                                    
    □プロフィール Terada, masahiro
    1971年神戸市生まれ。大阪大学大学院で歴史学を専攻。現在、国立歴史民俗博
    物館外来研究員、「記憶・歴史・表現」フォーラム代表。共著に「歴史・災害
    ・人間(上・下巻)」(歴史民俗博物館振興会)など。

  • no.30
    ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
    目次◆1 “大震災被災者の最後の一人まで救済を”のこころを持ち続けて
                兵庫県震災復興研究センター 事務局長 出口俊一
       2 台風23号、新潟県中越地震災害被災者の生活・住宅再建の支援策        
         についての緊急5項目提案     兵庫県震災復興研究センター
    ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
    ●“大震災被災者の最後の一人まで救済を”のこころを持ち続けて
                兵庫県震災復興研究センター 事務局長 出口俊一

    2004年10月17日、阪神・淡路大震災から9年9カ月の月日が経ちまし
    た。兵庫県や神戸市が立てた「復興計画」の期間は10年間。2005年1月
    17日まであと3カ月となりました。「復興計画」通り、復興できればよいの
    ですが、現実はどうでしょうか。

    被災者が借り入れた借金の総額は、少なく見積もっても1兆6000億円(兵
    庫県震災復興研究センター調べ)。その多くがこれまで返済猶予を繰り返して
    先送りの状態となっています。返済が開始された「災害援護資金」も、償還期
    間10年で終了することは不可能となっています。
    また、ようやく終の住処として入居した復興公営住宅の被災者が、その家賃滞
    納を理由に強制退去させられている事例が急増し、社会問題化しています。
    自治体も被災者や支援者も一日も早く復興したいという思いにかわりはないで
    しょう。しかし現実は、復興を実感するにはほど遠い状況にあります。

    大震災から10年の節目を迎え、神戸市はすでに10年検証作業を終え、兵庫
    県は先頃10年検証作業の中間報告を発表しました。そんな自治体の検証に対
    して「あれは復興施策を集結させたい。そして、幕引きをしたいだけだ」と厳
    しく指摘する被災者や支援者の声があります。
    自治体とは別に、私たちNGOが、いまだ復興をなしえていない課題やこの
    10年の経過のなかで生じてきた新たな問題を分析し、検証に取り組むことは、
    被災者の立場に立った解決策を作りだすことであり、さらに今後のあるべき復
    興にかかる教訓を汲みだすうえで、大事な活動であると考えています。

     兵庫県震災復興研究センターでは、昨年3月8日、9日の第9回合宿研究会
    での討論を皮切りに、10数回の研究会で意義や課題を論議し、大震災10年
    の復興検証に取り組んできました。いよいよその検証作業のまとめとして、
    12月中旬に『大震災10年と災害列島』を出版します。ここでは、60人の
    研究者、市民が分担して執筆しています。また、長野県の田中康夫知事、鳥取
    県の片山善博知事、高知県の橋本大二郎知事にも執筆陣に加わっていただきま
    した。さらに、一昨年秋に出版した『大震災100の教訓』の英訳作業もこの
    「大震災復興検証」の一環として位置づけ、同時進行で作業をしています。

    この検証への取り組みを通じて、災害列島日本に生きる国民の「安心・安全権」
    を確率していくことに貢献していきたいと考えていますとともに、“大震災被
    災者の最後の一人まで救済を”のこころを持ち続け、引き続き提起されている
    諸課題に取り組んでいきたいと考えています。

    《追記》
    台風23号、新潟県中越地震災害の被災者支援緊急5項目提案をまちおめまし
    たので、添付します。

    ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
    ●台風23号、新潟県中越地震災害被災者の生活・住宅再建の支援策について
     の緊急5項目提案
                          兵庫県震災復興研究センター

    先週来の台風23号と新潟県中越地震により、水害・地震の甚大な被害が発生
    しました。被災地と被災者の皆様方には、こころよりのお見舞いを申し上げま
    す。

    さて、10月26日、27日には小泉純一郎首相が新潟と兵庫の被災地を視察
    しました。「来るのが遅い」「パフォーマンスより情報を」など被災者の悲痛
    な心境が語られました。10年前のあの兵庫県南部自身直後に、当時の村山富
    市首相が個人補償要求に「気持ちはわかりすぎるくらいわかりますが、国の成
    り立ちとして、そういう仕組みになっていないんです」と述べて、被災者支援
    策の手を打たなかったことが思い出されました。

    絶望・落胆している非視際者への何よりのケアは、首相や自治体首長がいます
    ぐ生活・住宅再建のための個人補償実施のメッセージを発することです。
    2000年10月6日の鳥取県西部地震ときは、発災から11日目に同県が
    「300万円の住宅再建補助」の被災者支援策を発表し、被災者を激励し、死
    者を出さず、人口減を食い止めました。鳥取県の片山善博知事は「阪神・淡路
    大震災の教訓を踏まえた」と語っていました。

    以下に、生活・住宅再建のための支援策を実施するために、国や被災自治体が
    いま何をなすべきかを緊急提案いたします。なお、兵庫県震災復興研究センタ
    ーは、11月に入って但馬の現場に赴く予定です。

                     記

    1 災害救助法第23条の次の各号を当面、徹底活用すること。
      6 災害にかかった住宅の応急修理
        *応急修理の対象は「居室、炊事場及び便所等日常生活に必要最小限
        度の部分に対し、現物をもって行うものと…すること」(事務次官通
        達)。また、金銀は、2000年度から大臣告示により、52万50
        00円となっている。厚生労働大臣は、対象の拡大と引き上げを行う
        こと。
      7 生業に必要な資金、器具又は資料の給与又は貸与
        *現行法に規定があるにもかかわらず、「災害弔慰金の支給等に関す
        る法律」制定を根拠に、現在「給与」は実施されていない。このよう
        な脱法行為は改め、徹底活用すること。

    2 応急仮設住宅の建設を急がなければならないが、この建設・解体費用は、
      それぞれ300万円+100万円=400万円程度(阪神・淡路大震災の
      例)である。自宅敷地内で再建しようとする被災者にはこの費用400万
      円を給付できるように改めること。このようにすると、住宅のストックが
      残り、人口減を食い止めることができる。

    3 被災者生活再建支援法の二度目の改正をただちに行うこと。
      【居住安定支援制度】
      1 周辺経費だけでなく、住宅本体への建築・補修費を対象にすること。
      2 限度額200万円を、当面500万円に増額すること。
      【生活再建支援制度】
      1 支給対象災害・世帯をいっそう拡大すること。
      2 支給条件を緩和すること(収入・年齢制限の撤廃等簡略化する)。
      3 限度額100万円を当面350万円に増額すること。

    4 災害弔慰金の支給等に関する法律に規定されている「災害援護資金の貸付
      け」(第10条)は給付に改めること。当面、年3%の利子─限度額
      350万円の場合、約35万円となる─は止めること。

    5 以上、国のなすべきことは重大であるが、被災自治体は国待ちではなく、
      先導的に被災者支援策を実行すること。

    2003年8月、北海道沙流郡平取町は、台風災害後すぐに住宅再建に最高
    400万円の補助金を支給した。鳥取県の施策を参考に町単独で実施した。現
    在、地方自治体で独自に住宅再建支援策(公助)を実施しているのは、鳥取県
    をはじめ7県1町(兵庫県震災復興研究センター調べ)となっている。
                                     以上

    □プロフィール
    1948年、尼崎市生まれ。関西大学法学部卒。72年〜90年まで、尼崎市の小学校
    に勤務、96年より兵庫県労働運動総合研究所事務局長を兼職、現在に至る。立
    命館大学・阪南大学非常勤講師。著書・共著に『教育運動の論理』『人権教育
    研究序説』『大震災と人間復興』など。

  • no.29
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    目次◆1 とある横断歩道にて   本誌:渡邊 仁          
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    私の居住区からすぐ北の片側三車線の大通りには、東西400mに横断歩道が三
    つあった。大通りの東西の端に信号機つきが二つ、そして東端から約100mの
    ところに信号機なしのものが一つ。

    港湾物流機能を持つ島だけに、この通りは平日は大型トラックやコンテナが通
    っているが、混んでいるというにはほど遠く、車の間隔があくせいか地区住民
    は横断歩道以外のところを通る人がまま見られていた。それは別段、横断に危
    険が伴うというふうには決して見えないが、住民が日々通勤通学、所用に使う
    ポートライナーの中公園駅は、道路の北側にあるからだ。

    ところが、朝の散歩でおどろいた。
    西から約100mのところにもいつのまにか横断歩道、それも東向き走行の注意
    喚起のためか車止めの醜い黄色と黒のライン模様のコンクリートブロックが
    できている。
    これでまた六甲の山並風景にいらないものが視覚に入ってくることになった。
    芝を植えていた中央分離帯も形なしである。
    どうしてだろうか?

    すぐに思いつくのは、この夏、新設横断歩道の場所の北にローソンができたこ
    とだった。まさに「コンビニ」と言われる店舗の増殖である。
    完成時にも思ったことだが、このわずか一辺約400m四方に、古くからあるミ
    ニ・スーパーのトーホー、ローソンが二つ、ファミリーマートが一つ、これで
    は、パイの奪いあいで大変なんじゃないか、と。

    不自然なまでに明るい常夜灯をもつコンビニが、そこにできたことで、毎朝の
    散歩コースではっきりと変化したことに気づく。それは、店のポリ袋(でいい
    のかな?)があちこちに捨てられていることだ。これが実に見苦しい。できる
    だけ拾って帰るものの、とても追いつかない。
    まさに、ポイ捨て三種(空き缶・タバコ・ポリ袋)文化の横行である。

    このコンビニに出かける住民やトラック・ドライバーなどが増えたため、「交
    通安全」の名目で横断歩道の設置に踏み切ったのだろう。さらには、ローソン
    の駐車場南西角に不粋な車止めもできている。
    でも、誰が要望したんだろう?

    地区住民か?
    近接住宅の管理組合か?
    ローソンか?
    それとも、道路行政が勝手にやったのか?

    「安全」という大義名分があれば、なんでも通っていくようだ。
    「安全」がおびやかされる社会であれば、その対策を至急にとれ、という。
    「私」の住まいから、居住区の安全、地域の安全、そして国家の安全まで。そ
    こには一本のラインが通底している。十分な警備をせよ、近隣を信じるな、と
    いう持てる者の防壁がどんどんつくられていく。
    私が危ぶむのは、自らの身体能力・身体感受性を問わずして、他に依拠するこ
    との安易さに流れることだ。でもその足もとから、コスト高の社会を到来せし
    めることに、もっと警戒感をもってもいいのではないか?

    防災学全盛の時代にあって、「いかに柔らかく壊れるか」(季村敏夫『初便り』
    より)に、もう少し気がいってもいいように思えてならない。

    「安全」「安心」「便利」のために、自分で自分の首を絞めることは、歴史の
    なかで何度も繰り返されてきたこと。「恐怖」を煽る輩には眉唾で接したほう
    がよい。

  • no.28
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    目次◆1 現場と研究者がつくるボランティア講座第四回
         シンポジウム「震災ボランティアの10年」    報告:渡邊 仁
         2004年9月28日                
    ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
    ●シンポジウム「震災ボランティアの10年」

     パネリスト:黒田裕子(阪神高齢者・障害者支援ネットワーク副代表)
           島田 誠(アート・サポート・センター神戸 代表)
           飛田雄一(神戸学生青年センター館長)
           日比野純一(FMわぃわぃ 代表)
     コメンテーター:菅 磨志保(人と防災未来センター 専任研究員)
     コーディネーター:渥美公秀(大阪大学人間科学部助教授)

     主催:国際ボランティア学会編集委員会/生活復興県民ネット/
        (特)ひょうご・まち・くらし研究所

    (6時開始でしたが、遅れたので、冒頭20分は欠録)

    日比野 活動のキーワードは「壁の突破」と「集団の力」。FMわぃわぃが認
    可事業の壁を突破できたのも、そのおかげです。

    渥美 10年間の聴取者の支持は? そして、生み出せたものは?

    日比野 番組によって、いいものもあればそうでないものもあり、まだら模様
    です。ラジオというのは、出演者も含めて気軽に出入りができる場所だな、と。
    人の集まる場所として機能していることは、すごいと思う。

    黒田 結果的にコミュニティが破壊された第一次仮設住宅と、復興住宅に入居
    してからでは支援の方法が違います。ここ10年で、加齢の問題が大きくなって
    きていますから、鍵を預かっての訪問が目立ってきました。それからチェーン
    電話です。毎回電話することで、声のトーンの変化に気づきますから、それが
    早期発見につながって予防になります。ですから、キーワードは「いのち」。
    自立と共生のみきわめをしながらの支援です。一方、10年経ても変わらないも
    の、それは「関係性づくり」です。これがいかにうまくつくれるか、によって
    生き甲斐感の創出につながります。

    島田 私のキーワードは、「アートはインフラ」です。アートと社会には壁、
    隔たりがあると思われてきました、それがある程度壊れてきたと思います。例
    えば、震災後、詩の表現が直截的で平明になりました。もっとも、最近では難
    解なものに戻りつつあるようですが(笑)。それでも社会との関わりのなかで
    アートを考えていくという考え方、ていねいな説明へのアプローチ、文化イベ
    ントへの理解等は進みました。アートとまちづくりとの関係性も見合いなのか
    結婚なのかわかりませんが、定着してきたと思います。要するに垣根が低くな
    ったという感じです。

    渥美 市民の理解、感触はいかかですか?

    島田 ライフスタイルのなかに、アートは相当に浸透していきていると感じて
    います。一方で、芦屋市立美術博物館問題など、文化の危機も顕在しています。
    少数派に支持されるアート、幅広く愛されるアート、要はこのバランスが良け
    ればいいのですが。

    飛田 私どもは30年の歴史を持つのですが、震災後の10年で大きなプレゼン
    トをもらったような気がしっています。本当に多くの出会いがありました。そ
    の「出会い」が、私どものキーワードです。 NPO団体としては、基本に戻っ
    たというところでしょうか。今年は、「中国・韓国の留学生のために使ってく
    ださい」と言って、個人から5年間で3000万円の寄付の申し出がありました。

    村井 震災の10年前、神戸には神戸NGO協議会という会がありました。それ
    が基礎となって、NGO救援連絡会議がつくられ、震災救援支援を行い、その後、
    国内では「震災をつなぐネットワーク」、海外では「CODE」というかたちで、
    災害支援を行ってきました。2002年からは、「これからは事前防災、減災が
    大事だ」という観点から、支援活動に派一っています。
     この10年、ひと、モノ、カネ、情報、ネットワークという観点から言います。
    ひとについては、震災時が130万、福井のオイル漂着時が27万、今年の新潟豪
    雨が10万人と、災害ボランティアは出掛けるのが当たり前という意識が定着し
    てきました。モノについては、物資はむやみに送らないこと、カネについては
    前もって基金というかたちで準備するようになりました。情報は紙媒体からイ
    ンターネット中心へと移行しています。ネットワークでは、緊急時に恊働する
    「震災がつなぐ全国ネットワーク」が稼動しています。加えてコミュニティ
    FMは災害時に力を発揮することもわかりました。

    渥美 関連して、大災害に備えた市民・住民による防災・減災シンクタンク
    「智恵のひろば」が来年1月の発足をめざしています。私も賛同世話人になっ
    ていますが、これもこれまでの皆さんの知恵(智慧)を社会資本として」有効
    に使っていきたいという趣旨です。

    菅 私の仕事には、ボランティア活動の記録を残すこともあります。つい先頃、
    防災担当大臣と災害ボランティアとの対話が東京で行われました。初めての試
    みで、遠慮がちな対話でしたが、ここでも震災後10年の蓄積と課題、とりわけ
    行政との関係が問われていました。地元の復興への力を生み出していくための
    支援とは何かという課題です。
     地元NPOにしても東京では、法律ができてのNPOが増加しているのに対して、
    神戸では具体的な門代への取り組みが先でNPOになっていった。そこには既存
    の枠をこえた活動が先にあった。そして市民活動のいろんな議論がありました。
    地域密着の中間支援センターにしても、現場からのニーズに応えているのは神
    戸だと思います。

    渥美 地元の社会福祉協議会(略称:社協)など、他の団体との関係について
    はどうでしょう?

    黒田 私のところは、企業との関係でいうと、社員スタッフの教育とかを含め
    て、複数の企業から支援をいただいています。どんな小さな支援でも、お礼状
    を書くなど、細やかな配慮をしています。それにもまして、信念と責任をもっ
    て活動することです。それが信頼に繋がります。

    島田 震災後、芸術だけの世界からNPOの世界に浸っております(笑)。行政
    は頻りに参画と恊働を言いますが、私の場合、震災後の市政批判や市長選挙な
    どのこともあり、閉ざされていますね(笑)。ここにきて、うれしいことにい
    ろんな肩書きがはずれてきました。あらためて、グラスルーツといいますか、
    個と個のつながりを大切にしていきたいと考えています。

    日比野 カトリック教会という拠点ですから、当然、企業や大学とのつながり
    はあります。ただ、基本的に支援する側、支援される側、というふうに別れて
    いたのでは、いい関係は続かない。やはり、根本的にコアな部分でお互いどう
    いう考え方を持っているのかがわからないと長続きしません。どういう社会に
    していきたいのか、お互いの共通点はどこにあるのか、徹底的に話すことです
    ね。

    飛田 うちは古いから、よくも悪くも各種業界、行政との関係も長いです。震
    災後、最近はいいほうかなあ(笑)。

    村井 社協のことですが、災害時にかけつけたボランティアと地元の社協がう
    まくいかないのは当たり前です。彼らは日常時のシステムですし、こちらは非
    常時のシステムを持っています。「勝手にやってきて、ああだこうだ言うなよ」
    となってしまう。ですから、初めから特別なときのシステムを造っておかなけ
    ればなりません。災害が長引くと日常のシステムで対応したほうがいいですし。
    今年の新潟豪雨災害のときはうまくいきました。
     また、行政は、いまだにNPOをなんとなく「こわい、うさんくさい」と思い
    込んでいるふしがあります。いずれにしても、お互いの交流がないと、わから
    ないんです。

    飛田 接触がないと前に進みません。GOとNGO、最初はやりあっても、例えば
    定例会合等持っていけば、いいのです。

    黒田 震災のとき、枠からはみだしたというので社協から追い出されたボラン
    ティアが西区の第7仮設住宅支援に入って活動しました。それが私たちの活動
    の端緒です。
     でも、その後、活動がある程度浸透していって、福祉関係の教育セミナーな
    どで県、市町村、日赤、保健所、ボランティアセンターなど、地域の組織のい
    ろんな人たちを巻き込んでいきながら、やってきました。

    菅 社協の役割は、中間支援ではないか、と私は思います。社協と災害ボラン
    ティア、両者をつなぐ機関が必要ではないでしょうか。宮城県北部地震被災5
    町のボランティア活動の実績を見れば、NPOのノウハウが入った地域では、受
    付数よりも活動実施者が上回り、活動が活発だったということがわかります。

    渥美 さて、これからの活動ですが、10年をこえての活動資金についてはい
    かがでしょう。

    飛田 うちはユースホステル、会議室など、収入が見込める施設を設立の財団
    が残してくれています。今後、資金稼ぎについて、「これだ!」というのはあ
    りません。

    日比野 飛田さんを見習いました(笑)。最近、商いをするという割り切り方
    も必要かなと思っています。ミッション100%からの変貌です。FMわぃわぃ
    も株式会社ですから、これからは稼ぎましょう(笑)。

    黒田 「市民基金こうべ」、今は資金がなかなか集まりません。人出の多い三
    宮、元町の街頭募金活動でもなかなか。ただ、入れてくれる人は、なぜか、髪
    の毛を染めた若者が多いのです。他の活動は、目標設定してクリアしていって
    るのに、市民基金こうべだけは、うまくいきません。市民は「理念」には反応
    してくれないのでしょうか。「夢」に対しては、お金をだすのでしょうけど。

    島田 ファンド・ライジングについては、主催者としていろんなノウハウを学
    んでいます。「ぼたんの会」も、賛同する各団体が売れば売るほどファンドが
    たまっていく仕組みです。単独ではできないことまで、大きくしかけをしてい
    きたい。「たんぽぽの家」では、なぜお金が集まるのでしょうか? という問
    いに、「イリュージョン(幻想)を与えることです」という答えが返ってきま
    した。まさに、夢をあたえる、わけです。

    日比野 1998年と2000年、札幌にいきました。2回目のとき、地域のリソース
    との関係で、神戸は追い越されたな、と感じました。彼らが言うには、「神戸
    のように大きなお金が動かないので、小さなところもこまめにまわって、汗を
    流して資金援助を頼んでいました。その情熱、メッセージ性が大事だと思いま
    す。

    村井 今年の新潟豪雨災害のとき、タオル送付の際に「10円」募金をお願いし
    ました。量が一定まで達すると不要になったのですが、それでも80万円になり
    ました。それから、資金もさることながら、これからは人材確保も大切です。
    多様な能力を持っている人の登録で、その能力を生かすために、人材バンクの
    ようなものも必要だと思います。新たな展開は、人も交流することから始まり
    ます。

    渥美 最後ですが、震災10年といわず、15年、20年に向けて、問題意識などひ
    とこと。

    黒田 高齢者問題、グループハウス、在宅ケアについて、NPO法人をつくって
    もいいと思います。制作提言としては、介護保険の65歳以下への対応を求めて
    いきます。

    島田 10年後も、夢を語れるように、描けるようになりたいものです。

    飛田 出会いです。人と人、テーマとテーマ、人とテーマ、それの繰り返し。
    当方からは壁をつくりません。

    日比野 神戸にはまちの底力を支えるエッセンスがあると思います。それがま
    ちの魅力になる神戸になったらいいなあ、と思います。

    菅 震災から10年、現場のニーズに合わせて支援する側、される側の入れ替わ
    りがあり、市民活動が展開されていたように思います。神戸では、まちが復興
    するなかで、NPOが存在していました。
     確かに、夢が必要です。夢に向かって、次の市民社会を創る芽をつくってい
    くには、市民活動の専門性、生活の場での専門性が必要なのではないでしょう
    か。

    (文責;渡邊 仁 上記、発言はメモを再現したものですから、正確さに欠け
    ることもあります。ご容赦ください。正確な報告書については、ひょうご・ま
    ち・くらし研究所 ?078-351-5511 までお問い合わせください。


    no.25
    □読者のみなさまへ
     オフィスのエアコンが12日朝、ぶっこわれました。ファンのところらしいで
    すが、20日を過ぎないと修理に来てくれません。
     ドアを開け、扇風機をまわしてはいますが、焼け石に水。まさに、汗まみれ
    で、“あせも”の04年の夏です。 
     仕事でお盆休みのとれなかったスタッフは、自宅で作業というありさまです。
     というわけですが、立秋も過ぎました。夏ばてされませぬよう、おからだ御
    自愛ください。

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    目次◆1 「拡大EU前に訪れた三つの国 その3    渡邊 仁 
         
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    ●拡大EU前に訪れた三つの国     

    仕事とはいえ、なぜかアイルランドとハンガリー、そしておまけにルーマニア。

    もともと仕事は、このメインの二つの国への旅のコンセプトづくりから始まっ
    た。
    昨年12月、アイルランド(愛蘭土)とハンガリー(洪牙利)のことを調べはじ
    めたが、まずは二つの国の共通項をあげることから始めたが、やはり苦労をし
    た。片や西欧の西はずれ、こなたは中欧の内陸国、面積は北海道ぐらいのとこ
    ろに、400万人と1000万人の人口、ケルトの民とマジャルの民、いずれも西
    欧のリーディングを務めるアングロサクソンとラテン、ゲルマンの民ではない。
    民族、風土、気候、気質など、違って当然の世界なのだが、ずんずんと歴史を
    遡っていけば、やはり、そこは同じ人類、おぼろげながら包括できるキーワー
    ドが設定できるようになっていった。
    キーワードは、バナキュラー(土俗的なるもの)と西欧の古層。つまりは、深
    層世界への旅とあいなったのである。

    ところが、実際の旅はそんなものではない。7月の本旅行の大義名分は整った。
    が、しかし、実質は観光視察旅行の随行だからして、時間的余裕、精神的ゆと
    りがなく、思考の垂鉛をたらすというわけにはいかないのだ。
    そんな駆け足の車窓から「垣間見たヨーロッパ」の随想に、しばしおつきあい
    のほど。
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    ●拡大EU前に訪れた三つの国 その3    渡邊 仁

    空港から首都ブカレスト(現地発音はブクレシュチ)の中心部までは、約20
    分。車窓からは郊外の畑や灰色にくすんだアパート群が眺められるが、旧共産
    主義時代の建物は、体裁だけ整った安普請。ガイドさんによれば、裏にまわれ
    ば、さらに、その劣悪な住居状況がわかるという。
    しばらくして左手に緑したたる大きな林が見えるが、そこはヘラストラウ湖を
    中心に市民の憩いの場として親しまれているヘラストラウ公園だ。ここまでく
    ると道は大通りといってよく、マロニエの並木道が心地よい。
    パリを真似てつくられた凱旋門ロータリーから勝利広場、ロマーナ広場を経由
    して、市内最大の繁華街、マゲル通りに入る。派手な看板が目に入るが、御存
    じKFC(ケンタッキーフライドチキン)とマクドナルド、いかにも、共産主義
    崩壊の後、いち早く一等地を確保した多国籍企業のどん欲さに感心。

    そして、投宿地であるブカレスト・ヒルトンへ。この五つ星ホテルも、決して
    大きくはないのだが、左手からアテネ音楽堂、大学図書館、旧共産党本部、共
    和国宮殿(国立美術館)と革命広場を囲むように立地。まさしく、ここも一等
    地。
    折から、アテネ音楽堂ではコンサートで、辺りには警官がうようよ。フォーマ
    ルな装いの紳士・淑女(?)たちの護衛に辺りを威圧する。
    ひとり勝手な行動は許されないために、革命広場をぶらつく程度で、ホテルへ
    戻る。のら犬(だと思われる)が三匹、革命広場の大きな駐車広場で、我関せ
    ずとばかりに熟睡、そばに近寄っても警戒感を示さない。

    ブカレストでは、農村博物館と国民の館(とは名ばかりの、悪名高きチャウシ
    エスクの宮殿)を見学した。ある意味で両極端といっていい。
    ヘラストラウ公園の一角に、ルーマニア農村部の民家、農家を地域と時代(18
    〜19世紀)で保存し、移築し、点在させている農村博物館。いかにも地味の極
    み。公園のみどりのなかに、幅のある茶色系と白系という限定された色彩がほ
    とんどで、いわゆる観光向きとはとても思えない。しかし、この時間がとまっ
    たかの雰囲気は個人で訪れるには申し分ない。
    ミュージアムショップにしても、雑然とした民芸雑貨店っぽくて、それがかえ
    って新鮮だ。緻密で洗練された伝統工芸品ではなく、ホントに、素朴な手づく
    りの衣類、楽器、陶器、織物などがあるばかり。
    もちろん、ここには近代化の極み、自動販売機など存在しない。水などは、自
    身で持っていくことをおすすめする。

    博物館の入り口の向い側には、物売りのおじさんたちにまじって、公園の木々
    の間にひもを張って、自らが描いた絵を販売している若い女性がいる。別段、
    売りに精を出すわけでもなく、椅子に腰掛けて緑陰で読書しながら、所望があ
    れば、という風情。おそらく美大生だろう、というガイドさんの話。でも、な
    にかしら、一陣の涼風が過ぎ去った、という気がした。
    ?
    さて、その対極にあるのが国民の館。とにかくでかく、だだっ広い。まわりか
    ら屹立している。ペンタゴン(米国国防総省)に次ぐ大きさなど、どうでもよ
    くなった。
    近代の独裁者とは、ここまで愚かなことができるのかと背筋が寒くなる。天井
    の高さ18mとか、カーテンの重さが2トンとか、床はすべて大理石だとか、
    向いに見える小さな館(といって十分に大きい)は奥方専用だとか、とにかく
    ばかばかしいほどにでかい。

    その館のバルコニーから見える統一大通りは、パリのシャンゼリゼを超える通
    りをというふれこみで、多くの風情のある建物が破壊され建設されたものだが、
    ただ整然としているだけで、寒々しい。通りに面している建物はまだしも、そ
    の裏にまわるとやはり安普請そのものだそうだ。
    この未完成の館の有効利用については、現政府にとっても悩ましい問題だ。な
    にせ、維持費が膨大なことは、その空間の広さで実感できるからだ。

    バルコニーから眺めるチャウシエスク(元大統領)は、我が街はすべて私のも
    の、という卑しい満足感に浸っていたのだろうが、ソ連の崩壊はドミノ倒しの
    ようにボディブローとなり、革命広場における銃撃戦の末、あえなく民衆によ
    って処罰された。
    当時、ニュースで見た遥かに遠い建物だった宮殿の内側から大通りを見ても、
    ありえないことがこの身に起こっているのに、感慨はどうしても慨嘆に終わる。
    愚かなるリーダーのもとで失われた街並、建物は戻りはしない。この街の住民
    にとって街並を愛でる気分の喪失感はここにも漂っている。記憶を継承するこ
    とは果たしてできるのだろうか。

    うって変わって住宅街のレストランでは、生野菜がたっぷり。アイルランドで
    はほとんど見かけなかったので、胃袋が喜んだ。さらに、ルーマニア・ワイン
    が期待していなかっただけに、ふくよかでコクがあり、しかも通貨基準の格差
    で500円ぐらい。高級ワインであることは間違いないが、それにしても高品
    質だ。一本持ち帰ったが、まだ飲んでいない。なにかの折りにあけるとしよう。
    ルーマニア・ワイン、まさにこれからが愉しみだ。
    五月にEU加盟をはたしたハンガリーに続き、ルーマニアもブルガリアとともに
    次回の加盟候補国となっているので、後発国でありながら、良質のワイン産出
    国として伸びてくるに違いない。

    一人歩きなどできなかった今回のブカレスト。よほどのことがないかぎり、お
    そらく二度と出かけることはあるまいが、通訳ガイドのお嬢さんの過去への言
    及(もちろん子どもの頃の話)に及んだときの暗い瞳を忘れることはできない。

    もし、次回という訪問時があるならば、ルーマニアがもっと明るくなっている
    ことを切に祈りたい。
    (この項、次回、ブダペストで終了です)

  • no.24
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    目次◆1 「これって、いのちを大切にすることなの?」をいつも問いつつ 
         
         寄稿者:坪谷令子(画家)
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    ●「これって、いのちを大切にすることなの?」をいつも問いつつ 
                                   坪谷令子
      
    2年前から京都の花園大学で、私がコーディネーター役になり、さまざまな分
    野の7人の方たちに登場いただくかたちで「現代のメディア文化」の授業をし、
    学生たちと週1回向き合っています。
    この『論々神戸』発行人の渡邊仁さん、前回書かれた林英夫さん、児童文学作
    家の岸本進一さん、シンガーソングライター趙博さん、神戸新聞社会部の磯辺
    康子さん、被災地NGO協働センターの村井雅清さん、阪神高齢者・障害者支援
    ネットワークの黒田裕子さん、……いわゆる“先生”ではなく、現場の人であ
    り、“神戸の人”たちです。

    情報社会の中でメディア批判をしつつ自分らしい生き方を目指すことが、ひい
    ては平和につながることを学んでほしい…若い人たちに戦争に行ってほしくな
    い、戦争のできる国にしてはいけない、との一心です。
    彼らに「平和の反対は?」と聞くと、「戦争」って答えます。もちろん、平和
    でない究極の状態が戦争でしょう。でもあまりに観念的、短絡的。身の回りの
    イジメや差別、人権の侵害、人を断罪して事足れりとする心情など…たくさん
    あるでしょう。つまり、「平和の反対は、平和でないこと」なんですね。平和
    はつくらないとできない。努力しないと手に入らないのです。

    今、絵を描く仕事をしていますが、かつて小学校教師として、また、保育園へ
    出かけて行って、子どもの絵と長く関わってきました。子どもと絵を描くこと
    を通して、“いのち”そのものと向き合うことをしてきた気がします。
    子どもが花を描くとき、種や球根に先ず思いを寄せる。そうして描いた花は生
    きている。子どもは、見えない“いのち”に自分を重ねられるのです。そのと
    き、一人ひとりも輝き躍動するのです。花びらのかたちをなぞらせるだけでは
    ダメなんですね。こんなふうに、子どもは絶えず表現の源流を示してくれてい
    ました。
    私もそんなありようで絵を描きたい、そんな祈りとともに絵本を創っていきた
    いと願っています。なかなか、うまくは運びませんが。

    仕事をしながら、アトリエの前に広がる明石の海に目をやり、それに連なる神
    戸の海を思うと、暗い気持ちがよぎります。
    この明石・大蔵海岸に至る歩道橋で、3年前の花火大会の日、11人もの生命
    …お年寄り2人と9人の子どもたち…が奪われる事故(というより事件)が起
    き、その年の暮れ、砂浜陥没により幼い女の子が亡くなったことは、まだ皆さ
    んの記憶にも新しいことでしょう。

    それにしても、事件や事故、災害、戦争…こんなにも“いのち”がないがしろ
    にされる辛いことや酷いことが押し寄せてくる日々って、これまで、あったで
    しょうか。そんな中で、なんにも批判せず、ただ流されるのは無責任…私たち
    は、あの地震から、そのことを教えてもらったのでした。
    地震が篩(ふるい)の役目をした、と改めて思い起こしています。篩にいろん
    なものを入れて振るったら、細かいものが全部落ちちゃって、大きなものだけ
    が、しかも真ん中に寄ってくる、あの感じ。…いっぱいモノを持ち過ぎて、わ
    け分からなかったり、瑣末なことに囚われたり思い込んだりしていたのが、何
    が大事なのか、揺すられつつ問われた気がした…とでも言えばいいかしら。

    教育・文化・福祉、農漁業・環境・まちづくりから政治の問題、そんなバラバ
    ラにあると思っていたものが、実は根っこでつながっているということも見え
    たわけです。それぞれに違うことをやっているようだった人も、根っこのとこ
    ろでつながっていたり、つながり合えることを知って励まされたりしたのです
    ね。
    根っこは“いのち”。しっかり張った根っこだと、幹を伸ばし、ちゃんと枝葉
    まで目いっぱい育ち合える。そこを大事にするかどうか。「いのちを大切にす
    ること」さえ、モノサシにすれば、やっちゃいけないこと、やらなきゃいけな
    いことが見える…そう学んだのでしたよね。

    人を傷つけてももいい、殺してもいい、戦争してもいいなんて、誰も子どもに
    言えない。なのに、政治、経済・企業、もしかして教育の分野においてさえ、
    「けど」「でも」で、くつがえす。目の前の儲けや競争のために。
    「これって、ほんとに“いのち”を大切にすることなの?」と、常に問うてみ
    ましょうよ。根っこに“いのち”を据えていないような動きは、どっかにウソ
    があるのじゃないのかな、と。
    生命の歴史36億年の果てに、藻場を荒らし、生態系を乱し、人間を含むすべ
    ての“いのち”を危うくするものとして、明石の海岸の埋め立ては要らなかっ
    た。神戸空港も要らないです。潮流に起きた変化で、明石では今年、養殖海苔
    の色付きが悪いそうです。海が人間たちに警鐘を鳴らしてくれているのですね。

    “私たちの海”が汚れ壊れていくときには、子どもたちも輝きを失っていく…
    経済最優先のもとで、ひたすら子どもを教え導き、競わせ管理するという世界
    は、幸せではないですね。おとなも子どもも。

    おとなと子どもが自然の中で他の“いのち”を感じながら遊んだり、絵本を見
    ながら魂のレベルで共感し合えるような、そういう世界を持っていられるなら、
    大丈夫、まだ間に合う…そんな思いを共有できる人々とのつながりに希望を見
    い出しながら、やっと生きているのでしょうね、私は。もう疲れたなどと、す
    ぐ言ってしまいそうになるのですけど。
    あきらめてはいけない、ですよね。子どもや若者たちのためにも。

    〜大阪ボランティア協会編・市民活動情報誌『Volo』のインタビュー記事に加
    筆・再構成〜

    □プロフィール
    1948年、神戸市生まれ。神戸大学卒業後、神戸で10年教師をし、のちに子ど
    もの本の世界に入る。77年の『せんせい けらいになれ』以来、灰谷健次郎氏
    との仕事が多く、絵本に『星砂のぼうや』など。『天の瞳』は現在、続刊中。
    この春の個展では、永六輔氏・文の絵本『いのち』の原画も展示された。

  • no.23

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    目次◆1 メディアの功罪  
        
         寄稿者:林 英夫(フリーキャスター、ライター)
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    ●メディアの功罪    林 英夫

    今年も京都の花園大学で「現代メディア文化」のメディア・リテラシー(メディアを読み解く)の講義(連続三回)を担当しています。画家の坪谷令子さんの依頼を受けて、もう三年目になります。
    阪神淡路大震災や神戸・須磨区で起きた連続児童殺傷事件を教訓に、マスメディアが何を伝え、何を伝えなかったのかをメインテーマにして、メディアを読み解く力をつけてもらおうと講義と演習を行っています。
    去年までは30人余の小クラスでしたが、今年は70人余の受講登録で、だいたい毎回50数人が出席、それだけメディアに対する若者の関心も広がっているのでしょう。メディア関連学科を新設する大学も増えているようです。

    ものの見方について林は「鳥の眼」と「虫の眼」を強調しています。全体を俯瞰して見る「鳥の眼」と、部分を虫眼鏡で詳細に見つめる「虫の眼」の両方を持ち合わせて全容を把握できることを繰り返し教えています。災害や、事件・事故の場合、特にマスメディアは取材ヘリなどの映像を使って、第一報で「大変なことが起きた!」と騒ぎますが、では実際に被災したり、被害に遭っている人は大丈夫なのかどうか、助けの手立てはどうなっているのかなどを詳細に伝えてくれません。この背景にはメディアの「より早く」競争があり、「誰のための、何のための報道か」という問題がおろそかにされている面があります。
    そしてメディアスクラム(メディア各社が取材に殺到)による二次被害の問題。こんなところから、メディアの取材を法律で規制しようというような動きも強まってしまうのです。

    このようにマスメディアのあり方を考えることは、ひいては自分たちの普段のコミュニケーションのありかたや、人間関係のあり方を考えることに繋がるので、情報洪水とも言える現代情報社会のプラス面とマイナス面について具体的に検証しています。
    メールの送り方ひとつをとってみても、相手を傷つけるような内容になっていないか、相手の気持ちになって双方向のコミュニケーションを取るべきだという話をしていた矢先に、佐世保で悲しい事件が起きてしまいました。メディアは誰のために、何のためにあるのかを徹底的に考えないと、せっかくの便利な伝達表現道具が、凶器になってしまいます。

    六月二日はテレビ番組の制作方法についてVTRを見ながら、メディアがいかに演出、編集、構成されているかということを学んでもらいました。
    たとえメールひとつでも、相手の表現を額面どおりに受け取るのではなく、相手がなぜそういう表現をしようとしているのか、相手の立場にたった理解をしていくことでメディアをプラスに生かしていくことができるのだと思います。

    メディアは人と人を分断するものではなく、人と人をつなぐ道具なのです。

    □プロフィール
    1949年、大阪市生まれ、神戸育ち。73年、関西学院大学社会学部卒業。サンテレビジョン入社、報道部でリポーター、キャスターを経て、報道部長。
    03年、退職、神戸市会議員に当選。著書に『安心報道』(集英社新書)。

  • no.22 2004/
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    目次◆1 拡大EU前に訪れた三つの国 その2  
        
         寄稿者:渡邊 仁(本誌)
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    ●拡大EU前に訪れた三つの国 その2    渡邊 仁

    仕事とはいえ、なぜかアイルランドとハンガリー、そしておまけにルーマニア。

    もともと仕事は、このメインの二つの国への旅のコンセプトづくりから始まった。
    昨年12月、アイルランド(愛蘭土)とハンガリー(洪牙利)のことを調べはじめたが、まずは二つの国の共通項をあげることから始めたが、やはり苦労をした。片や西欧の西はずれ、こなたは中欧の内陸国、面積は北海道ぐらいのところに、400万人と1000万人の人口、ケルトの民とマジャルの民、いずれも西欧のリーディングを務めるアングロサクソンとラテン、ゲルマンの民ではない。
    民族、風土、気候、気質など、違って当然の世界なのだが、ずんずんと歴史を遡っていけば、やはり、そこは同じ人類、おぼろげながら包括できるキーワードが設定できるようになっていった。
    キーワードは、バナキュラー(土俗的なるもの)と西欧の古層。つまりは、深層世界への旅とあいなったのである。

    ところが、実際の旅はそんなものではない。7月の本旅行の大義名分は整った、しかし、実質は観光視察旅行の随行だからして、時間的余裕、精神的ゆとりがなく、思考の垂鉛をたらすというわけにはいかないのだ。
    そんな駆け足の車窓から「垣間見たヨーロッパ」の随想に、しばしおつきあいのほど。

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    ●拡大EU前に訪れた三つの国 その2    渡邊 仁

    ダブリンはアイルランドの首都、しかも全人口のうち三分の一が住むという、ある意味では一極集中の極みといってよい。しかし、そのたたずまいは、同程度の都市と比較すれば落ち着いているというしかない。
    その理由の一つには、高層ビルがないことである。摩天楼がない、これは経済を第一義に考えた都市が垂直に指向するのとは反対のベクトルを向いている。
    およそ、財を生み出すための効率化という考え方がいまのところまだ馴染んでいないという結果だろう。
    二つ目には、海外からの流入人口が少ないことだ。つまり、「あそこに行けばなんとかなる」と考えて職を求めた者がいなかったことで、アイリッシュ中心の均質化が守られてきたのである。

    市内の中心にあるトリニティ・カレッジ(ダブリンには3つの大学しかない。つまり、高等教育への志願者がこれまで少なかった)や、大統領執務室があり、国会(上院・下院)が開かれるレンスターハウス、国立博物館などが集中しているエリアは意外なほどこじんまりとしていて、歩いて回れる程度。

    人通りの多いところは、トリニティカレッジ南東角から市民の憩いの公園、セント・スティーブンス・グリーンまでの歩行者天国グラフトン・ストリート(約500m)からテンプル・バー界隈となるが、オープンカフェが多く、休日ということもあって、昼間からにぎわっていた。
    大道芸、ストリートバンド、花売り、ジュエリーショップなど、都市を彩る小道具たちは、この街でも盛んに行われている。ただ、高級な店ばかりというわけでもないし、人々のファッションもカジュアルなものが多く、おしゃれな街というには程遠いのは確かである。

    折から、政府の政策に反対する集会がレンスターハウス前で開かれていたが、アイリッシュ・グリーンの服装やプラカードが目立つ。
    国立博物館へ入る手前のため、しばらく観察もできなかったのだが、終わって出てみると、まだ人だかりがしていて、音楽も聞こえる。
    ちょうど演台になっていたトラックではバンドがジグやリール(アイリッシュ・ミュージックの土台ともいうべきダンス・チューン)を奏でている。どうやらカトリック系らしい、と思って聞いてみたら、実はシン・フェイン党(設立時、アイルランド共和国設立=1919年=に寄与)支持者や市民団体によるものだった。もう少し詳しいところを、と思ったが、バスに帰らざるをえず、サヨウナラ。

    アイルランドの高速道路は決して多くはない。ダブリンから放射線状に数本あるのみだ。しかし、乗ってみると、その快適さがわかる。中央分離帯はもちろんのこと、両サイドも緑、また緑。若葉の萌える頃だったので、ことさらに美しかったのかもしれないが、灰色の遮断壁に囲まれた我が国とは比べようもない。

    さて、アイルランドといえばギネスビール。
    さいわいなことにギネスの工場の一角にあるギネス・ストアハウスで、本場のギネスをしこたま味わった。きわめて無機質的で近未来モダンな展示室と古さそのもののビールとの好対照。
    飲んだギネスといえば濃厚・豊潤な味わい、なめらかな泡のタッチ、ほんとにうまい。炭酸飲料というより、まったりとした滋味飲料という感じだろうか。
    至福なり。
    ダブリンの中央を二分するリフィ川の水を使っている、となれば最高のイメージだが、これではブラック・ジョークになってしまう。ギネスに使わなくて良かったもの、それはリフィ川の水。見れば了解、である。

    同じアルコールではアイリッシュ・ウイスキー。これも、まろやかなウイスキーとして、あらためて感心した。スコッチやバーボンとの比較試飲ではっきりとわかる。
    クセがないのだが、ライトではなく、芳醇ではあるが、とげとげしさがない。
    ウイスキー好きではないものにとっても、このウイスキーは、ちょっと気になる。日本で味わってみても違うのだろうか。試してみたい。

    フォーシーズンズ・ホテル周辺は静かな邸宅地。アメリカ人宿泊者が多いせいか、部屋には親切なジョギングコースマップが置いてあり、それにしたがって、早朝の街を走ることにした。
    当然のことながら車も人通りも少なく、小さな運河にそって約3マイル。静かな街並にアイリッシュ・グリーンの郵便ポスト(形は、日本にもあった円筒型)が、ぽつりぽつりとたっている。空気、あくまでも爽やかで、汚れていないオールド・イングランドの雰囲気に似ている。

    ただ、忘れてはならないのは、先程、街を二分したリフィ川と記したが、この川を境にして南北格差があることだ。南はいわば山の手界隈、北がいわゆる下町界隈、しかも都市のダーティな部分は北側に集中している。麻薬犯罪など多発地区は北側にあるが、観光ガイドからはもちろんはずされている。その辺りのことは、今上映中の『ヴェロニカ・ゲリン』(ケイト・ブランシェット主演)に詳しい。ぜひ、ご覧くだされたし。

    あわただしく通り過ぎたアイルランドではあったが、それでも、数少ない人々とのコンタクトを通して、地球上の生活の有り様について、歴史をふまえながらの思いをめぐらせることができた。
    同じ時間が流れてはいるのだが、確実に流れかたが違う。
    ついこの間まで北アイルランドという内戦模様のエリアを島の一部にもち、西側最貧国とまで言われたアイルランドは、工業化を経ずして近代国家となった
    が、まだ成りきれていない。それはいいことでもあると気づけばいいが、いまの若者たちの耳に届くとは思えないところが切ない、と言っては言い過ぎだろうか。

    (続く。次はルーマニアです。)

  • no.21 2004/6/1

    □読者のみなさまへ
     すでに、お読みの方々も多いと思われますが、今回の寄稿は広原さんから気持ちよく転載の許可をいただきました。
     なお、こちらから依頼するかたちだけではなく、読者のかたがたからのご寄稿もお待ちしております。
     どうぞ、この「スピーカーズ・プレイス」をお気軽にご利用のほどを。

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    目次◆1 まちづくり提案型選挙をたたかって
    〜2004年市民派京都市長選挙の実験と教訓〜
        
         寄稿者: 広原盛明(京都市長選挙候補者)
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    ●まちづくり提案型選挙をたたかって
    〜2004年市民派京都市長選挙の実験と教訓〜
      広原盛明(京都市長選挙候補者)

    本稿は、雑誌『住民と自治』(自治体研究社、2004年6月号)に掲載されたものです。
    内容としては、京都市長選挙に関する私の個人総括の「PART4」に該当します。

    #はじめに

    2004年2月の京都市長選挙は、わが国での「市民派(首長)選挙」の第一歩として長く記憶に止められるに違いない。それは本格展開とまではいかなかったが、少なくとも21世紀の新しい政治潮流に対応する創造的実験だったといえるだろう。それはまた、政治都市・京都でこれまでには見られなかった新しい選挙戦略・シナリオの展開でもあった。この選挙において、筆者は候補者であると同時にシナリオライターとしての役割も担った。いわばプレーイング・マネージャーとして市長選挙に参画したのである。

    すでに京都市長選挙に関する筆者の個人総括は、
    ホームページ (http://www.hirohara.com/)上で公開している。
    したがって本稿では重複を避け、市民派選挙なるものの中身についてできるだけ具体的に語りたいと思う。

    #市民派選挙とマニフェスト

    筆者のいう市民派(首長)選挙とは、候補者が市民各層の選考を通して決定され、選考組織との協議に基づいて作成した候補者政策(マニフェスト)を広く市民一般に提起し、その市民マニフェストに賛同する全ての個人・グループ・団体・政党などが協力してたたかう広範な「ネットワーク型選挙」のことである。
    今回の選挙では、京都市長を選ぶ市民の会、市民本位の民主市政をすすめる会、京の景観・まちづくり住民運動ネットワーク、京都総評、21世紀の京都を考える龍谷大学ネットワークという、規模も性格も全く異なる5団体が選挙母体として「2004春・京都市民ネットワーク」を結成し、選挙戦を闘った。
    「ばらばらで一緒」というのがその合言葉だった。
    市民派選挙においては政策づくりが決定的に重要だ。党派選挙においても政策が重要であることは当然といえば当然だが、市民派選挙においては「マニフェスト」(だけ)が思想信条や支持政党を超えて有権者が結集する「結び目」となるだけに、とりわけ重要な位置を占めるのである。党派選挙の場合は、政党の存在それ自体が支持・不支持の判断基準になる場合が多いのに対して、市民派選挙の場合は、候補者の人物や政策そのものが投票基準の大きな要素になるからである。

    また、今回の政策づくりのもう一つの大きな特徴として、従来型の「要求積み上げプロセスには必ずしもこだわらないでいこう」ということがあった。具体的にはこうだ。まず市民・住民なら誰もが参加できる(はずの)「まちづくり」という政策プラットホーム(討論の場)を設定し、それに基づいて「こんなまちにしたい。こんなまちに住みたい」という「ひと・まち・くらし」のトータルイメージの提案に重点を置くことにした。そこで生まれたのが「京都資産を生かしたはんなり京都」というキャッチコピーだった。特定の階層や組織に依拠した個別要求の積み上げよりも、広範な市民各層に訴える京都のあるべき全体像を提起することに政策の重点を置いたのである。

    #要求動員型選挙の成果と限界

    通常、党派選挙においては支持者の要求積み上げプロセスがきわめて重視される。まして首長選挙ともなれば行政全般のあり方が問われるだけに、各層・各地域の住民要求をきめ細かく積み上げながら政策がつくられていくのである。
    これまで京都では、共産党を中心にして労組・業者団体・民主団体が「民主府政の会」や「民主市政の会」などの恒常的共闘組織を機軸にして首長選挙が闘われてきた。そこではまず「要求アンケート調査」によって構成員や住民・市民の要求を把握し、次に組織的討議の積み重ねによって政策化するという手順がとられてきた。そして要求実現の場として自治体交渉を位置づけ、その「総決算」として首長選挙に構成員を動員するのである。この方式は、労働組合の職場要求交渉方式を自治体交渉や選挙戦術に応用したものといえるだろう。

    しかしながら、高度成長期の革新府政・革新市政時代に大きな成果を挙げてきたこの方式も、最近になってとみに固い壁にぶちあたるようになった。なぜなら共産党の野党転落と自治体財政の逼迫によって要求実現が次第に困難になり、構成員の間に顕著な「要求運動離れ」が生じてきたからである。また「住民・市民に代わって組織・団体が政策化する」という従来方式が、「たとえ少数であっても自分たちが直接参加して要求を実現したい」という住民参加・市民参加ニーズに必ずしも馴染まないことが明らかになってきた。だがそれを打開する方向がなかなか見つからないままに、勝てない選挙が続いてきた。

    #まちづくり提案型選挙とは

    今回の市民派選挙の特徴を一口でいえば、それは「まちづくり提案型選挙」だということだろう。従来の「要求動員型選挙」が間違っているというのではない。自明のことだが、要求がなければ支持者の運動は起こらないしエネルギーも出てこない。要求に基づく政策でなければ有権者にアピールもしないし政策にもならない。問題はどのような方法でどんな要求を組織するか、なのだ。
    まちづくり提案型選挙とは、都市・コミュニティの調和のとれた持続的発展のために必要とされる地域経済・社会・環境のあり方を説得力をもって描き出し、それを実現するための方策と住民・市民の参加プロセスを「まちづくり政策」として具体的に提起することである。

    京都でいえば、存廃の危機に直面している伝統産業・地場産業を体験学習型観光と結びつけて建て直す。町家の修復を通して大工・職人の仕事を確保し、学生や若者ファミリーに住まいの場の提供することで高齢社会に歯止めをかける。
    高層マンションを規制して歴史的街並みと自然環境の破壊を防止し、持続的観光につなげる。新型路面電車(LRT)を導入して自動車交通を抑制し、安心して歩けるまちと商店街の再生を図る、などがその一例である。

    なぜこのような提案型選挙が求められているのだろうか。
    それは巨大スーパーの国際進出によって地域商店街が刻々と破滅に追いやられているように、いま現在、わが国では新自由主義政策によって地域経済が激しく空洞化し、家族と地域社会が崩壊の危機に瀕しているからである。これまでの都市生活と地域社会を支えてきた各種の生活インフラが寸断され、コミュニティの安定が根底から揺らいでいるからだ。
    そしてこのような時代には、今日明日を生きていくための要求に応えると同時に、新旧中間層も含めた市民相互の幅広い地域関係の再構築を通して、新自由主義体制に対抗する「地域再生戦略」ともいうべきトータルな住民・市民運動が求められているからである。

    #国政課題と地域マニフェスト

    住民・市民を支える「生活インフラ」に関する政策には、もちろん年金・消費税・医療福祉・教育など国政に直結する課題も多い。またこれらの全てを包含するものとして戦争と平和の問題がある。事実、京都市長選においてはイラクへの自衛隊派兵問題をめぐってこれをいかに政策化するかが鋭く問われた。
    しかしこの場合においても、地方選挙とりわけ首長選挙は国政課題を直接の争点にしてたたかう総選挙とは異なり、「都市・地域の文脈」に即しての政策展開が必要との立場を貫いた。イラク派兵問題に関していえば、イラクの首都バグダッドは京都と同時期の8世紀に創建され、京都と同じく「平安京」(マジーナ・アッサラーム)という名の歴史都市であったこと、また現在は京都が主催する世界歴史都市会議の正式加盟メンバーであること、そしてその盟友都市の攻撃に日本が決して加担してはならないこと、国連主導の復興支援に協力することこそが京都の役割であることなどを、マニフェストの第1項目に掲げてたたかったのである。

    それからもう一つの政策課題として「地域マニフェスト」の問題がある。京都の全体像の提起が重要だといっても、大都市である京都が均質であるわけがない。都心部と郊外部では全く様相が違うし、またJR東海道線を境目にした南北格差も結構大きい。京都といってもコミュニティの性格はまるで「モザイク模様」なのだ。だから提案型選挙を徹底しようとすれば、京都全体をカバーする「はんなり京都」マニフェストとは別に、行政区あるいは学区を単位とした「地域マニフェスト」の具体化が必要だった。でも、それを具体化するだけの時間も能力もなかったというのが京都の現実であり実力だった。

    #おわりに

    選挙時の要求項目の政策化は、とかくその時々の政治情勢によって左右されやすい「応用問題」である。それに対して地域マニフェストの作成は、住民自らが地域問題を調査・発見・分析し、その解決のための処方箋まで考えなければならない「基本問題」だ。それは、当局に対してただ「実現してほしい」とお願いするだけでは決して実現できない代物である。
    筆者のいう提案型選挙の本質とは、当局に問題解決を委ねるのではなく(当局は徹底的に利用すべきだが)、住民・市民が問題解決の(知的)イニシャチブを握ることなのだ。住民・市民が問題解決の方向を指摘し、相手がそれに従わざるを得ないほどの説得力すなわち「市民力」を持つことなのである。

    21世紀最初の京都市長選挙は終わった。残念ながら市民派の旗を掲げてたたかった「2004春・京都市民ネットワーク」は勝利することが出来なかった。
    しかし、そこで得られた経験と教訓は決して小さなものではない。良質の新旧中間層も参加する市民派市長選挙の日はそれほど遠くないのである。

    □プロフィール HIrohara, moriaki
    1938年生まれ、京都大学建築学科卒。工学博士。京都府立大学学長、竜谷大
    学法学部教授を経て、2004年2月、京都市長選挙に立候補、次点で敗れる。
    著書に『震災・神戸都市計画の検証』など多数。

  • no.20 2004/5/17

    □読者のみなさまへ
     今週は、震災とはかかわりのない、旅のエッセーですが、これも貴重な体験
    でしたので、ご一読ください。
     なお、こちらから依頼するかたちだけではなく、読者のかたがたからのご寄
    稿もお待ちしております。
     どうぞ、この「スピーカー」をお気軽にご利用のほどを。

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    目次◆1 拡大EU前に訪れた三つの国 その1  
        
         寄稿者:渡邊 仁(本誌)
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    ●拡大EU前に訪れた三つの国 その1    渡邊 仁

    仕事とはいえ、なぜかアイルランドとハンガリー、そしておまけにルーマニア。
    もともと仕事は、このメインの二つの国への旅のコンセプトづくりから始まった。
    昨年12月、アイルランド(愛蘭土)とハンガリー(洪牙利)のことを調べはじめたが、まずは二つの国の共通項をあげることから始めたが、やはり苦労をした。
    片や西欧の西はずれ、こなたは中欧の内陸国、面積は北海道ぐらいのところに、400万人と1000万人の人口、ケルトの民とマジャルの民、いずれも西欧のリーディングを務めるアングロサクソンとラテン、ゲルマンの民ではない。
    民族、風土、気候、気質など、違って当然の世界なのだが、ずんずんと歴史を遡っていけば、やはり、そこは同じ人類、おぼろげながら包括できるキーワードが設定できるようになっていった。
    キーワードは、バナキュラー(土俗的なるもの)と西欧の古層。つまりは、深層世界への旅とあいなったのである。

    ところが、実際の旅はそんなものではない。7月の本旅行の大義名分は整った、が、しかし、実質は観光視察旅行の随行だからして、時間的余裕、精神的ゆとりがなく、思考の垂鉛をたらすというわけにはいかないのだ。
    そんな駆け足の車窓から「垣間見たヨーロッパ」の随想に、しばしおつきあいのほどを。
    ************************************************
    アイルランドへは、ロンドンから空路で入った。夜10時を過ぎているので、空港からホテル(フォーシーズンズホテル 五つ星*1)まで、ダブリン市内を通過するも、夜景からするとまぎれもなく英連邦の古くからある都市のたたずまい。高層ビルの影一つみあたらない。
    閑静な高級住宅街に位置するホテルで、遅い夕食を食するも、ディナーコースの試食とはいえ、まずはアイリッシュ・ヌーベルキュイジーヌとあいなった。
    オレンジとトマトの温製スープ、鹿肉ステーキ、あんこうとロブスター入りリゾットなど、ふだん食べ慣れないもので、きわめて美味としか言いようがない。

    翌早朝、ダブリンから南西部ケリー州の観光拠点キラーニーへ飛ぶ。ひさしぶりのプロペラ機で、眼下の風景が見られるかと思ったら通路側で残念。この近くのキログリンという街にF薬品(今回のクライアント)の海外生産拠点があるからだ。
    空はどんより鉛色。バスの車窓からは、なだらかな丘陵に牧草を食む羊、牛、そして馬の放牧風景が過ぎていく。アイルランドの土地の60%は耕地、そのまた90%が牧草地だという。ところどころのブッシュの固まりは、黄色い花でおおわれている、なんでもハリエニシダという花らしい。そして、八重桜の濃い桃色が鮮やかだ。

    ケリー州は、ここ10年で乳製品の産地としてクローズアップされてきた。EU参加による集中投資による技術導入で、急激に製品レベルが向上し、アイルランドの乳製品の人気はヨーロッパで高まっているという。
    この辺りの地名の冒頭に「キル」という言葉が散見されるが、アイルランド語(ゲール語)で、教会を意味する。ちなみに、アイルランドは、キリスト教の布教において、膨大な血が流されなかった国として記憶しておいてよい。聖戦というおぞましい戦いにならなかったのは、海の向こうからやってきた人々への畏怖と寛容、そして、カトリックのほうも、自然になじんでいったのだろう。それは、日本における縄文と弥生の混合のようななじみ方ではなかったろうか。

    キラーニーは、ケリー周遊路(一周170km)の拠点だが、家々の原色の壁(例えばグレー&ピンク、クリーム&レッド、ホワイト&グリーン、インディゴブルー&レッド、オレンジなど)が可愛らしい街並で、ジャンティング・カーという馬車などが闊歩していて微笑ましい。アイルランド系アメリカ人**にとっては、故郷に帰ってきたかのような郷愁を味わえることで、人気が高いということだ。
    キラーニーは、背後にマキルクリー山脈の主峰(といっても六甲山ぐらいの高さ)をもつロック・リン湖というまことに美しい湖に面している。意味は、知恵の湖。その昔、地元の王が修道院を建てたことに由来する。昔の修道院は、いまでいう学問の府、大学のようなものだから、記憶にとどめておかれたわけだ。
    一方、キログリンの高台にあるゴルフ場からは、ラウン川とディングル湾の入り江が眺められる。ここは映画『ライアンの娘』の舞台にもなったところだ。71年の作品だが、まさにアイルランドが西欧の最貧国と呼ばれ貧しかった時代を活写している。
    どんよりした雲が風に流れ、鉛色の空とあいまって、いかにも陰鬱な風情をかもし出している。だが、一日のうちに四季があるといわれるアイルランドでは、これもまた、一瞬一瞬の流れゆく現実であろう。

    宿泊のホテル・ヨーロッパ*は、EU15カ国の会議が行われたこともあるホテル。ロックリン湖畔に建っていて、リゾートホテルとしての貫禄にあふれている。
    ドイツ系資本だそうだが、エレベーターの装飾、部屋の鍵一つを見ても、重厚だ。部屋から湖を眺めると、茅葺きのような屋根を持つ小屋が見える。これは、昔のアイルランドの農家に見られるスタイルで、最近では、わざわざそのような屋根をデザインした家が売れるということだ。もちろん、茅はないので、葦でつくられる。

    翌朝、時差ぼけはなおらず、目が醒めて、未明の湖をぼんやりと眺めていると、荘厳ともいうべき風景に出くわした。
    相変わらず、雲は流れている。と思いっていると、いつのまないか薄明という
    のか、目の前の景色が、全体に淡い紺紫に染められている。思わず息を呑んで、カメラのシャッターを押した。ほんの数分の色合いだった。帰って現像してみたが、やはり一枚だけ、その色を表していた。まさに、眼福であった。

    シリアルやデザートがすばらしい朝食をいただいて、ダブリンへ帰る。今度は窓際で、土地の様子がよく見えた。
    まさにグリーンのパッチワークである。いろいろな色合いのグリーンの一片一片が敷きつめられている。
    一年中、雨によって潤いがもたらされているアイルランドの耕地。ジャガイモだけの農地から、牧草地への転換は民にも恵みをもたらした。

    (続く)

    *ホテル 宿泊したホテルはいずれも最高級の五つ星。自費では躊躇する価格である。
    **全世界にアイリッシュ系の人々は約7000万人、そのうちアメリカ人は
    約4000万人といわれる。

  • no.19 2004/5/2

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    目次◆1 人の街 4     
         寄稿者:永田 収(写真家)
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    ●人の街 4     永田 収

    下町にある市場からの報告を今回も続けてみよう。

    以前にも紹介した平野市場だが、ここは最近になって歴史を通じての町おこしが盛んになっている。これは当然、市場内だけにとどまらず町全体にも広がっていて、先日は平野歴史クラブが主催で、平野を懐古する写真のスライド上映会が行われた。日曜日の午前中にもかかわらず大勢の人が集まり、昔の町並みの写真などを皆で熱心に眺めていた。やはりわが町の歴史に関心を持つ人は多いようだ。

    この市場にはもう一つ、史跡を守る会という集まりがあり、こちらは最近、主だった史跡に立派な看板を立てた。平野は史跡の宝庫だ。平清盛の時代のものから、勝海舟が寓居とした屋敷跡まである。また来年はNHKの大河ドラマが義経に決まり、外からもこの地区に目が注がれつつある。しかし、大河ドラマは別として、何故ここ数年、歴史回顧が盛んに試みられるようになったのだろうか。
    ある人に訊いてみると、地震後の町の変貌や市場の衰退を目の当たりにして、歴史を振り返り、本物をじっくり見つめる気持ちが強くなったからではないかという。
    遅いと言えばそうかもしれないが、神戸再生のヒントの一つがこの平野に隠れているのかもしれず、これからも見守って行きたい町のひとつになった。

    もう一つ、新長田の南に位置する丸五市場をのぞいてみる。

    ここも平野市場と同じように古く、特に震災後の衰微が目立つ。しかし隣接する地区は日本でも最大級の再開発地区で、すでに何棟もの新築のビルがそびえ立っている。一つ通りを隔てた町のコントラストには激しいものがあり、将来への不安がよぎる。
    市場側は純然たる下町、その中で生き残りをかけて挑戦し続ける。震災時70店舗あったが今は22店舗に。先日は「丸五丼」という5店舗が協力して作り上げる名物丼なども開発した。
    さらに今年は空き店舗を使ったアートの展示に力を入れる。外部から人を呼び込み特色を出して行くという。ここにはいい意味での開き直りがある。だが、あくまで寄り添うのは高齢者の多いこの地域。スーパーでは満足できない人たちをどのくらい引き止めることができるか、だ。

    平野は歴史という一本柱があるが、この長田の現状は複雑だ。かつて西新開地と呼ばれ、ゴム産業やケミカルシューズで栄えたこの地区。各家庭が内職にいそしみ、忙しい主婦にとって市場はなくてはならない存在だった。しかしその後の産業構造の変化で徐々に後退、それに追い討ちをかけての地震。そして地区を二分するかのごとく進む再開発事業。
    関係者に言わせれば決して二分化の方向ではないと証言するだろう。確かにここには(株)ながたティ・エム・オーという連合体の組織が町おこしを引っ張っていて、「丸五丼」や「ぼっかけ」商品の開発などにも大きくかかわり町を盛り上げている事実はある。

    しかし、全体を眺めれば、行政はやはり巨大再開発事業が優先で、何かとアンバランスな部分が増えてくるのは否めない。
    先日は南駒栄の公園跡に巨大なホームセンター「アグロガーデン神戸駒ヶ林店」がオープンした。日用雑貨をはじめ、ありとあらゆる商品が体育館数個分のフロアーに並べられている。巨大店舗の誘致の陰で個人商店の経営は青息吐息。これが現実。
    かつて夏になれば夜店も並び、映画館が二館もあった六間道商店街も閉店の店が目立ち始めた。

    問題の核心は新築の住居にどれくらいの人口が戻るかだろう。しかし、それはそう簡単な問題ではない。そして時間もかかる。市はどれほどの展望をこの地区に持っているのか一度問いただしてみたい。また果たして地域住民の側に立つ再開発は可能なのか。未来に禍根を残す事業になるのではないかと危惧するのは筆者だけではないはずだ。

    □プロフィール
    1953年、岡山県生まれ。フリーカメラマン。写真専門学校卒業後、世界各国を転々とする。93年より、下町をとりあげるミニコミ誌『SANPO』を発行。以後、変貌する街をテーマに撮影を続行。大阪・神戸にて、写真展を開催。

  • no.18 2004/4/15

    □読者のみなさまへ
     4月1日号は、諸事情とはいえ、発行できなかったことをお詫びいたします。
    マジでへこたれていますので、お許しください。
     また、4月22日〜5月2日まで、海外出張となりましたので、その間、ホームページの更新がかないませんので、ご了承ください。

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    目次◆1  フォーラム「人間・科学・文明」(3月7日)の報告 その2
       ──「関係性」を取り戻す
         寄稿者:渡邊 仁(本誌編集長)
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    ●フォーラム「人間・科学・文明」(3月7日)の報告 その2
     ──「関係性」を取り戻す

    □パネル・ディスカッション 「人間、科学、文明」
     パネリスト
     松井秀典(東京大学大学院教授 比較惑星学)
     安田喜憲(国際日本文化研究センター教授 環境考古学)
     中沢新一(中央大学教授 宗教人類学)
     コーディネーター
     川勝平太(国際日本文化研究センター教授 比較経済史)       
    #発言の要約

    川勝 河合隼雄さん(その1参照)のお話は、我々が生きている「時代の病」は深いものがあるが、それでも希望をもっていこう、ということだ。それを受けて、自然、科学、文明、それぞれの分野での活動をふまえて、いま思っていることから、まず10分程度で語っていただきたい。

    松井 我々自然科学者は、一定のルールの下に議論する。いい、悪いもはっきりしている。その際に、時空スケールが大きければ大きいほど、ものごとは単純化できる。
    現代は、宇宙から見て、「地球が見える時代」といえる。地球はいろんな部品が組み合わされた一つのシステム、いわば機械でもある。その中の人間圏内という部品に我々は生きている。
    17世紀以降、プロテスタント的キリスト教を背景に自然科学が発達したが、それ以前は、人間ではあっても、属するのは、生物圏といってよい。
    宇宙の歴史を研究するということは、地球の古文書を読みとくことだ。
    未来を考える、それは分化していく過去の延長としてしか見られない。宇宙が冷え、地球が冷えてからというもの、過去という時間変化のなかで、生命の分化という歴史が始まった。
    そこで、過去10年の研究の結果、わかってきたことは、地球という惑星は、生命を持つ星として、きわめて特殊な星かもしれない、ということだ。つまり、宇宙においては普遍性を持ってはいないのではないか、という指摘だ。
    そこで、私は、特殊と普遍というところで思い悩んでいる。同じように生命をもつ、地球とは違う惑星が出てくれば宇宙は多様化している、と言えるのだが。

    安田 私は、土中の花粉を研究して、森の変遷と人間の歴史を研究してきた。
    これは新しい分野だが、新しいことをするには「異端」でなければできない。
    それで「環境考古学」という専門分野をつくった。
    文明には大きくわけて2つのパターンがある。一つは、水と森の関係を断った牧畜麦作文明、すなわちパン・ミルク・肉にキリスト教を加えた文明と、水と森の関係を切らない稲作漁労文明だ。
    牧畜麦作文明は、世界へと加速度的に広まっていった。家畜は森を破壊するが、それは善だとされた。森は、「生きるため」という大義のもと、イギリスの90%、ドイツの70%、スイスの90%も破壊された。その後、猛反省からか自然保護を唱えるようになった。
    ところが、ここにきて、昨今のドイツでは立ち木一本切ることを禁止する、なんて法律ができたという。「羹に懲りて膾を吹く」というか、要するに、森とのつきあい方が下手なんですな。
    一方、稲作漁労文明の日本は、牧畜麦作文明を拒否して、魚と人間との間に緩衝地帯(バッファゾーン)、グレーゾーンをつくった。それが里山だ。この、ゆるやかな関係を、ついこのあいだ、昭和30年代までは築いてきた。これは評価してよい。

    中沢 生者と人間、死者と人間、この関係は、ヒトと植物、ヒトと動物との関係の原型だ。
    約10万年前、ホモサピエンス・サピエンスは、お墓をつくった、これは人間の証だ。ことばを話し、象徴を司る。残された者たちの感性がいりみだれた「葬儀」が行われる。
    一方で、現代では、それとは対照的なものがある。つい先日、叔父の死去に立ち会った(歴史家の網野善彦氏)。生前の叔父の意向で、遺体は献体された。
    私は個人の意志を尊重するのだが、実際にわかったことは、献体では、「死」にまつわる「ものがたり」がつくれないのだ。尊敬する叔父だけに、私も心残りだった。
    縄文中期、約4、5000年前の南米アマゾンの集落の円形住居では、広場の真ん中に墓地があり、死者はそこに埋葬された。
    つまり、死んだ人間がすぐに立ち上がってくる。夜は、死者と一緒に踊ったりもしていた。東北地方に見られる環状列石、ストーンサークルは、死者の都の象徴といっていい。
    その後、弥生時代になると、墓地は環濠を出て、集落の中心から直径距離の約6割程度のところにつくられる。私は、「死者に対して、離れていってほしい、でも、戻ってきてほしい」という思いの最適な距離だと判断している。
    夏至と冬至(盆と正月)に帰ってくる霊に食べものをあげる、仮面とか黒い布切れを垂らして、村に入っていき、数日間から一週間ほど、円形になって踊る、盆踊りの原型がここにある。
    戻るのはどこか? 冥界へと死者が去っていくと、村は生きている人間の世界に戻る。つまり、古来、生者と死者は適切な距離をもつのがいい、とされてきたのだ。
    縄文時代、ヒトと動物は同じ「生き物」だった。神話のなかでの動物の存在は、兄弟、親子、結婚相手というように、同じ生き物だった。
    その後、ハンターが動物を殺すことになっても、雌と子どもは殺さないという黙契があった。だから乱獲はしなかった。肉も皮も大切に扱った。そこに、倫理の発生をみる。動物も、死者との関係と似ている。
    仏教では、人間は生きていくために、他の生き物を殺生せねばならない。だから、丁重に扱う。

    松井 宗教との関わりにおいて、私個人としては、現世人類は、なぜ、人間圏をつくったのか? なぜ、そんな生き方をしたのか? に興味がある。
    研究対象の宇宙は、黒と白、だ。
    だが、そこにも反影の領域、グレーゾーンがあって、人間と自然をどう総合的に考えるか? というテーマがある。
    予見がむずかしい状況だが、「科学をどう使うのか?」という問いが私たちにつきつけられている。

    川勝 因果と縁ということか? 関係性に入っていくと、「科学をどう使うのか?」がつきつけられるのは当然だ。

    安田 関係性だが、我々は近代科学から自由じゃない。例えば、気候変動は100年から1000年単位だが、歴史は一、二年で変わる。
    年稿(いわば年輪)という考え方がある。以前は、地球の気温は、例えば
    50年で一気に7度あがるとされてきた。
    ところが、そこには地域差あったことがわかった。日本列島では、気候変動が世界にさきがけて起こっていた。
    生態系研究には地域的な特殊性が大事な要素となった。温暖化問題で、地球の気温が3度あがれば、いったい何が起こるのか、20年、30年先の研究が必要なときに、文部科学省は、宇宙や南極、深海系に大変な予算を投入している。
    これは、なぜなのか? 
    1000年先にすごい資金を投入しているのはなぜなのか、私にはわからない(苦笑)。

    川勝 生態系というシステム、歴史の前提には気候変動があるというお話。事実と真実性は、説得力の問題だが、それをどう回復していくのか?

    中沢 「宗教とはなにか?」 岩波書店発行の東大の先生が書いた『宗教』講座を読んでもわかりません。勉強にはなるが、読んでも無駄です(笑)。東大の教授は、どうも「人生に意味がある」という意味がわかっていないな、と思う。

    評論家の犬養道子さんが、鈴木大拙に尋ねたことがある。
    「宗教とはなんでしょう?」
    大拙は答えた。
    どんな宗教であろうと、
    「宗教とは、無限への憧憬だ」

    現世人類とは何か? 
    昔の話だが、ネアンデルタール人の子どもは、3歳頃には、大人になった。彼らはことばも持っていた。舌が厚いので証明できる。単語の文節化はむずかしかったが、意志の伝達はできたと考えられている。磁器の作り方も左右対称になっており、数学的能力もあったとされる。
    しかし、彼らは、なぜまつり(芸術)を持ち得なかったのか? 

    今の人類は、長い幼年時代に、脳を育て、無意識としてとりだしたもの、その全体性の把握、直感、無意識を獲得したのでは、という問題があがってきた。
    脳の神経細胞(ニューロン)が、もともと分離していたものが、横並びしてつながり、象徴的な表現ができるという変化が起こった。音楽や詩など象徴的な表現ができるようになった。
    違うものという認識のなかで、共通性を把握できるようになった。
    幼年時代の長さはそのための期間なのではないか。
    つまり、現世人類の脳の自由領域は無限であり、それは「こころの中」にあり、そこに憧憬がある、と言える。
    鈴木大拙は『禅と日本文化』のなかで、「禅は、美であり、芸術性をもつ」と言っているのではないか。

    川勝 自然との共生、今の状況からの出発の意味をこめて、さらにコメントをいただきたい。

    松井 グローバリゼーションは、個別のものから全体まで、形而上の世界で、普遍性を追求する。一方、形而下の世界では、希少なもの、天才的なものなど、特殊性にこだわる。
    そのバランス性が重要だ。これは人間にもあてはまる。
    水、空気などが重要なのだが、あらためて、我々の発想の転換が必要でしょう。

    安田 天を駆けるというのはプラトン、地を這うのはアリストテレス、私は、「文明の大地化」が大事だと思っている。つまり、地霊に聞け! と言いたい。

    映画『収容所のピアニスト』にこんな詩があった。
    「この季節がめぐって、花が咲く。それさえあれば十分だ」

    日本の文化システムの特徴は、折衷だ。実にうまいシステムをつくってきた。
    文明と野生との調和で、よいものをつくってきた。違うもの同士のネゴをして、中間状態でうまく運用してきた。
    誰かさんの戦略なんかに踊らされてはいけない。日本人よ、だまされるな! そうすれば、この先、もうちょっとましな世界を作れるのでは、と私は思う。
    様々な意見、見解を聞く耳を持つのは大切なことだ。

    川勝 河合さんは、個別性を大事にしよう、そのなかに全体が潜んでいるのだから、と指摘された。
    日本の文明の受容の過程をたどると、私は、いま、そのベクトルが内側に、我々の内部にきていると思う。
    お互いに、ひきつける力を持ちたいものだ。

    (文責:編集長)

  • no.17 2004/3/15
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    目次◆1 自立への財源探し──MSI事業について
         寄稿者:島田 誠(アート・サポートセンター神戸 代表)

       2 フォーラム「人間・科学・文明」(3月7日)の報告 その1
       ──「関係性」を取り戻す
         寄稿者:渡邊 仁(本誌編集長)
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    ●自立への財源探し──MSI事業について     島田 誠

    1 MSI事業とは

    私は芸術文化分野での活動支援に関わってきました。1992年に全国初といわれた草の根のメセナ(公)亀井純子文化基金を立ち上げ、95年にはアート・エイド神戸を始め、いずれも特定の助成に頼らず、財源を求めて、活動支援を行ってきました。
    一昨年からは、新しいファンド・レイジング(財源獲得)の方法としてMSI事業を提唱し、取り組み始めています。
    MSIとは、アーティストと文化活動団体がお互いに助け合う制度で
    Mutual Supporting Institutionの略称です。
    優れた舞台芸術公演が集客に悩み、客席がガラガラだったり、招待で埋めたりしている現状を改革するために、チケットの販売を助け、その売り上げの50%を活動資金として還元してもらう発想から始めたものです。すなわち、優れた文化を鑑賞する機会を増やし、その結果として活動資金を獲得することができるのです。

    2 NGO/NPOのファンド・レイジングのための「ぼたんの会」とは

    この制度をさらに進めたのが「ぼたんの会実行委員会」の取り組みです。
    この取り組みの特徴には
    ・多くのNPO/NGOが協力して、一つの事業に取り組む
    ・事業そのものが社会的な意義をもつ
    ・ 貢献に応じて収益の還元を受ける
    ・事業を通じて新しい人の交流が生まれ、ノウハウを学ぶ 
     などがあげられます。

    会の名称の由来は「牡丹の花」と「ボタン」の意味を重ね合わせています。牡丹は五月初旬に豊麗な花を咲かせますが、寒気にも強く、他の植物が冬季休眠状態に入っている時でも、すでに、地中の根は活動を始め、その朱色の太い芽は逞しく、力が漲っているそうです。「ボタン」は、離れたものを繋ぎ合わせるものです。
    「ぼたんの会」の事業は、参加される皆さんが、交流を楽しみ、文化を楽しみながら、次代を担う人材や市民活動団体を財政的に支援することを目的にしています。  
    具体的にはチケット販売の売り上げの40%〜50%を還元するMSI事業方式によって収益を寄付いたします。要は、努力に応じて収益の還元を受けられる仕組みがユニークなのです。

    3 「ぼたんの会」の事業と組織

    #事業
    2003年
    4月11日 「夜会・ぼたんの会」 (北野ガーデン)
    4月11日 リレートーク 永六輔 灰谷健次郎 柳田邦男(松方ホール)
    9月21日 「加藤周一講演会」(朝日ホール)
    10月6日 「摩耶はるこコンサート」(神戸風月堂ホール)
    2004年
    1月16日 「天満敦子コンサート 祈り」(神戸新聞松方ホール)

    ・今後の予定
    3月20日(金) トーク・ナイト 永六輔「今、一番いいたいこと」
              (ラッセホール
    4月23日(金)「夜会・ぼたんの会」We love Kobe & Vissel Kobe
             (北野ガーデン)

    #組織  
    「ぼたんの会」実行委員会は、代表・黒田裕子、事務局長・野崎隆一のもと
    16の団体で構成されています。

    4 今後の展開について

    MSI事業をNGO/NPOの共同事業と捉えれば大きな可能性を含んでいると思います。
    こうした文化イベントだけではなく、スポーツイベント、出版、CD制作、ツアー、商品開発、販売なども視野に入れて、ここから新しい事業が立ち上がってくる可能性をもっていると考えます。ぼたんの会に限らず、MSI方式を「自立のひとつの鍵」として広めていきたいと考えています。成功の鍵は「繋がる」と境界を「越えていく」だと思います。

    5 獲得した資金

    アート・サポートセンター神戸としてのMSI事業によるNGO/NPOへの資金還元額は¥4,772,786(2004/1/31現在)に上ります。
            
    この件についての問い合わせは、
    078(262)8058 ギャラリー島田まで 

    □ プロフィール
    1942年、神戸市生まれ。神戸大学経営学部卒。海文堂書店社長を経て、
    ギャラリー島田を経営。アートサポートセンター神戸代表。公益信託亀井純子基金事務局長。著書に『蝙蝠、赤信号を渡る─アート・エイド・神戸の現場から』など。

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    ●フォーラム「人間・科学・文明」(3月7日)の報告 その1
     ──「関係性」を取り戻す

    □基調講演
    「人間の科学」 河合隼雄(京都大学名誉教授・文化庁長官・臨床心理学者)

    #発言の要約

    科学と技術の融合で、この社会は急激な変化、進歩をとげました。今も変化しています。
    ところが、世の中が進歩すれば、人間が幸せになるかといえば、そんなことはありません。逆に病い・悩み(相談事)は増えています。だから、私たちの仕
    事が増えているわけで(笑)、いわば、人間は胃酸過多の状態です。
    医学の進歩で人間は幸せになりましたか? なった人もいますが、ならない人もいます。
    スピードに追われ、合理性が求められるストレスフルな時代だから、例えば拒食症など、新しい病いが次々に出ています。これは、本来、貴族の病なんです。
    食うものが乏しい時代には起こりません(笑)。
    ここに、人間にとって本質的な問題が潜んでいます。
    つまり、人間はなんでもできる、という思い込みがきつすぎるために、弊害が
    あちことで起こっているのです。

    当然のことですが、科学には研究方法の確立が要求されます。それは、ヨーロッパの近代までは出てこなかったものでした。どうしてでしょうか? 
    私は、近代の成立の背後には、キリスト教があると思っています。
    キリスト教は世界の創造主と人間をはっきり区別しています。そして、人間と自然も区別しました。自然を開発し、動物を飼いならし、植物をこの態度が、自然科学を生み出したのです。宣教師は無知の人々を啓蒙します。
    さらに、科学的な証明を求める研究が進んで、こころとからだの分離を起こします。研究はどんどん専門化、細分化し、ものごとを客観的にみることになりました。それが、世界に応用できる普遍性につながるという考え方でした。

    ところが、いつの時代も人間がすることには、必ず「関係性」という概念がつきまといます。
    評論家の柳田邦男さんは「人間の死は研究できる。しかし、私の好きな人、私の死は客観的に研究できない」と言います。つまり、自分が直接関係しだすと、研究そのものが難しくなっていくのです。わかりますね。なによりも客観性が要求されるのですから。
    「関係性」のない研究のいきづまりは見えていますから、したがって、これからは、人間と人間、人間と自然などという「関係」のあるところで研究していかないと、うまくいかないのではないかと思います。 

    臨床心理という私の世界の話をします。
    私のやり方は、「ゆっくりと話を全部、聞いてあげる」こと、そして、「答えを出さない」ことです。ところが、残念なことに、本気で聞いてあげないカウンセラーが多いのです。「話を全部聞いてあげる」という態度を持ち続けるには相当の修練が要求されますが、私は、それをずっとやってきました。
    患者とカウンセラー、この「関係」のあり方で、患者の現象は変わって出てくる、それがとても大事なんです。

    例えば、糖尿病患者を例にあげましょう。
    糖の多い食べ物をたべてはいけないことがわかっていても、守らない人が多いもんです(笑)。
    では、どうして説得するか? 

    上手に言えば聞いてくれる、実行してくれる、というのはまずありません。実は、聞いたふりして、こっそり、食べています(笑)。
    答えは患者とカウンセラーの「人間関係」にあるのです。
    守らないから、と言って、「関係」を切って捨てないことなんです。しかも、希望を失わないこと、そして、話をきちんと聞くこと。
    そうすれば、患者は、先生が「きちんと向き合ってくれた」という思いで、変わります。
    患者の体験は個別ですが、「関係」を切って捨てず、希望を失わずやっていくほうが、かえって普遍性につながるのではないか、と私は思っています。

    もう一つ、親子関係をみてみましょう。
    離れて、ひっつく、という微妙な関係を持つのが親と子です。
    親の「きれいごと」は、だめです。なぜか? 
    子どもは聞いてはいますけど、同意はしていません。
    子どもが、こころやからだをつき動かされるには、個別の「ものがたり」がいるのです。
    ものがたりには「作り話と本物」がありますが、考えてもみてください。個別の話が、語られ続けるにつれて、「作り話」に近づいていきます。劇的になっていくのです。そうしたくなるのです。相手に伝えたい、という思いがどんどん脚色されていくのです。みなさんにも経験がおありでしょう。これが人間の心理でもあります。

    人間と植物、人間と動物というのも「関係性」。それを忘れ過ぎているのが現代の人間です。これからは全部、一緒、込みにして人間を考え直そう、ということです。
    「ああすれば、こうなる」「上手にやれば、上手くいく」と思い過ぎています。
    その延長戦上に、思いどおりにいかないときに、「言うこときかなきゃ、殺すぞ」という武器につながる考え方があります。当然、こころはすさんでいきます。

    子どもからは、自分の居場所がない、という信号がどこかから出ています。
    それに対して、子どもを上手に育てる方法というのはありません。「方法はある」というのは、それは、子どもを「上手に操作できる」というだけの錯覚です。
    そこには、「深い関係性」がありません。
    ものごとを「黒か白か、イエスかノーか」に割り切って、単純にするのは、よくありません。

    そんな難しい時代が21世紀なんです。それを自覚して、生きていきましょう。

    (文責:編集室)

  • no.16 2004/3/1
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    目次◆1 ちょっと気になる神戸の学校      
     
         寄稿者:中川博志(バーンスリー奏者、インド音楽研究家)   ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
    ●ちょっと気になる神戸の学校     中川博志

    神戸市内の小・中学校はどうなっているのだろうか。

    こう思ったのは、わたしが1999年から企画している「世界の民族楽器紹介ワークショップ」に、神戸市内の小中学校からほとんど参加申し込みがないからだ。西宮、宝塚、芦屋、淡路の小学校がこれまで熱心に参加しているのと対照的である。

    この企画は、子供たちと先生が優秀な演奏家の演奏や解説を見聞きする機会を無償で提供しようと、スポンサー企業であるTOA株式会社が自社の持つジーベックホールで進めている企業メセナ活動の一環である。これまで、次のようなワークショップを行ってきた。

    インドの打楽器タブラー、和太鼓、アフリカの打楽器ジャンベ、インドネシアのガムラン、フィリピンのカリンガ族の竹楽器、津軽三味線、雅楽、尺八、能の囃子、箏、筑前琵琶、トゥバの喉歌フーメイ、義太夫三味線、狂言、中国の二胡、古箏、琵琶。これらのワークショップは、一流の演奏家を講師に招き、音響機器メーカーTOAの機材が完備するジーベックホールで行われてきた。
    学年単位やクラス単位の参加がほとんどなので、多いときには一時に200人ほどの小学生が参加している。

    これまで参加した小学校の先生たちは、こんなチャンスはめったにないのでどんなやりくりをしてでも参加したい、と声を揃えていってくれた。また、このワークショップは、「2002年から施行された学習指導要領に適う内容なのでとても貴重でありがたい」という声もいただいた。参加した子供たちも、珍しい民族楽器を手にとったり、すばらしい演奏を聴いて目を輝かせた。

    参加した学校の教師に聞くと、子供たちをこうした学校外の催しに参加させるのは調整がかなり大変だという。それでも、これまで多くの小学生たちが参加してきているということは、担当する先生たちの熱意と学校の理解があるからだろう。

    わたしたちは、できるだけ多くの学校にも参加してほしいと、各市の教育委員会などを通じて広報を行ってきた。神戸市内の学校にも当然告知している。
    ところが、市内外の学校事情はそう変わらないはずなのに、参加申し込みをしてきたのは、先に触れたように神戸市外の学校がほとんどなのである。
    スポンサーとしてみれば、神戸に本社のある私企業が無償で提供するこうした機会にほとんど反応してこない神戸市内の学校の事情を理解できず対応に苦慮しているのが現状である。

    わたしたちのやっているささやかなワークシッョプに、神戸市内の小学校からなんらかの反応や参加申し込みが少ないのは、いろいろな事情があるのだろう。
    しかし、わたしたちがちょっと気になるのは、先生たちの熱意や学校の管理がどうなっているのかということだ。

    2001年に、日仏芸術家交流団体、アクト・コウベの活動の一環として招待したフランス人アーティストに神戸市内の小中学校でワークショップをやってもらうという企画をしたことがあった。そのときもいろいろな学校に呼びかけ
    たが、やはり反応は鈍かった。
    また、知り合いの神戸文化ホールの担当者から「こっちから、例えばホールの楽屋裏ツアーなどいろんな企画を学校に提案しているが、ほとんど申し込みがない」という話も最近聞いた。だから、ことはどうもわたしたちのワークショップだけのことではないようである。

    今、神戸市内の小学校や中学校はどうしてそうなっているのか、杞憂かもしれないが、ちょっと気がかりである。

    □ プロフィール
    1950年山形県生まれ。北海道大学農学部林産学科卒。81年〜84年、
    バナーラス・ヒンドゥー大学音楽学部学理科に留学、勉学のかたわらバーンスリー(竹の横笛)、ヴォーカルを習う。帰国後、演奏活動を始め、一方でインド古典音楽の紹介や日本とアジア各国の伝統音楽の比較認識のための公演企画なども手掛けている。阪神淡路大震災を契機として生まれた国際的芸術交流組織「Acte Kobe-Japan」代表。

  • no.15 2004/2/15

    「市民社会」と「合意形成」     野崎隆一

    震災後、住民主体でやらざるを得ない白地地域(面的復興事業のかからない被災地域)の復興に関わり続けて現在に至るまで、決して脳裏を離れない言葉として「合意形成」がある。マンション再建、住宅共同化などのプロジェクトにおいても、「合意形成」は、超えなければならない大きな壁であった。事業半ばで挫折した多くの失敗事例はあったものの、置かれている状況についての的確でタイムリーな情報の共有により、決定的な対立を乗り越え、妥協案を見出し、事業が成就した時の喜びは何物にも代え難い。

    行政と市民の協働と言われる局面でも、行政側が市民側に抱いている決定的な不信の要因は、「合意形成能力の不在」だと言える。これまでの地縁組織は、行政機能の末端で地域のお世話するのが役割だから、合意形成の必要性は無かったし、行政もそれを求めてこなかった。震災後、東灘のある地区で「まち協」を立ち上げようと地域の有力者を訪ね歩いた。その時、多くの人からでた言葉が「わしらは、個人の権利には立ち入らない、それが自治会の流儀なんや」というものだった。その後、地域で建築ルールを作ろうとして自治会長さんと一軒一軒訪ねてあるいた時に聞かされた言葉は、「自治会費はきちんと納めるから、余計な活動はせんといて欲しい」だった。

    戦後初期の民主教育の洗礼を受けた世代として、戦後民主主義は、機能していないというのが実感であった。民主主義とは、宮崎学(作家)によれば、利己的な個人を前提としながら、統治者と被統治者が同一であることを原理とする統治形態の一種である。そこには、その社会の構成員全員が全員を統治するということから、利己のために利己が犠牲になるというパラドックスが最初から存在する。このパラドックスの存在により民主主義には、当然コストが発生するというのが、宮崎の考えである。

    私にとって「民主主義のコスト」という概念は、目からウロコであった。大袈裟に言うと、民主主義は人類の到達した究極の政治形態であると洗脳(!)されてきた私達の世代は、震災後の合意形成の困難に直面し「戦後民主主義」に失望していた。しかし、当然コストがかかるんだと言われると、少し霧が晴れる思いがする。今後は、コストの存在を当たり前の前提と考えれば良いわけで、コストを誰がどのように負担するか、コストを最小限にするためにはどうすれば良いかが課題となる。そんなことを言っても、実態は、なにも変わらないではないかと言われそうだが、合意形成がうまくいかないと悲壮感を感じるより、コスト意識が足りないのだと考える方が、ずいぶん冷静でいられるように思う。

    コストのことで思うのは、今の日本人は他者との関係づくりが下手だということ。適度な距離感というものを見失っている。簡単に私的領域を超えて近づくかと思うと、気が合わないと無視するか攻撃的になってしまう。日本におけるコミュニティが、合意形成をあまり必要としない顔見知りの範囲を超えられな
    いのは、この辺りに原因があるのではないだろうか。相手の尊厳を守るための距離の置き方、基本的態度としてのDECENCY*、「市民社会をつくる」ためには、「正しさ」の思想を磨くことより「合意形成」のコスト低減について考えることが大切ではないかと思うことの多いこの頃である。

    *DECENCY ディセンシー 礼儀、品位

    □プロフィール
    まちづくりコーディネーターとして阪神間及び但馬地域でまちづくりを応援。(株)遊空間工房代表取締役。(特活)神戸まちづくり研究所事務局長。(特活)ひょうごまち・くらし研究所副理事長。ひょうご市民活動協議会代表。

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    震災10年市民検証・9年シンポジウム
     「専門家の社会的役割を検証する」(1月26日)から    鈴木隆太
     
    来年2005年1月17日に10年を迎えるここ被災地で、これまでの市民の歩みを検証する、その一環としてこのシンポジウムは行われた。
    震災からの復興の過程で専門家がどのような役割を果たしてきたのか、ということを過去、現在、未来という軸で、それぞれ語っていただいたのである。

    専門家、というとき、非常に敷居の高い方々を想像するのは、一般の人々のごく普通の意識だと思うが、もちろん専門家の一人ひとりにも個々のくらしがあり、その専門性と個人としての立場は、切り離せないバランスを保っている。
    今回のパネリストの一人である、神戸大学都市安全研究センターの室崎益輝氏はこう語った。

    『専門家は専門的な知識があり、その専門性は一見客観的なものにみえるが、その客観性は個人の主観性に裏付けられた客観性。だからどういう立場で学問をしようとするのか、という「こころ」の問題があり、そういう意味で言えば専門性と一般性は裏表の関係にあると思う。これはすごく重要な問題で、それを押さえた上で専門性を持つ専門家としての立場と個人としての立場を区別して考えないといけない。ずっと一般の人としての活動をしている、というのも間違いだし、専門家の立場だけというのも間違い。両方の立場をもってしっかりやっていく、そのバランスをどうとるかということをしっかり考えないといけない』

    このような踏み込んだ言葉を、専門家の口から聞くことはあまりない。この言葉が象徴するように、個々の一人ひとりと同じように、その都度専門家の方々も考え、悩み、不安をどこかで抱えつつ、それでも社会的な役割を果たしていこう、という姿があることを、まず始めにお伝えしておきたい。

    シンポジウムのパネリストは、神戸大学文学部長(社会学専攻)の岩崎信彦氏、社会福祉法人神戸福生会理事長の中辻直行氏、弁護士で、阪神淡路まちづくり支援機構の事務局を務められた永井幸寿氏、そして、神戸大学都市安全研究センターの室崎益輝氏だ。

    岩崎氏は、社会学の中の地域社会学が専門ということもあり、震災後、行政が出した都市計画決定に基づく区画整理事業の地区になった鷹取東で、「まちづくり」を、被災した住民とともに歩んでこられた。岩崎氏はこう振り返る。
    「(区画整理を進めていくためのまちづくり協議会を設立して)スムーズにスタートしたが、上限9%の区画整理の減歩率という問題が立ちはだかった。行政はこれを平均9%にしてしまった。区画整理の専門家に聞いたところ、平均9%という概念はあるが、上限、という概念は区画整理事業にはない。区画整理は場所によって行う減歩率は違うので、平均というのはあっても上限という考え方はないと言われ、勉強し直そうという第二ラウンドが始まった」

    このようにして、住民と歩を同じにしながら、常に「そばにいる」という姿勢を一貫して通したという。もちろん、住民同士の対立もなかったわけではない。
    そんな中でも、その間に立ちながら、どうにかこのまちをよりよいまちへしていこう、という同じ思いだけを握りしめながら、区画整理完了まで取り組んでこられた。
    「(自治会というレベルのコミュニティは)校区、行政区とうまくつながりを作って、市政への共同参画というテーマへ結びつけていけるようなものがあれば、可能性があると思う」。そのための支援機構の設立が大切だ、という。

    中辻氏は、震災当時長田区北町三丁目にあるデイサービスセンター、ショートステイ施設などのある福祉施設の施設長を勤めておられた。この長田区北町三丁目というのは、すぐ南側に今回の震災で火災が最もひどかった地域の一つ、
    御蔵通がある。発災直後、すぐに施設に駆けつけたが道路の渋滞の影響により、施設に到着したのは午前八時半を回っていた。真っ黒な煙のカーテンに覆われていた施設を見て、ダメかもしれない、という思いがこみ上げてきたという。

    「施設に駆け込むと、駐車場部分にも被災者にあふれていた。施設の入所者を救いに近所の方々が助けに来てくれて、毛布にくるまれているのは私のところの入所者だと思ったら、みんな知らない顔だった。入所者は二階におり、みんなケガはない、という報告を受けた。
    被災者の方も確認すると、骨折、釘で太股を深く切った人、耳がちぎれている人など、治療を受けられない状態の人たちがほとんどだった。前の火災が非常にひどかったので、避難するにもどこへ逃げていいのかわからない、という状態だった」

    また、当時はまだ介護保険が導入されていない頃で、当時はいわゆる「措置」制度という形で福祉サービスが提供されていた。そのため、利用者の受け入れを施設側が勝手に判断することは法律上許されない状況だった。しかし、人道支援、ということから十数組を受け入れた。通常、受入の措置決定をする社会福祉事務所は、防災マニュアルの規定によって、死体安置所での担当に回っていた。誰も対応できない。

    「これ以上受入を行うと機能がパンクしてしまう。また震災前からの利用者にも負担がかかってしまう、ということで、どこまで受け入れて、どこで断るのか、ということも考えた。ここで人殺しと言われてもしょうがない、石を投げられてもしょうがない、ということを覚悟していた」と語る。
    最終的には、直接、厚生省(現厚生労働省)の担当課に連絡をして、ショートステイの拡大解釈という形での緊急一時保護の通達を出すよう打診した。食事も寝具も何もない避難所で、高齢者が死んでしまうかもしれない、という二次被害を防ぐためだ。

    『(厚生省から)どうしたらいい?』と言われ、「措置制度もへちまもない。
    審査して、調査して、というではなく、ショートステイの拡大解釈をして、事務手続きをして、緊急一時保護の指示を出して欲しい」と言った。『何人くらい受け入れる必要がありそうか』と言われ、「おそらく1500人くらい、長引けば2000人、3000人になるかもしれない」ととっさの判断で応えた。

    「日常で役に立たない、問題のある分野というのは災害時にもろくて被害も大きくなると思う。役所が助けるか助けないかを決める、という硬直したシステムや、社会一般も自分の親がそういう状況になって初めて社会福祉の矛盾に気づく。
    65歳以上夫婦で二人っきりでくらしているのは650万世帯、1300万人、一人暮らしは450万人くらい。この一人暮らしの方が風邪を引いて119を回せば入院してくれる。しかし夫婦の老老介護の場合、介護をしているおばあさんが風邪を引いて119をすればおばあさんは入院できるが、そのおじいさんには代わりのヘルパーはすぐには来ない。申請しても一週間はかかる。
    そういう日常生活にある危機に対して、全く機能していない。それが災害時に機能するはずはない。そういう問題が放置されているし、基本的な足場がない限り、そのシステムがなければ災害時には機能しない」と語った。
    命をいかに守るのか。専門家がそこにいる意味がここにあると感じた。

    永井氏は、震災から一週間ほどしてから、神戸市からの依頼により法律相談窓口を設置し、相談対応に追われる日々となる。

    「電話を三台開設したが、電話を置くとすぐにかかってくる、という状況だった。隣の家が倒れてくるけど、隣の人と連絡がつかないからどうすればいい? といわれ、民法上は正当防衛というものがある、ということをうろ覚えで話をしながら、その場で即断即決をしなければいけない、という状況だった」
    関東大震災の時は民事紛争が爆発的に起こったという事実から、震災後、民事紛争が爆発的に起こる、ということを予想されたという。
    「しかし、七年、八年、九年は訴訟の件数は減った。一年間で十万件の法律相談をした。それによって、自分たちで話し合いで解決したのでは、ということが見えてきた。法律相談を利用して、自主的な交渉をする、という回答もアンケートで多かった。震災後の危険を回避して、エネルギーを分散することができた」と語る。

    また、この経験から弁護士、税理士、司法書士、建築士、不動産鑑定士などの六職種九団体が連携して、被災地住民のまちづくりの支援をする「阪神淡路まちづくり支援機構」を設立した。都市計画決定がなされていない地域は住民がまちづくりをしなければいけない。土地に関わることは法律的なこともあるため、専門家が連携をしながら、具体的サポートをしていくための機構だ。

    通常、区画整理は行政が施行するものだが、住民が組合をつくって、それを主体として区画整理を施行するという、全国でも初めてケースにも立ち会った。
    また、複数の近隣の人々が集まって住宅を再建する場合、発生する利益が課税対象になる、その時に支援機構の税理士が課税させない、ということを勝ち取ったり、あるいはマンションの補修と立て替えなどに関わったり、震災でつぶれてしまった市場などに関わったり、様々なケースについての支援を各業種間の連携により対応してきた。

    「設立して三年してから住民からの要請がなくなった。これで解散するかどうか、という話も出たが、ところがこれは阪神淡路まちづくり支援機構ができたのは震災から一年八ヶ月後だが、震災直後から活動していたら、事態はもっと変わっていた可能性がある。
    たとえば、震災から二ヶ月目にして都市計画決定をした。建築基準法による建築制限ができる法規というのは建築基準法しかなかった。で、ある面で行政は善かれと思ってやった訳だが、避難している人からすれば一方的に減歩されたなどという状況の時、支援機構があって、行政からも独立で、市民からも対等な立場で入っていけたら事態は変わっていた可能性がある。
    あるいは、震災後、しばらく立つと権利関係はできてしまうので自分がここで家を建てようと思ったらどんどん家がたっちゃう。時間が経てば経つほどまちづくりが難しくなる。そうすると直後から活動できるほうがいい、ということで全国に広めよう、という動きになって、2000年4月に東京でシンポジウムをした。
    これを契機に東京でも動きができた。また、今地震の危険が叫ばれている静岡へいって、弁護士会、役所などを回った。それで去年シンポジウムを静岡で行った。そして、静岡でも支援機構が立ち上がった」

    こうして、確実に震災によってまかれた種は大きな芽を各地で出し始めている。

    室崎氏は、専門家とは何なのか、という問題提起から始めた。氏は、自身を「防災の専門家であり、大学に籍をおいた専門家、被災地にいた専門家、そして行政に片足を突っ込んだ専門家」と定義。そして、そのような専門家として、震災を振り返る。

    震災直後から三時間、三日間、三週間を、室崎氏は「空白の時間」と呼ぶ。三時間は、テレビ局で出番のない状態でひたすら映し出される被災地の映像を見ながら、何をしなければいけないのか、ということについて膨大なメモを取った。復興計画について、ボランティアについて、調査について。
    そして次の三日間は、学会に捕まった。しかし、三週間たっても行政から何も声がかからなかった。そこで、六時から九時までは現場を回って、その後にしたことは、メディアへの対応だった。

    「納得してくれるまで返さない、ということをした。だからメディアの人の行列ができた。その時思ったのは、専門家がどれだけ声を大きく張り上げるよりも、メディアの人と二時間丁寧に付き合ったほうが、すごく社会に影響力がある、と思った。」
    発信すること、そしてつながっていくことの大切さを強調される。それは、阪神淡路大震災によって、結果的に6400人を越える方々が亡くなった、という事実に起因するのかもしれない。

    室崎氏がいつも「三つの軸」として考えていることの一つに、「専門家の責務」という軸がある。

    過去。
    過去というのは、言動をいくらでも弁解はできるが、結果責任としては、いろんな場で発言してきたことも市民には届いていなかったし、届けようともしなかった、と語る。
    「行政と市民と専門家の距離を非常に錯覚していた。市民寄りの問題として、市民から考える、ということをしなかった」
    神戸に地震が来る、ということを知りながら誰にも伝えられなかった、という結果責任をどう果たしていくのか、ということを痛感された。

    そして、現在。地震の真っ只中にいながら、どういう責任を専門家としてとるのか。アンケートを採る、という形で情報を摂取して、そこから論文を書いて学会で賞を取る。
    それは次の災害の役には立つが、今、被災をしている人たちにその結果を返していく、ということをしていない。被災地にいる専門家は、今の問題を解決するためにいるのであって、明日の問題を解決するためにいるのではない。

    未来。
    今の問題は未来の問題であり、専門家は専門家でしかできないことをしっかりやる。火災の専門でいうと、火事をどう防ぐのか、という研究をしっかりやって、これで成果をだして、それをもって世界の問題解決の基礎をつくる、ということだ。最終的には世界に貢献できるようでなければ、専門家ではない。
    これらの発言は、専門家として本当に「果たすべき役割」は何なのか、ということを十二分に考えさせられる大きな課題だと感じた。

    二つ目の軸として「研究」の軸を挙げられた。
    これは、調査、解析、そして発表と三つに分けられる。
    調査については、専門性を持って、これまで議論されてきた事柄について丹念に読み返して、事実と照らし合わせながら調べ上げていく。そしてそれは、自分のための調査ではなく、「どうぞ使って下さい」という、被災地の専門家だからこそとり得るスタンスで行っていく。しかし、単なる数字の羅列ではなく、その数字に含まれている「命」がある、個別性がある、ということも付け加えておられた。
    解析は、次の災害でどれだけの被害が起きるか、という一つの検討のモデルを作っていくことだが、それ自体、まだまだ進んでいないという。和歌山はプロパンガスが多いにも関わらず、神戸と同じ想定に基づいて火事が多い、少ないの議論をしている。かつその理論は、関東大震災の時に作られた出火率という理論であり、全然進んでいない。研究者としての責務は、ここを進めずに、次の南海地震の予測を非常に間違ったものにしてしまう前に、その解決をしないといけない。

    発表は、いかにして市民に対してものを言っていくか。専門家が考えたことをどうやって市民に伝えていくか、ということを、そのものの発表する場として、行政と市民とが関わっている中で発表しなければいけない。学会に論文を出しておくだけでは意味がない。

    三つ目の軸はエデュケーション、インテグレーション、コーディネーション、という連携の軸。
    エデュケーションは震災をどう学生に震災を伝えるのかということ。「震災を知らない学生」が増えていく中、きちっと学生に場を与える、という中で学生を育て上げていくことは大事である。
    インテグレーションというのは、大事なのは、専門家のつながりのようなことだという。専門家同士のコミュにケーションは非常に大事だ。専門家間の相互理解を相当進めないといけない。これまで、様々な専門の学会などにも参加して議論を深めていこうというかたちで進めてきている。

    そしてコーディネーション。これは市民とのつながりという意味。
    北海道大学の岡田教授は、市民へのアピールを行ってきた結果、有珠山の噴火で一万六千人の命を救った。かたや神戸では、行政の委員会に出席しながらも、市民向けの教育をしてこなかったので、6400人が亡くなった。

    市民と行政と専門家とメディアは正四面体を構成する、と岡田教授は言う。正というのは距離が一緒のこと。対等な関係になる四面体にならなければいけない。専門家からすれば、行政と熱心につながってきたつもり。市民との関係もつくってきたつもり。メディアもそう。その等距離の中で、専門家としての一つの責任を果たしていくべきではないか、と語られた。

    専門家それぞれの話をお聞きする中で、今度は、残された、専門家ではなく、行政でもない市民が、どういう役割を果たすのかを、いよいよこの十年ではっきりと答えを出さなければいけないのでは、とこのシンポジウムで感じた。
    それには、室崎先生も言われていたが、「市民が市民力をつけていかなければいけない」ということだ。何も、専門家との距離を錯覚しているのは専門家の方々だけではない。市民の側にも原因はある。

    ここをはっきりと認識した今、ここから市民としての「果たすべき役割」をこれからの検証作業の中で見出していきたい。
    市民が待っているだけでは何も変わらない。自ら動くことこそが「市民社会」を形成する大きな要素となるはずだ。


  • no.14 2004/2/1

    ●街に「オジャマ虫」出没!──NPO法人リ・フォープ in 2004

    従来の展覧会に疑問を抱いて始めた「リ・フォープ Rokko Island Water Front Open Air Play)」の活動も12年目になります。そうか、12年間というのは小学校を卒業する年齢までに成長? したのですね。

    では、卒業年度にあたって、ひとこと。
    「今年は無事卒業証書がいただけるようにガンバリます。そしてもっともっと『おもしろいこと』を考えたい、で〜す」

    昨年より『オジャマ虫展』と称して、神戸の街中の「おもしろい、ユニークな、そしてフツーの空間」に作品を展示しています。
    作品が観る人に夢と希望と勇気を与えるのなら、つまり立ち止まり眺める時間と思索する余裕(忙しい現代人にとって一番の贅沢)を提供できるのなら、わざわざ展示する場所にきていただくのではなく、作品の方から鑑賞者の中に出向いていく方が効果的だと考えています。

    一作年まで開催した六甲アイランド・マリンパークでの展覧会のコンセプトは現代人の一番の贅沢については変わりないのですが、「ここにこんなおもしろい場所があるよ」という啓発の部分もありました。

    『オジャマ虫展』は、作品が身近な生活空間の中へ入り込むことで、画廊などよりもっと多くの方々に観てもらえることや、空間(場)との関わり方がリアルで制作する側にも緊張感があり、刺激になるという効果を生み出します。

    現在、JR六甲道駅南広場(空地)に作品3点が『オジャマ虫』しています。六甲アイランドで展示していた『牛さん』と、『ボート』と、『石と木の組み合わせ』の作品です。
    通行人は変なモノがあるとまずモノを見ます。そして空間を見ます。そこで通行人は何かを感じます。感じたことをどのようにつなげていくのかは、ひと様々であり、つなぎ方もケース・バイ・ケースです。
    六甲道駅南広場(空地)の場合、再開発事業地区なのですが、行政がアドバイザーの形で加わって地域の方々をつなげ、「住空間の空地をどのように使うの?」と、まちづくりの方向性を探るための、小さなきっかけになる作品群です。つまり、作品群は起爆剤であり、仲を取り持つモノでもあります。

    また、この三月には、地域の人々が六甲道駅南広場(空地)でワークショップを行います。六甲山の間伐材を利用して、子どもたちやお父さん・お母さんたちと一緒に、リ・フォープがお手伝いをして、『六甲道動物園』を造る予定です。

    もうひとつの『オジャマ虫』は、昨年もオジャマしたのですが、長田区の御蔵地区に現れます。
    ここは震災のため町は焼かれ、多くの犠牲者がでた地区です。
    「まち」の中には空地が多く、昨年八月の展覧会『空いている地球展』の時は、高級住宅地のようにゆったりとした空気が漂っていたのですが、いま見ると神戸市所有の土地にはメッシュ・フェンスが張り巡らされています。これは住民からの要望らしいのですが……。
    それはともかく、住空間としては殺伐感や拒絶感が漂い、残念ながら人が住んでいる「まち」らしくないのです。
    震災前の様子は写真でしかわかりませんが、もっと人間臭いというのか、ホンワカとした「まち」だったような気がします。
    前回の『空いている地球展』のときも、地元の方々には賛否両論があったのですが、私はプラス思考で『御蔵動物園』展を考えています。

    あと、『オジャマ虫』は灘区と元町(中央区)に出没予定です。神出鬼没な『オジャマ虫』ですので、ひょっとしたら「まち」のどこかでお目にかかれるかも知れません。
    そのときは、温かく歓迎して下さい、ね。

    □プロフィール
    1945年、神戸生まれ。金沢美術大学卒。現代美術家。みよしアートプランニング代表。NPO法人リ・フォープ理事長。


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    ●『駅前議会』─神戸市職員「出前」はやはり?     渡邊 仁

    神戸市灘区選出の井坂信彦・神戸市会議員(無党派)が始めた『駅前議会』と銘打った報告と議論の〈場〉が始まった。

    第一回のテーマは「脱・お役所仕事〜改革の最前線〜」と銘打ち、1月29日午後7時、灘区六甲勤労市民センター会議室には、勤め帰りの市民ら約60名が参加した。
    出席者のなかで見知った顔はほとんどいない、というのが新鮮。ここでの参加者数は、通常の市民集会よりも多い、という意味で驚きだった。

    当初、神戸市の担当係長がテーマにそって報告したあと、午後9時までの質疑応答という予定だったのだが、肝心の係長に、上司がストップをかけたため、ドタキャンと相成った。
    前日、サンケイ新聞記載の井坂義員とこの集会に関する記事が、市政に批判的な市民の前でブリーフィングするというふうに伝わったらしく、急遽ストップがかかったというわけだ。
    係長が上司に反旗を翻す、そんなことあるわけない、であればもっと神戸市政は変わっていたはずだ。さらに、与党多数で議会のチェックをほとんど受けることのない「天下の神戸市政」、なんである。

    これを、変な言質をとられることをおそれ、無用な摩擦をさけた、さすが行政官僚らしいと、シニカルに受け取るか、そんな姿勢では市のいう「行財政改善懇談会報告書が指摘する3つの視点への取り組み」のなかにある、市民本位・補完性・情報公開の視点からはほど遠く、「ザケンナヨ」と怒るか、はたまた司つかさの辛さがわかる、と同情するか、さてさて。

    相変わらず、市政に批判的な市民のいうことは聴きたくない、というところなんだろう。
    やむなく井坂義員が、作成者のレジュメにそって解説した後、質疑応答に入った。
    このレジュメは、市側の「改革」レベル、たとえば「経営品質向上活動」などを如実に語っているもので、「ふんふん成る程」といった体のもの。市政改革のPR、といえばいいだろうか。
    神戸市株式会社が破綻に瀕しているので、もう一度、徹底的に「米国的会社」になろうとするのは、笑えない皮肉ではある。余談だが、高校の同級生がちらほら課長級にいるが、彼らのくちぐせは「うちの会社」というものだ。

    さて、案の定、神戸空港など特別会計や、ほとんど破綻しているといっていい第三セクター、市幹部の天下り先である特殊法人の大問題にはほとんどふれていない。パラドキシカルではあるが、参考資料として、大切に保管しておこう。

    また集会はというと、これもお役所仕事の典型、9時にはびしっと閉めるので、8時45分には会議室を閉めて、帰路につかねばならない。イベントの余韻にひたって、なんて言ってられない。
    文化ホールだってそうだ。はやくはやくと追い立てられるように始末をせねばならない。規則は規則で了解するが、いったいそこのどこが文化的なんだろう。文化ホールには文化的雰囲気にひたれることを喜びとする職員を配置すべきだろう。

    で、そこでの意見はといえば、やはり幹部=患部? の天下り問題や、神戸市HPの完成度について、なんとかならないかという意見と、障害者の立場から評価する意見が両方出されたり、市議会へのテレビジョン中継への働きかけが提案されたり、わずか45分では処理できないほどの手が挙がっていた。

    ささやかな集会ではあるが、現実に即したかたちで、提案などがなされていく。これも市民社会の成熟へのきざしであろう。時間はかかるが、このような試みはもっとあっていいだろう。

    *この継続性ということでいえば、HPができているので、紹介しておく。
    #駅前議会ホームページ http://www.ekimae.gikai.net/
    (画面左上の「ログイン」の下にある「新規登録」をクリックし、ペンネームとパスワードを決めて入力する)
    *なお、来月24日には、第2回駅前議会「予算代表質問プレビュー」が、同地において開催される予定。参加されたい向きは、予約isaka@nada-kobe.comまで申し込む。



    no.13 
    2004/1/15
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    目次◆1 
    大震災が生み出した新しい息吹を伝える『KOBE発災害救援』を               発行     
         寄稿者:大谷成章(ジャーナリスト)   

       2 
    木造住宅耐震補強─540万円の補助金が出ない理由(わけ)
         寄稿者:平戸潤也(SOHOサポートセンター尼崎 相談員)
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    □お詫びと訂正
     前号(12号)の笠原一人さんのタイトルのなかに、誤解を招く誤りがありま
    した。訂正して、お詫び申し上げます。

    (誤) ─ベルリン・ユダヤ博物館をめぐって?
    (正) ─ベルリン・ユダヤ博物館をめぐって─
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    □編集長のお薦めコンサート
     阪神・淡路大震災メモリアル『天満敦子ヴァイオリン・リサイタル』
      だまされたと思って、一度、聴いてみてください。

     1月16日(金) 午後7時開演 神戸新聞松方ホール(ハーバーランド) 
             前売¥3000当日券¥3500
     申し込み・問い合わせ:しみん基金・こうべ事務局 078-230-9774
                アートサポートセンター神戸 078-262-8058
     *売り上げは、イラン大地震救援にあてられます。
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    ●大震災が生み出した新しい息吹を伝える『KOBE発災害救援』を発行
                                 大谷成章


    CODE海外災害援助市民センター編著の『KOBE発災害救援―支えあいは国境を越えて』が、このほど神戸新聞総合出版センターから発行されました。
    190頁、1300円です。
    筆者は、CODE(Citizens toward Overseas Disaster Emergency) 代表で、神戸大学大学院国際協力科教授の芹田健太郎、『WAVE 117』編集スタッフ(現『論々神戸』)の大谷成章、市民まちづくり研究所長の松本誠、被災地NGO恊働センター代表の村井雅清の4人。

    財団法人阪神・淡路大震災記念協会の調査研究活動のひとつとして、大震災後KOBEで活動してきた25のボランティア団体、NGO、宗教団体から、その後の活動の変容・発展をヒアリングした調査報告書を読みやすく書き改めました。
    市販本では、19の団体・個人にしぼって、KOBEから生まれた災害救援の思想を具体的に浮かび上がらせました。
    市川斉(SVA緊急救援室長)、大江浩(横浜YMCA)、栗田暢之(レスキューストックヤード)、中川和之(時事通信社)の各氏によるフォーラム、貝原俊民・前兵庫県知事へのインタビューも掲載しています。

    ヒアリングを担当した私(大谷)が強く印象を受けたのは、宗教団体の救援活動への意欲と悩みです。
    大震災直後からKOBEで多くの宗教団体が救助・救援活動をおこなっていましたが、マスコミはほとんど注目せず、報道してきませんでした。宗教団体もマスコミにアピールすることはしていません。
    宗教活動と布教活動、それを救援活動の中にどのように位置づけるか、議論が続けられています。
    本書で、その背景についてふれていますが、意欲もあり、お金もある宗教団体の災害救援活動を、市民の災害救援活動のなかにこれからどう位置づけ、協力しあっていくか、重要な課題だと思います。

     もうひとつ、本書では3人の個人を取り上げましたが、それぞれ実に興味ある人たちです。
     世間では、おそらく変人、奇人と見られているでしょうが、純粋さ、洞察力、瞬発力はみごとなものです。
     神戸元気村の山田和尚さんをつかまえるのに半年かかりました。
     インタビューが実現したとき、彼は高知県の四万十川からワゴントラックでやってきて、前夜、摩耶埠頭で仮眠していた、ということでした。神戸元気村が当初拠点を置いた御影公会堂の食堂で話を聞いたのですが、食堂の主人は和尚さんの手を握りしめて「ひさしぶりや。元気にしとったんか」と、涙声でした。
     アセックの瓜谷幸孝さん。「ボランティアはわしの道楽。いつでもやめられるからボランティアなんや」と言っていましたが、最近も、イランの大震災救援に駆けずり回っているようすが報道されています。
     リフォームシステム21の曹 弘利さん。瞬発力、粘着力を兼ね備えたタフガイの建築家で、さすがの村井雅清さんも振り回されています。ほとばしる言葉の裏に在日の屈折した思いが込められていますが、本人は屈折しているとは思っていないところがいっそう悩ましく感じられました。

    本書で「KOBE」と表現しているのは、芹田健太郎が次のように書いている思いがあるからです。

     ローマ字表現しているのは、ひとつには、世界では阪神・淡路大震災が「KOBE地震」として報道され、この言葉が神戸市という都市をさすのではなく、被災地を象徴するものとして使われているからです。また、私たちは「KOBE」を、阪神・淡路大震災の被災地・被災者をはじめ国内外で救援にかかわった人たちすべてを含む地域・コミュニティ・人をさすものとして使ってきているからです。
     そこに、私たちが災害救援の思想を「KOBE発」で発信する意義を見ています。地域からの発信は具体性を持っているからこそ普遍性をもちうる、私たちはそう確信しています。

    もうひとつ思ったことは、災害救援に動き出す動機には、人道的な使命感と「困ったときにはお互いさま」、いわば「連帯確認」のふたつがあるということです。使命感による救援は硬直しやすいけれど、「お互いさま」は柔軟で、かゆいところに手が届く温かさがあります。でも、モノ、金、人手の量は期待できません。
    硬直しやすい使命感ですが、「ありがとさん」と声をかけられると柔らかくなっていった、ということもヒアリングを通じて分かりました。これがKOBEパワーの「ひみつ」ではないだろうか、と思いました。救援は一方通行ではなく、交感・好感・交歓でなければなりませんね。

    □プロフィール
    1939年、兵庫県関宮村生まれ。東京教育大学卒。神戸新聞記者から百科事典・竹ざお・和紙行商、埋蔵文化財発掘作業員、月刊神戸っ子編集者などを経て、阪神・淡路大震災復興誌執筆担当。著書に、『神戸、その光りと影』、共同研究『KOBE発災害救援』ほか。

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    ●木造住宅耐震補強─540万円の補助金が出ない理由(わけ)   
                                平戸潤也

    木造住宅の耐震化政策が最も進んでいるとされる横浜市。市内にある私の実家(25年前の2階建て)は、市の制度利用も含め、何度か耐震診断を行ったが皆診断結果が違い、悩んだ挙句、昨年末耐震補強工事をした。今回はその悩みの内実を具体的に紹介しよう。

    第1回目は2000年5月。市の木造住宅耐震診断士派遣制度
    (http://www.city.yokohama.jp/me/ken/housing/minju/mokukin/kou.html)を利用した。古い在来工法の自己所有個人住宅ならば、無料で耐震診断を受けられ、結果によっては、耐震工事の無利子融資や補助金請求ができる制度だ。

    診断士は5年以上建築士等の実務を経て横浜市の耐震講習会を受講した人が来るのだが、木造住宅耐震を専門にしているわけではない。図面を見て、家の外観を見た後、2階押し入れの天袋から懐中電灯をかざしながらちょっと顔を突っ込んで診断はすぐに終了。天袋からは、設計図ではあるはずの筋交いが一箇所入っていないのが確認でき、そこからの類推で他も入っていないかもしれないとのこと。そこで1階では筋交いセンサーと呼ばれる非破壊検査の道具を使って調べてみるが、筋交いがあるかないかはよく分からないという。なんかたよりない。

    結果はどの診断も、建設省住宅局監修の『木造住宅の耐震精密診断と補強方法』に基づいて数値で示され、1.5以上が安全、1.0以上が一応安全、0.7以上がやや危険、0.7未満が倒壊の危険あり。今回は0.72。う〜ん、絶妙やな〜。0.7未満だと補助金対象だが、0.7以上だと無利子融資のみ。なお、所見は数行書かれたのみで、耐震補強される場合は、ハウススクエア横浜内の相談窓口(http://www.housquare.co.jp/johokan/square/soudan.html)へどうぞ、とのこと。

    で、早速行ってみた。誰もいないガラガラの所で、暇そうにおじいさんが一人いて、筋交い、間柱、足代、モルタル等で134万円くらいかかるとの概算。完全に「危険」ではないし、補助金出ないし、そんなお金は今出せない、というわけで、とりあえず様子見でこの場では断念。

    第2回目は2000年10月、テレビ番組で紹介されていた民間業者の耐震診断に申し込んだ。この人は、1階物置の中に入って風呂場近くの壁裏を点検。水まわり
    が湿気てないから大丈夫とし、1階より2階が一部飛び出ていて、そこにアルミ製の大型バルコニーがついていることから、バルコニーを鉄製に変更、外壁モルタルの上にボードやサイディングを貼り、その際に筋交いをつけて、基礎・土台・柱の一体化を金具でし、小屋裏にも筋交い補強、さらに白蟻駆除をすべしとのこと。工事の際には、台所や浴室の改装も同時に行うことで内部の構造も分かり、補強しやすく金額も安くなるそうだ。しかし、そうしたリフォーム全般まで含むと100万台では到底できず、断念。

    熱が冷めて放置すること三年。そろそろ外壁塗装の塗り替え時期なので、ついでに耐震補強を、とのことで再度調べだしたのが昨年のこと。第三回目は、毎日新聞の広告に出ていた耐震補強専門の会社に耐震診断。今度の人も、天袋から明るいライトで照らして構造を見、天井裏の一部にボルトがなく、筋交いも止め方に問題があり、重心がずれてもいる。金属で基礎と土台と柱を接合して140万円とのこと。評価は0.8。

    この業者、インターネットで見たが、どうも怪しげな感じがする。そこで、素人が怪しげな業者かどうかを見分けるにはどうすればいいかいろいろ調べた結果、静岡県のウェブサイト(http://www.taishinnavi.pref.shizuoka.jp/)に行き着いた。県や市が構成する団体が主催する住まい博・静岡県住宅展がちょうど開催中とあって、耐震補強専門の展示コーナーがある他、耐震補強のセミナーや専門家による無料相談コーナーもある。早速新幹線に乗り、静岡へGO! 
    そうしたらビックリ。静岡県のプロジェクト「TOUKAI(東海・倒壊)-0」は、本気なのだ。
    それは制度からも分かる。簡単な耐震診断があるのは同じだが、耐震補強計画の作成(15万円程度)に多くの市町村から最大3分の2の補助金が出るのだ。この補強計画こそ一番大事で、そのための調査は、屋根裏や床下から筋交いの有無や柱・梁などの接合状態を原則全数調査する大変なものだ。今までどの業者もそんな調査はせず、外から見て、ちょっと中をのぞいた程度で見積もりを出すだけ。

    県が、昨年度補助金(県から最大30万円)を使った耐震補強の施工実例を多数、図面と工事内容、金額とともにのせた『木造住宅の耐震リフォーム事例集』を出しており、様ざまな工法の実際がよく分かる。平均190万で工事ができ、そのうち4割は130万でできるとの目安も分かる。2001年には「地震から生命を守る」2001しずおか技術コンクールを行い、その優秀作品を常設展示もしている。安価でありながら命を守れるように考え抜かれたいろいろな工法を見るだけでも、涙ぐましい努力が感じられる。蛇足だが、室内環境では、死なないためのベッドたる屋根付きの防災ベッドも県の薄いパンフレットに写真付きで出ている。

    驚きと感動の中、帰ってきた数日後に、先の三回目の業者の説明があった。静岡でこういうの見てきて、この工法に疑問を感じる、と言ったら、営業マン氏、たじたじで、工事を頼まない人には詳細結果は教えられない、その静岡の展覧会の情報を教えてくれ、と言って、逃げ帰るように去ってしまった。

    静岡での調査の結果、一番我が家に適していて安心もできると踏んだ業者に、再び耐震診断をお願いした。第四回目である。それは一級建築士防災協議会(http://www.tai-shin.com/)だ。耐震診断の実際のビデオもあり、診断は壁を壊して土台や柱の状態を点検するなど、本格的なもので、診断のもと、補強工事のための設計をする。耐震診断は4万円ということだが、その後東京で行われた耐震セミナーに参加したら、無料券をくれたので、無料でできた(こういう商法には少し怪しさも感じるが)。

    耐震診断の日、三人が来て、押し入れの天袋から天井裏に入り込んで非常に明るい照明をたくさんつけて隅から隅まで真っ黒になって這いまわって目視点検できるところは全て点検。1階の物置も中のものを全て出して点検。さらに数箇所、内壁を壊して点検。それぞれ、大量の写真を撮り、帰っていった。結果は、筋交いもしっかりしており、乾燥状態に問題はなく、腐朽や蟻害もないが、軟弱地盤で基礎クラックもあり、偏心率が高いため、0.52の評価で、「危険」なのである。
    4箇所にホールダウン(基礎と柱を固定する)金物設置、同4箇所の基礎補強(鉄筋10〜13mm使用)、5箇所の耐力壁補強(9mm以上の構造用合板を使用し土台から梁まで)、構造材接合部分に緊結用プレート取り付け、基礎クラック補修4箇所が具体的な補強計画で、結果1.04になるという。診断結果と補強計画は分厚いファイルにとじられ、説明を聞くだけでも1時間以上かかる。これだけやれば安心できる。値段も130万程度と内容からみて納得のいく額。万一の入院時の医療費として貯めてあったお金を崩して決心した。

    しかし、である。工事をすすめていくと恐ろしい事実が判明したのだ。四隅の基礎補強と耐力壁取り付けのため、モルタルの外壁を大きく切り取ってみたならば、あちこちで柱が腐っていて、すでに木がほとんど存在していない箇所さえあるではないか。びっくりして予定よりも大きく壁を壊すと、1箇所は通し柱がほぼ消滅。筋交いどころじゃない。もちろん筋交いも消滅しているが、肝心の柱自体がないわけで、これでよく建っていたとあきれかえるしかない。耐震補強どころではなく、地震がなくても崩壊するところだった。設計のやり直しをさせたら、0.3との評価。「大破壊」である。壁を壊さないと全然分からない。この事実の重みに、近所中の人が「自分の家は?」と強い不安を持つようになったのは言うまでもない。

    数十万の追加で木を継ぎ足し、耐力壁の追加等を行い、1.1になった。ここでふつふつと疑問が湧いてきた。横浜市の診断は3年前だが、その時だって相当腐っていたはず。診断が正確なら、補助金
    (http://www.city.yokohama.jp/me/ken/housing/minju/mokukin/mokukin0.html)対象(なんと最大540万)ではないか。そのことを役所の担当者に聞くと、一回診断した人は二度とこの制度での診断はできない。横浜市の診断結果でしか補助金申請はできない。三年前の審査は今は無効。工事最中に診断結果の誤りが見つかったら、その場で工事を中止して市に連絡をし、2〜3ヶ月検討した結果、補助金を出すかどうか決める、というのだ。
    壁を壊したんですよ。吹きさらしですよ。これで2〜3ヶ月待つんですか。全く現実的でない。また、無利子融資もこの際調べたら、我が家では年収が少なく借金があるために融資自体が受けられないことも分かった。貧乏人のための制度のはずが、現実には使えない。ああ、この矛盾。これが最も進んだ横浜市の耐震補強政策の実態である。

    今回のことで、東京都や静岡県にも問い合わせたが、静岡県の対応だけは素晴らしい。電話で、今回依頼する業者が信頼できるか、今までの実績を教えて欲しいと聞くと、補助金対象の工事を何例かやっているがトラブルは発生していない、と即答してくれる。たらいまわしなどしないのだ。

    翻って我が兵庫県を見るに、人と防災未来センターでは、筋交いがないと危ないよ、との子ども用のオモチャがあるくらいで、死者の大多数を占める圧死に対する教訓を次に活かす形での発信がなされていないのは、非常に残念だ。センターのある研究員に聞いたところ、最近は東京いのちのポータルサイト(http://www.tokyo-portal.info/)というNPOの取り組みが注目されているという。先の横浜ハウススクエアも行政関連機関のみならず、各種NPOが入居しており、収集資料や展示も充実している。こうしたハコモノの資源をいかに活かすかは、専門性があるNPOがどれだけそこに関わっていくかにかかっているのだと思わずにはいられなかった。

    なお、2×4住宅でも年月を経れば腐朽するのは同じだが、壁を壊してツギハギだらけの家になるのを嫌がって補強をしないと言う近所の人も多い。関西建築家ボランティアで震災時に活躍し、今や被災地NPO業界のリーダー的存在である野崎隆一氏に聞いたところ、ナショナル住宅などが、規格化した点検口をつけて業界標準にするといったことがあれば、今後発生する木造住宅の「隠れた」腐朽対策に非常に有効ではないか、とのご意見だった。住宅メーカーにも改善を求めたい。

    □プロフィール
    1973年生まれ。都市生活コミュニティセンター会員、NPO法人シンフォニー会員、震災10年市民検証研究会会員。現在、SOHOサポートセンター尼崎、相談員。


  • no.12 2004/1/1
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    目次◆1 
    「公共」と「未来」のための記憶表現に向けて
          ─ベルリン・ユダヤ博物館をめぐって─
     
         寄稿者:笠原一人(京都工芸繊維大学 助手)   

       2 
    年頭所感 小さなもちつき、大きな満足
         寄稿者:渡邊 仁(本誌 編集長)
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    ●「公共」と「未来」のための記憶表現に向けて
      ─ベルリン・ユダヤ博物館をめぐって─
     
                    笠原一人(京都工芸繊維大学 助手)

    2003年10月、若手歴史学研究者、寺田匡宏氏が主宰する「[記憶・歴史・表現]フォーラム」の研究旅行に参加した。このフォーラムは、出来事の記憶をいかに伝え、表現するかについて研究を行うものであり、歴史学、社会学、民俗学、美術、詩、建築など、様々な分野に携わる研究者らが参加している。今回は、ベルリンとポーランドを訪れ、負の出来事にまつわる場所や施設で、その記憶がどのように伝えられ、表現されているかについて見学した。中でも、近年世界的な注目を浴びるベルリンのユダヤ博物館の訪問は重要なものであった。

    ユダヤ博物館は、太古からのユダヤ人の生活を展示する博物館である。しかし、展示内容よりも建築や空間のあり方が、記憶の表現の問題を提起していることから注目を浴びている。テロ事件で崩壊したニューヨークのWTCの跡地の再開発を担当することにもなった、ユダヤ系の建築家ダニエル・リベスキンドによる設計である。ユダヤ博物館のオープニングは、2001年9月11日であり、奇しくも、ニューヨークでテロ事件が発生したその日であった。リベスキンドにとっても、ユダヤ人にとっても、因縁を感じさせるものである。

    ユダヤ博物館には、ユダヤの記憶、とりわけホロコーストの記憶をめぐる様々な空間的仕掛けがなされている。建物全体は、あたかも稲妻のようなジグザグの形をしており、外部からも内部からも、容易に建物の全体を把握することはできない。そして建物の壁面には、いたるところに「傷」を思わせるような窓が開けられ、わずかな光が差し込む。これらはユダヤ人の困難な歴史を暗示する。建物へは、隣接するベルリン博物館から、しかも地下からしか入ることができず、展示室にはなかなか到達できない。また地下空間は微妙に傾き、来館者は安定感を失う。これらはユダヤ人が抱いた不安を想起させる。

    ホロコースト・タワーと呼ばれる部屋は、高い天井部分からわずかな光が差し込むだけの、真っ暗な空間である。貨車に閉じ込められて収容所へ運ばれたユダヤ人達を想起させるし、わずかな光は、彼らが絶望の淵で抱いていたであろう、わずかな希望を暗示する。また展示室には、覗くことはできるが入室不可能な、従って「意味」を満たせない巨大な「ボイド(空洞)」が貫いている。
    もはや「意味」を与え、何かとして表象することのできない、あの出来事そのものを暗示する空間である。

    ホロコーストは人類史上最悪の、想像を絶するものであり、再現することの不可能な、表象不可能な出来事である。そして現在、ベルリンにはユダヤ人の痕跡はほとんどない。表象不可能性や不在といったユダヤの記憶の表現をめぐる困難を前提にしながら、あの出来事をいかに表現するか。ユダヤ博物館は、このような記憶の現実と問題に応えた表現なのである。

    こうした表現方法は、クロード・ランズマン監督によるホロコーストをめぐる映画「ショアー」のものと似ている。この映画では「再現」シーンを一切用いず、ホロコーストの体験者やナチスの関係者、周辺住民の証言シーンを収めたドキュメンタリーとして作られている。それぞれの証言は時に食い違い、一つの体系をなさないため、十分な「意味」を満たした「物語」にはなり得ない。
    また証言者たちは当時を思い出しながら、時に顔を歪ませ、時に言葉を失う。
    記憶の表象不可能性、あるいは記憶の現実が表現されている。

    それは、虐殺シーンのリアルな「再現」を多用し、最終的にはヒューマンな「物語」を描き出す、スティーブン・スピルバーグ監督のアカデミー賞受賞作品「シンドラーのリスト」とは対照的である。

    ユダヤ博物館も「ショアー」も、あの出来事を、特定の記憶に基づいたただ「悲惨」なものとして、かつヒューマンな終わりに向かう「物語」として描き出すことはない。あの出来事の記憶を伝え、表現することがいかに困難であるか。記憶の表現の困難さこそが表現されている。

    「ショアー」が日本で初めて上映されたのは、阪神大震災が生じた1995年であり、震災直後の神戸でも上映が行われた。だがその後の神戸は「ショアー」からも、そしてユダヤ博物館からも、まだ何も学んでいないように見える。

    震災をめぐる最大の公共施設である「人と防災未来センター」では、震災の記憶を刻んだ一次資料が保管され、その一部が展示されているが、それらは「防災」と「命」のための「教訓」の意味しか与えられていない(註)。ハイテクを駆使して一見様々な声を読み取っているかに見えるが、結局は「防災」という予防のための、予定され限定された「未来」に回収されるだけのものであり、展示もそうなっている(そうではないと言い張る「センター」関係者がいるとすれば、それは自分のやっていることを理解していないだけである)。

    あの震災の「教訓」を考える前に、あの震災は「教訓」にしかなり得ないのかどうかを検討し、そこから表現を始めるべきではないか。それぞれの人にとっての、それぞれの震災がある。ユダヤ博物館に即して言えば、「教訓」にすらなり得ない、表現することさえ困難な記憶がある。それが出来事の記憶の「現実」ではないか。そうした「現実」を踏まえた多様な震災の伝え方や表現を検討することこそが、本来的な「公共」のあり方ではないか。震災の記憶の伝え方や表現のあり方をめぐる議論は、神戸では未だなされていない。

    もちろん、ホロコーストと神戸の震災は同じではない。震災には直接の加害者はいないし、ベルリンのように出来事の痕跡が不在であるわけでもない。あの出来事の記憶を伝える表現は異なるはずだ。それを踏まえた上で、万人に開かれた「公共」や予定されない「未来」のための、震災の記憶を伝えるにふさわしい表現はいかに可能か。それこそが検討されなくてはならない。ユダヤ博物館は、出来事の記憶を全き「公共」と「未来」に開くための方法を、我々に示唆してくれている。

    (註)「人と防災未来センター」の建築の問題については、かつて『神戸新聞』(2001年8月27日朝刊)紙上で、本稿とは別の視点から論じたことがある。
    http://homepage2.nifty.com/archives_kobe/inkobe.htmlを参照のこと。
    また2回にわたる「阪神・淡路大震災をどう伝えるか」についてのシンポジウムでも言及した。そのうち第2回目シンポジウムの概要が、この「論々神戸」の「論々書架」(no.000 2001/10)に収められている。

    □プロフィール
    1970年神戸市生まれ。京都工芸繊維大学大学院博士課程修了。現在、京都工芸繊維大学工芸学部助手。博士(学術)。建築史・都市史専攻。共著に『近代建築史』(昭和堂)、『建築MAP大阪/神戸』(TOTO出版)、『関西のモダニズム建築20選』(淡交社)など。神戸市在住。

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    ●小さなもちつき、大きな満足    渡邊 仁
     
    年末も押し迫って29日、兵庫県西部の相生市郊外のもちつきに参加した。
    NPO法人兵庫農業クラブのお手伝いである。突き手がほしいので、「畑に行きませんか」と、本誌スタッフでもあり、ジャーナリストの大谷成章氏から誘われて、昨年から参加しはじめた。いまや大谷氏は、週一回の相生通いで、風体からして、ゴム長靴が似合う地元の民になってしまっている。うん、かっこいい。

    相生の旧家の室内(昔でいえば土間にあたるところだろうか)で、約50臼はついたのではなかろうか? 10時半頃に参加して、終わったのは、午後6時過ぎという労働。
    この地域でのもちつきは、家族を中心にした行事であり、年末の28日か30日に行われるものだそうな。29日を避けるのは、やはり九(苦)がつくからだという。
    しかし、一方で、苦労は買うべし、という考え方もあって、29日にすることの理由づけがなされるのだから、後知恵かもしれない。

    それはともかく、もちつきは、突き手、返し手、千切り手、そして丸め手と、主に四つの役目があるのだが、地元の人たちの作業をしている間で交わされる会話がときに下ネタになったり、わいわいと、まあ、それはにぎやかなこと。
    きわめてローカルな話ゆえ、蚊帳の外ではありながら、そんなところにも、庶民の楽しみとして、肉体労働のつらさを笑いとばしてしまうようなつよさを感じてしまう。

    はじめに軽く小突いて、米粒をつぶすことが肝心で、しかも米が熱いうちに勢い良く突いて、最後はやさしく、軽く突いて仕上げるのだから、そのプロセスが、おなごを抱くときの要領に類似している、というわけだ。

    百姓とはよくいったもので、百の姓、すなわち、いろんなしごとを四季折々にするのだから、一つ一つ積み重ねていけば百ぐらいのしごとをこなす民のことだと、私は理解している。本来は、決して蔑称なんかではない。いつの頃からか、近代合理主義や進歩主義という立場をとる、頭でっかちの連中によって、都市と田舎、市民と百姓、進歩と時代遅れという対比が知らず知らず植えつけられていった。

    もちごめの蒸し加減、小突き加減、杵のふるい加減、こね加減、そして丸め加減と、すべては計量の域を越えている。「まあ、いい案配だがや」というところで、美味しいもちがつきあがっていく。もち肌とは、ほんとうになめらかで美しい柔肌のこと。実にきれいなものである。これを見るだけでも、肉体労働の価値はある。

    相生・若狭野の里山には、畑を荒らされないようにと鹿避けフェンスも張られている。
    畑の畦道を歩いたり走ったりすると、野草がいいクッションになる。
    家並が途切れた先には小さな神社、あたりはひっそり閑、冷たい風が流れていく。
    この季節、夕暮れともなると、この辺りの光といえば、家々の灯り、そして小さな街灯とクルマのヘッドライトぐらいしかない。あっという間に、あたりは闇につつまれる。
    さ、帰ってからのお酒を愉しみに、神戸まで一走り。

    かかるもちつきは、あらためて、美風として継承すべき習慣だと思う。願わくば、読者のみなさんも、身体を動かして、「もちつき」に耐えられる体力をおもちになることを。

    共同体の崩壊を回復させるためには、長い時間をかけて、地域を耕していかねばならない。小さなできごとではあるが、家族を核にした共同作業の快感をあらためて伝えたい。
    偉大なるマンネリ、大いに結構。もちつきは、愉しい、ゾ!

  • no.11 2003/12/15
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    目次◆1 
    人の街 3
         寄稿者:永田 収(写真家)
       2 
    アウシュヴィッツから戻って
         寄稿者:季村敏夫(詩人・「震災 まちのアーカイブ」)
     
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    ●人の街 3   永田 収

    市場と町の活動について前回少し紹介したが、もう少し触れてみる。

    神戸新開地(兵庫区)の南に、西出町、東出町、東川崎町などの町が広がっている。
    ここはあまり人に知られてない地区だが、海岸線にある川重や神戸ドックが元気な頃には、神戸で一番人口密度が高いと言われるほど、多くの人が集まり賑わった土地だ。戦前は映画館や芝居小屋の立ち並ぶ新開地のすぐ近くということもあり、船員や港で働く男たちが、ひしめき合っていた。また江戸時代には高田屋嘉兵衛の店が西出町にあり、船問屋も多く住んだ。港神戸の基礎はここから生まれたといっても過言ではない町だ。

    そういう歴史のある町だが、震災以前から産業構造の変化もあり町工場がどんどん出て行って人口が激減する町になった。さらに震災が追い討ちをかけ町の中の過疎化が進んだ。

    今、町には稲荷市場という神戸で一番古い市場が残っている。隣接する松尾稲荷神社の門前市が起源だと聞いた。その後大正時代の初めに認可を受けている。ちなみに長田の丸五市場や宇治川の市場も同じように古い。明治時代、すでに南京町に市場があったといわれるが、日本人が作ったのは稲荷が最初らしい。その市場は震災でも残ったが、直後の再建問題がこじれ、今は手つかずのまま更地を残し、自力で営業を続ける店だけで細々とがんばっている。

    しかし、この地区は「まちづくり」の活動が他所よりも活発である。市場の人々で、それに関わる人も多い。西出町、東出町、東川崎町の代表者がそれぞれ協力して地図作りなどに携わり、また若い神戸芸術工科大学の学生たちと組んで様ざまなイベントを仕掛けてきた。最近では新しくできた車道の横の空き地に菜の花の種を植える運動も行った。これらの運動の中心となっているのが西出町自治協議会。「WEBにしでまち」という公式ホームページも持っている。興味ある方は一度アクセスしていただきたい。
    (http://www.nishidemachi.jp/)

    ただ、個人的な感想ではこういう動きは大いに推奨されるべきだと思うが、現実に町が活性化されてきたかというと、答えは難しいと言わざるを得ない。
    何故か。それは街の構造の問題で、市が今までとってきた無謀とも思える街づくりが根底にあるからではないだろうか。
    この地区はハーバーランドの出現で見捨てられたような存在になり、さらにそのハーバーランドの経営も悪化してきていると聞く。場所は違うが、今、新長田駅前の再開発が着々と進み、大型のビルが何棟も完成し店舗が次々と入居し始めている。そこで目立つのは大型店舗。まだこれからも増えるという。地元の商店主の嘆きが聞こえてきそうだが、数年後これらの店がどうなっていくのか考えるだけでも寒々としてくる。
    神戸空港然り。やはりこの問題が変わらなければ下町の活性化は難しい。

    □プロフィール
    1953年、岡山県生まれ。フリーカメラマン。写真専門学校卒業後、世界各国を転々とする。93年より、下町をとりあげるミニコミ誌『SANPO』を発行。以後、変貌する街をテーマに撮影を続行。大阪・神戸にて、写真展を開催。

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    ●アウシュヴィッツから戻って    季村敏夫 

    【ひとたび犯したわれらが罪は/二度とゆるされぬ/ならばみどりよ、みどりのままもえつきよ】。
    これは、十代最後の年に書かれた私の拙い作品の一部である。政治闘争、陰惨な内部抗争から逃れようともがいていた頃であった。なぜそのような私事をさらすのか。ここから書き始めようとおもう。

    十月、寺田匡宏(注1)が率いるフォーラム「記憶・歴史・表現」でベルリンからワルシャワへ向かった。建築家や映画プロデューサー、若い人たちに私も混じった。寺田匡宏は好評のうちに幕を閉じた「ドキュメント災害史」(主催・国立歴史民俗博物館)で阪神大震災を担ったばかりであった。旅の主要な目的は二つ、リベスキンド(注2)設計のベルリン・ユダヤ博物館とアウシュヴィッツ収容所訪問である。

    ポーランドのクラクフからバスで約一時間半、地元でオシヴェンチムと呼ばれるかつては湿地帯のそこに絶滅収容所があった。私達は足を一歩前へ出すこともたじろぐような足取りで巡っていた。ビルケナウ第二収容所の「死の門」をかいくぐり、広大な収容所跡に佇んだとき、不意に自分の作品が胸を衝いてきた。しかもその一節が白昼、空に砕け散るのを目撃した。そのとき私は二つの声を聴き取っていた。

    【なにごとも二度は起こらない】。
    【われわれの生のあらゆる瞬間が無限回繰り返されるのであれば、イエスが十字架に釘づけにされるように、われわれは永遠に釘づけにされていることになる】。

    【なにごとも二度は起こらない】は、ポーランドの詩人シンボルスカ(注3)の声である。【けっして だからこそ/人は生まれることにも上達せず/死ぬ経験を積むこともできない】と続く。平易な言葉だが内容は深いペシミズムに満ちている。
    後者はクンデラの小説『存在の耐えられない軽さ』の冒頭に出て来る。「いかなる救済も存在しない」というニーチェの永劫回帰説をアウシュヴィッツ以降の現代に読みかえたものだ。
    かつて確かに起こり、今なお世界のどこかで繰り返される悲劇、まさに人類が引き起こす悲劇の意味を私は反芻していた。

    私達はリスクの高い二等車を敢えて選び、ベルリンから夜行列車に乗り込んだ。絶滅収容所へと移送される当時の人々の心境に出来うる限り寄り添いたかったからである。夜行列車がたどる深夜の鉄路。ベルリン、クラクフ、オシヴェンチムの旅路は、かつての移送ルートそのものであり、彼らの強制された旅を自らに重ねることでもあった。

    二十世紀の深い傷痕。ヒトラーとスターリン。今回私達がたどったどの街にも、戦争と革命の記憶が残留していた。突如記憶がよみがえった場所は、日々野積みの屍体を焼却し続けた空き地の中であった。だが樹木のそよぎは、私達の観念の青さをまるであざ笑うかのように彼方の空で鳴っていた。ナチスにより証拠隠滅のため破壊されたガス室の瓦礫が、遺族の強い希望によりそのままに残留していた。
    工費解体制度により、早々と瓦礫を撤去したわが神戸との違い。さまざまな記憶の現場に出会うと、旅の一行はたちどころ言葉を失った。記憶の重量、というより、自らの思想のボディの軽薄なまでの軽さに暗澹としたのだ。
    とりわけユダヤ博物館のヴォイド(空虚)に戦慄的な感銘を受けたあとだったので、愚劣極まりない発想のわれらが「人と防災未来センター」を脳裏に浮かべ、恥辱ともいうべき何とも形容し難いおもいを抱えてしまった。

    体験は本来伝達不能を本質とする。そのことを踏まえながら、言語を絶した極限的な体験をいかに受けとめ、どのような方法論で伝えるのか。そもそも伝達とは何か。
    議論に議論を重ね、いわば不可能性そのものを表象の問題として迫ったのがユダヤ博物館である。リベスキンドは表象の不可能性をヴォイドとして構築している。引きかえ「人と防災未来センター」の発想はすべてその逆をいくというか、防災学に偏向し、表象はおろか記憶、歴史への問いかけはほとんど見られない。地震の再現装置なぞというハリウッド紛いの安直な発想レベル(発想ですらないが)はその証左である。

    ベルリンでもワルシャワでも、都市計画の中で賽の河原に石を積み重ねる記憶の検証作業が見られた。「釘づけのイエス」、それは西欧的思想の重量である。他者とのダイアローグを決して手放さない思考方法である。戦争の記憶の、手放し方と受けとめ方のしつこい姿勢に如実にあらわれている。神戸が最も不得手にする領域である。
    阪神大震災の経験は「釘づけのイエス」になるのか。ポーランドの映画監督ワイダは『灰とダイヤモンド』の中で、「宙吊りのイエス」を登場させ、主人公マチェックに、「もし今日わかったことが昨日のうちにわかっていたなら」と絶望的につぶやかせる。永劫繰り返される悲劇の中で、塵よりも軽く消滅する死者を他者として釘づけに刻印できるか。

    わが十代の感慨「二度とゆるされぬ」は記憶への問いかけ、「みどりよ、みどりのままもえつきよ」、これは永劫回帰説を逆説的に歌っていると、遅れに遅れた自註を施そう。たったの一度の生にもかかわらず、日常に舞い戻り再び軽薄に生き始めた私達に、重い問い、「容易に答えられない」問いが残された。

    〈編集室 注〉
    (1)国立歴史民族博物館研究支援推進員、「震災・まちのアーカイブ」会員
    (2)ダニエル・リベスキンド 1946年ポーランド生まれの建築家。88年、ユダヤ博物館を設計。ナチスのユダヤ人虐殺によって抹殺されたベルリンの人々、その不在の場として構想した。
    (3)ヴィスワヴァ・シンボリスカ 1923年ポーランド生まれの詩人。96年、ノーベル文学賞受賞。その理由は「人間の本質がもつ様々な断面に、歴史的、女性的視点からアイロニーをこめて照らし出した詩」とある。

    □プロフィール 
    1948年京都市で生まれる。現在、神戸でアルミ材料商。著書に『生者と死者のほとり・阪神大震災・記憶のための試み」(共著・人文書院)ほか。

  • no.10 2003/12/1
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    目次◆1 
    芦屋市立美術博物館問題を考える     島田 誠
     
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    ●芦屋市立美術博物館問題を考える     島田 誠

    芦屋市の行財政改革で「富田砕花賞」の休止、谷崎潤一郎記念館、芦屋市立美術博物館の売却、休館を視野に入れての民営化、NPOによる運営の検討が発表され、尼崎市でも「近松門左衛門賞」が休止。神戸でも六甲アイランドのオルビス・ホール、神戸市立ファッション美術館も同様の方向である。民間では演劇の拠点である扇町ミュージアムスクエアー、近鉄劇場、近鉄小劇場が閉鎖されることが決まっており、神戸でも神戸朝日ホールが来年3月末で閉まる。こうした流れが加速すればドミノ倒しのように文化施設や顕彰制度が廃館、廃止、に追い込まれてゆくことが危惧される。
     
    今、ここでは芸術が社会の公共財として支援されるべき理由については述べないが、経済的価値重視への偏重が、精神文化軽視につながり、人間性崩壊への道をひた走っていることに繋がっていることは自明である。片や、兵庫県は「芸術文化立県ひょうご」を標榜し、県行政の中心施策として「芸術文化振興」を掲げ、その流れにおいて神戸市灘区に「兵庫県立美術館」、西宮に「芸文センター(仮称)」という大きな文化施設を建設。県立のオーケストラを設立しようとしている。

    去る11月21日にギャラリー島田で、美術館関係者、文化関係者が集まって、こうした問題を話しあった。12月2日から芦屋市議会がはじまることもあって芦屋市立美術博物館問題が話題の中心になった。こうした公共文化施設が売却、廃止を含めて議論されるのは、国も地方も財政状況が逼迫していることに起因しているが、同じ根っこから来ていることだが、本年6月に地方自治法が改正されて、公共文化施設の管理運営を指定管理者としての民間に委託できることになったことがもう一つの理由である。

    私たちは経済重視のもと歴史的遺産をつぎつぎと破壊し、いたるところに貧しい都市景観を現出し、リゾートと称して自然を破壊し、本来は国民の預かり金である厚生年金で保養所を作っては巨額のお金をどぶに捨てた。バブルの時代に海外で驚くほど高値で買い漁った世界的文化財としての名画も、あらかた驚くほど安値で海外へ戻った。残ったのは死屍累々たる不良債権だけである。
     今日の文化行政の逆流も経済原則の貫徹であれば、目先のことだけにとらわれて、歴史を学ばない日本人そのものである。

    結論を急ごう。
    地域に根ざした歴史、文化はどのようにしても守らねばならない。その継続性の上にこそ未来の可能性はある。その上で、新しい状況に応じた変革も必要である。
    芦屋市長、市役所、教育委員会とて、芸術文化的資産をお金のために売り払うことは潔しとしないだろう。ならば、他の範たるべく、芦屋市立美術博物館をモデルケースとして再生させないか。「芸術文化立県ひょうご」を標榜する兵庫県にもそのための調査・研究のための助成をお願いしよう。市民も巻き込んでアイデアコンペで再生案を募らないか。壮大にやらないか。
    多分、すぐには実らなくても、必ず実る時は来る。ついでにコンペの資金もカンパで募ろう。日本中、いや世界に募ろう。

     具体的には、

    1 芦屋市立美術博物館の存続を前提とする
    2 その上で専門学芸員とNPO、あるいは民間組織と連携して運営できる  可能性を検討する研究会、あるいは委員会を行政と共同で発足する。
    3 兵庫県の芸術文化振興政策との連携での支援策を検討する。
    4 美術館のミッションを明確にしたうえで、企業との連携を探る。
    5 新しいサポートシステムの確立
      
     などが考えられる。

    *芦屋市の今回の決定に、ご意見を述べられる方は市の総務部行政改革推進室あてに、メールでどうぞ。
     kikaku@city.ashiya.hyogo.jp

    □プロフィール 
    1942年、神戸市生まれ。神戸大学経営学部卒。海文堂書店社長を経て、ギャラリー島田を経営。アートサポートセンター神戸代表。公益信託亀井純子基金事務局長。著書に『蝙蝠、赤信号を渡る─アート・エイド・神戸の現場から』など。


  • no.9 2003/11/15
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    目次◆1 
    始まった震災10年─もう一つの生き方と市民社会発展の道探る
         寄稿者:山口一史(震災10年市民検証研究会 代表)
     
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    ●始まった震災10年、市民検証     
      ─もう一つの生き方と市民社会発展の道探る
         山口一史

    05年1月には震災10年を迎える。もうすでに9年近くの歳月が経過したのだ。この間、被災者と被災地はどのくらい元気を取り戻したのだろうか。いろいろ新しく生まれた仕組みもあるが、いまもなおくらしの再建のめどが立たない人も少なくない。こんな10年を市民の立場から振り返り、次の10年、20年に広げていきたいことは何であるか、そして私たち市民の目はどこを向いていくべきか─などを考え、具体策を見出すことを目的に掲げた「震災10年 市民検証研究会」がこのほど発足した。
    震災5年の際に、同じく「市民検証研究会」に集まったメンバーが中心になって、広く被災者や市民活動に関心のある人、NPO/NGO、各分野の専門家などに参加を呼びかけている。

    地震後の約9年間に、被災地で現れてきたたくさんの動き─ボランタリーな動き・福祉分野の新展開・協働を呼びかける行政の動き─は、決して被災地だけで起こっているものではない。日本社会全体が大きく構造変革に動き出している。それは地震以降でなく、1990年代に入って全国を覆う大きな潮流である。震災があってもなくても、その潮流は存在する。もちろん、被災地かどうかにかかわりなく、である。

    被災地で活発に動いている福祉分野の支援。老舗の地域の社会福祉協議会や後発の株式会社組織の福祉事業者とともに女性を中心とした地域グループが介護や支援を始めている。うれしい活動だが、このほとんどは介護保険制度を抜きにしては語れない。2000年度からの介護保険制度スタートが実は被災地だけでなくおそらく全国隅々で同じような活動を生み出していると考えられる。多くのNPO/NGO活動も被災地で目覚しい。しかし、これもNPO法(特定非営利活動法)の成立が強く影響している。同時に、これもまた全国にある程度共通のことがらだ。

    こうした大きな潮流をしっかりと見定めながら、被災地の10年を検証しなければ、何が被災地で起こり、何が全国でも起こっているかを見誤る心配がある。このことを忘れずに、研究会は二つの流れを追いかけていきたい。

    第一は、震災復興の歩みをさまざまなグループやそのリーダーに焦点を合わせながら、「震災で生まれたもう一つの生き方」を浮き彫りにしていく。第二は、復興の中から芽生えてきた市民社会実現に向けての動きと仕組みなどを掘り下げていく。この2つの流れをクロスさせ、震災10年の間に体験したことや社会の仕組みを見つめなおし、新しい市民社会への道筋を新たにしていきたい。

    すでに個別のテーマごとの研究会は始まっているが、だれでも参加しやすいよう“1回読み切り型”に設定し、関心のあるプログラムだけに参加することも可能にしている。たくさんの参加を期待している。(メンバーは年会費3000円です)

    □プロフィール
    1941年神戸生まれ。神戸新聞、ラジオ関西などを経て、この9月に友人たちと「ひょうご・まち・くらし研究所」を設立。NPO法人の認証申請中。当面は常勤に。福祉やコミュニティ・ビジネスなどの事業を通じた地域づくりを応援するのが事業の目的。


  • no.8 2003/10/31
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    目次◆1 
    人の街 2
         寄稿者:永田 収(写真家)
     
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    ●人の街 2    永田 収 

    神戸駅から北へ有馬街道を進むと山に入る手前に平野の交差点がある。その道並みには商店街が並び、奥まった一角には平野市場が昔の姿で残っている。戦後闇市を源流として出来た市場で、神戸の中ではそう古いものではない。しかし震災をくぐり抜け今でも残っている市場は貴重なものと言える。崩壊した市場や地震後徐々に後退し消滅した市場をずいぶんと見てきた。

    とは言うものの、ここ数年は残った市場も景気の後退や店主の高齢化等で店を閉じシャッターを下ろす店が増えてきた。きびしい状況が続いているのが現状だ。平野市場も決して例外ではない。そんな状況のなか市場の火を消したくないと頑張っている人たちも居る。

    平野市場では玉川ゆかさん(詩人)がその一人。小さな布団屋を営んでおられるが、店の二階をギャラリーに改装して写真展や各種作品の発表の場に使っている。けっこう遠方からここを目当てに来る人も多い。私もここで2度個展を開いている。

    平野という土地は神戸の中でも特異な存在で、平清盛がここに別荘を造り長年移り住み、京都から天皇を迎え都にしようともくろんだ所。歴史的にも様々な因縁が深く郷土史の研究も盛んに行われている。

    そういう気風の中、玉川さんとその周囲の人たちで、今年の夏から「平野塾」という町づくりを考える会を発足させた。環境プランナーの専門家も参加し月一度の会合を開いている。

    市場だけでなく町全体の活性化の案を皆さんで練っている。

    この方向性は大いに支持すべきで、今神戸に足りないのは行政主導の町づくりでなく市民の側からの発信が必要だと私は思っている。もう「箱もの」作りが中心の町おこしでは人はついていかない時代に来ているのだ。

    もう一箇所同じような問題を抱え、もがいている市場を紹介しよう。それは長田区の二葉町にある丸五市場。今、市場の近くでは新長田駅南地区の復興市街地再開発事業で高層ビルの建設ラッシュになっている。この11月と12月で3棟、新しいビルが完成する。ご存じない方は一度行ってみることをお勧めする。ここが神戸市の考える西部副都心の中心になるというのだ。あの震災で焼け落ちたアーケードのあった大正筋商店街がその中央を走る。ビルの上階は住居になり低階層は商業施設が入る。

    神戸の中心的下町がこれからどうなって行くのか気になるところだが、今はそれに触れない。その開発地区から外れている町、そこは以前と変わらない姿で残っていてその中に丸五市場がある。この大正時代から続く市場もここ数年で商売を退く人が増えシャッターを下ろす店が増えた。

    その中で組合の責任者であり鶏肉店を営む西村さんは今まで様々な取り組みをしてきた。FM局と組んでイベントを企画したり、市場を活気付かせる為に力を注いできた。だが、なかなか空洞化の波を止めることはできない。

    先日訪れると、空き店舗のスペースを絵画や立体の芸術家に開放していて作品展が催されていた。これも少しでも市場を知ってもらおうとする試み。12月には外の地区とも組んで「こなモン・こんなモン祭り」に参加することを考えている。

    確かに状況は厳しいが残った人々の努力により、地域への関心が深まり町を知るきっかけが増えることは将来へのプラスととらえたい。ぜひ一度皆さんも神戸の歴史ある市場に足を運んでみてはどうだろう。

    注:「平野塾」に関心のある方は、事務局を兼ねた玉川さんに連絡を取ってください。電話078-361-5055まで。

    □プロフィール
    1953年、岡山県生まれ。フリーカメラマン。写真専門学校卒業後、世界各国を転々とする。93年より、下町をとりあげるミニコミ誌『SANPO』を発行。以後、変貌する街をテーマに撮影を続行。大阪・神戸にて、写真展を開催。



  • no.7 2003/10/15
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    目次◆1 
    チョムスキー的期待にかける
         寄稿者:大津俊雄(プロジェ22 代表)

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    ●チョムスキー的期待にかける     大津俊雄

    映画「チョムスキー」を見て驚いた。この不安な世の中にあっても、彼は未来を圧倒的に楽観している。私は思い直した。「それでいいのかも知れない。
    10年、30年、50年、100年単位で世界を見れば、世の中は確実に発展している」と。
     地震に限らず、カタストロフィーは何十年か周期に必ずおこる。人間はその間の平和な一時を生かされているにすぎない。しかし人間は災難を奇貨として生かし、ひたむきに努力し発展してきたいじらしい生物でもある。そこに信頼を置きたい。

    さてこの10年で我々はどう変化できただろうか。市民活動に着目すると、「自分のしたい事や言いたいことがあれば、市民はグループを組んで、自分たちでやり遂げてしまうしたたかな体験を積み、それをライフスタイルとして取り込めた」と総括できる。
    例えばボランティア・NPO・NGO、地域限定のコミュニティ活動・テーマ特定のアソシエーション活動、行政への市民参画・政治への住民投票、等々。
    これらは従来の自治会・行政・議会へのオルタナティブから出た、つまり震災や復興での物理的手不足(市民・住民の手を借りないと乗り切れなかった)や、不況という地方財政不足(福祉を市民住民に協力してもらう)から出たコインの裏表ではあった。
    しかし出自はともかく、震災から生まれた活動を生かして、住みやすい社会への原動力にできないか。これには今後10年を見通す方向や夢があってはじめて、力が出る。

     我々の環境を期待予測すると、民族国家は上下二方向のベクトルへ溶解し、上はEU的国家統合を指向し(東アジアでは30年かかるか?)、下は地方権力の拡大(分権と表現したくない)の方向へと向かうだろう。国家統合―国家―広域(道州レベル)―県−市町村―地区と、なだらかな階段状に権力が分散されるだろう。トップダウンの政治がボトムアップのガバナンス原理に変わり、公的サービスは住民直近の機関が提供し、困難な分野だけ、より上部の機関が落穂拾い的に行うだろう。

     このなかでピープル(市民・住民)は、身の丈に合う生活を創造するコンセプトの元で、自分に最も近い自治体(EU平均で4,000人)を自分たちでつくりかえ、自主自律して運営するべきだ。
    我々多様体ピープルはこのシナリオの中で、自分の役回りの準備をしておかなくてはならない。いったん完成したかに見えるNPOも、常に新しく進化することを求められる(行政の受皿・下請的な自治会やNPOなんかは、もう置き去りですよ!)。

    震災10周年を前にして、神戸市民がこれまでに獲得できた流れをともかく肯定し、次の10年に対してチョムスキー的な期待をかけたい。

    ●プロフィール
    1944年生まれ。震度7の灘区で被災し、防災意識を呼びかける「市民語り部キャラバン」で全国を回り、「人的被害研究会」で死亡原因を調べ、復興のまちづくりを考える「神戸復興塾」をおこし、それを定着化したNPO「神戸まちづくり研究所」の立上げメンバーになった。現在、その延長で、アフガニスタンを教育と医療で支援するNGO活動もしている。


  • no.6 2003/10/1
    ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
    目次◆1 
    あと1巻
         寄稿者:高森一徳(阪神大震災を記録しつづける会 代表)

       2 読者プレゼント 
    『ためらいの倫理学』 内田 樹 著 
         5名様に
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    ●あと1巻     高森一徳

     ポスターが集めた手記

    「阪神大震災を記録しつづける会」は、1995年から震災体験手記集を毎年1巻ずつ出版し10年10巻を目標に活動を続けております。今年9月、第9巻『記録と記憶』を出版しました。

    地震直後、私たちはまず「発言弱者」の外国人の手記を集めようと被災地各所にポスター(英語、中国語、朝鮮語)を貼りました。
    ところが、避難所の方々から「なぜ日本人の手記も集めないのか」と指摘され、日本語のポスターをあわてて用意したのです。新聞各紙は避難所ごとに10部くらいずつ無料で配っていましたが、その程度では手記募集の告知も徹底しません。私たちがボランティの助けを借りて所かまわず貼ったポスターのほうが効果があったようです。

    おかげで、第1巻の締め切りが、地震発生から2ヵ月にも足らない3月15日だったにもかかわらず、240通もの手記が寄せられました。また外国人の投稿は第5巻で途切れましたから、この活動が続いているのは、対象を日本人にまで広げたせいだ、といえるでしょう。

    ●手記の投稿数・内訳・掲載手記数の推移
     題名 / 総数 / 日本人 / 外国人 / 掲載数 / 発行時期

    第1巻 被災した私たちの記録/240/197/43/73/95年5月
    第2巻 もう1年 まだ1年 /229/199/30/68/96年4月
    第3巻 まだ遠い春     /185/172/13/54/97年6月
    第4巻 今、まだ、やっと… /134/116/18/52/98年6月
    第5巻 私たちが語る5年目 /120/118/ 2/61/99年7月
    第6巻 2000日の記録  / 82/ 82/ 0/46/00年8月
    第7巻 7年目の真実    / 36/ 36/ 0/19/01年6月
    第8巻 記憶の風化と浄化  / 14/ 14/ 0/ 8/02年9月
    第9巻 記録と記憶     / 38/ 38/ 0/15/03年9月

    合 計           1078/97/106/396

    「未来の被災者」へのメッセージ

    第2巻以降は、新聞各紙やラジオが私たちの本や活動を紹介してくれたおかげで、手記が集まりました。
    時間が経ってはじめて書ける手記もあります。また、重たい体験をした被災者が毎年書き続けると、心の軌跡が記録でき、心の整理や記憶の浄化を助けることもあります。
    私たちは10年間受け皿を用意し、そこで募集活動を終えようと思っています。

    記録を残す意味や意義は、あまり考えていません。現存の人たちの役に立たなくてもよい。教訓を引きずり出す必要もない。記録を見て人間が賢くなるのでしたら、世界から戦争はとっくになくなっているでしょう。

    しかし記録は残さなければ残りません。そして残らなければ後世の歴史ではなかったことになります。「未来の被災者」に記録を残せば、「自分たちと同じ経験をし、同じ思いをした先人がいた」と分かり、癒しになるかもしれません。

    *会のホームページでは、既刊9巻の全文を公開しております。
     http://www.npo.co.jp/hanshin/

    ●プロフィール
    1947年、広島県生まれ。慶應義塾大学経済学部卒。JECSグループ代表。「阪神大震災を記録しつづける会」代表。著書に『空(から)の墓』(清水弘文堂)。共著に『阪神大震災 まだ遠い春』(神戸新聞総合出版センター)。

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    編集長“お薦め本” 読者プレゼント 抽選で5名様に

    『ためらいの倫理学─戦争・性・物語』内田 樹 角川文庫

     帯には「現代思想のセントバーナード犬・内田 樹、救助にかけつける」とあります。
     「原理主義や二元論よ、さようなら。ためらいと逡巡よ、こんにちは」
     こんな意見をいう人を待っていた、という人が少なからずこの国にいることが救いです! 解説;高橋源一郎

    本書は、01年3月に冬弓舎から発行された単行本に加筆修正し、文庫化されたものです。

     御希望の方は、お名前、住所、電話番号、性別、年令を明記の上、10月15日までに、info@ronron-kobe.comまで、ご応募ください。ひとくちコメントもどうぞ、お待ちしています。


  • no.5 2003/9/15
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    目次◆1 
    A少年事件を考える
         寄稿者:中島 淳(神戸芝居カーニバル実行委員会事務局長)

       2 
    セプテンバー・イレブンス セプテンバー・コンサート
         寄稿者:渡邊 仁(本誌編集長)
     
       ●号外 おすすめイベント『源流を 着る 舞う 奏でる』
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    A少年事件を考える     中島 淳

    神戸須磨のA少年の事件が起こったとき、犯人が14歳だったことに、マスメディアも驚きのトーンで反応した。私自身は、事件が起きて、犯人がA少年だったと分かるまでの間に、事件への感想を書いていた。そこで強調したのは、犯人が特別な人間ではないだろうということと、私たちの身近な存在である人間が犯人の可能性が高いということだった。

    少年「事件」をどうとらえ、どう考えるか。子どもたちのおかれている文化環境、教育環境、さらには地域社会の存在の仕方、根本に横たわる政治のあり方を、大人たちが猶予成らない問題として考えるときだと思っている。

    そこで『考える会』をたちあげ、その狼煙として9月23日(日・祝)に、神戸三宮の勤労会館(308号室)で“少年「事件」と教育基本法を考えるつどい”を開催することにした。
     基調講演者は、野口善國弁護士(A少年の弁護団長)と船寄俊雄神戸大学教授。講演のあと、参加者と可能な限り対話、交流し、『考える会』が継続していけるよう、参加者の加入を呼びかけたい。(午後2時〜4時30分、資料代500円)

    ところで、この件を新聞社にとりあげてもらうために、資料を届けたところ、ある記者は、「ひとり芝居、ひとり芸のプロデュースをしている中島さんが、なぜ『考える会』をするんですか」と質問してきたのである。
    私は、「子どもたちと日本の将来を誰もが真剣に考えるときだから、私がやるのも自然でしょう」と応じたのだが、その質問自体にがっかりしたこともまた事実だった。

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    セプテンバー・イレブンス セプテンバー・コンサート   渡邊 仁

    117と同じように911。
    いうまでもない、いまわしい21世紀を予感させる日。

    一方で、911はニューヨークの救急番号でもある。

    『ダイヤル911』(トマス・チャスティン著 ハヤカワミステリ1304 発行1976 日本発売1978)から引用してみよう。
    -------------
    911(大きい文字)

    911はあなたの命を救う電話番号です

    ニューヨーク市内で緊急の際に警察または救急班を呼び出すための電話番号がこの911番です

    この番号をまわせば、ニューヨーク市警に新設された緊急電話センターに直接電話がつながります この種の総合的な緊急電話回線が開設されたのは、世界の大都市なかではニューヨークが最初です あなたの住む街の市当局が、ニューヨーク電話会社と協力して、この電話の開設に踏み切りました どうかお忘れなく 911番です

    (ニューヨーク電話会社1968年7月1日発行の電話番号簿(マンハッタン版)より)
    -------------
    この作品は、連続爆破魔とニューヨーク市警のカウフマン警視との神経戦を描いた秀作だが、あれていくニューヨークの姿を奇しくもこの日をテロリストはねらった、といえるかどうか、私は知らない。

    2年前のその夜、私は所用で近所に住むカメラマンの家に出かけたのだが、運悪く彼は留守、出直すかと自宅に帰ってTVをオンすると、世界貿易センタービルの火災の映像がとびこんできた。まだ、テロリストの仕業とはわかっていない。
    しばらく見入っていたが、実感が伴わず、今となっては、その時間帯、なにを考えていたのか、よく覚えていない。

    その日から一年。
    9.11をきっかけに、音楽の持つ無限の力と可能性を信じて、街中を音楽であふれさせようと始まったプロジェクトがある。
    それが「セプテンバー・コンサート」。
    ニューヨークでは289グループ(述べ600名の音楽家)が参加し、街角や公園、図書館、教会、レストラン、カフェなど125会場で開催されたという。入場は無料、音楽家も無償で参加するというイベントで、音楽を通じて平和を願うという趣旨だ。
    今年、これに神戸の「KOBE HYOGO 2005 プロジェクト」が賛同し、さらに「ギャラリー島田」が呼応して、2ケ所で開かれた。
    新聞各紙も記事で紹介、私は「ギャラリー島田」に出かけ、贅沢なひとときを過ごす。

    出演者のリストは次のとおり。
    朴 元(チャンゴ)/中川博志(バンスリー)/矢的 匡(ギター)/梶田美奈子(ソプラノ)/季村敏夫(現代詩 朗読)/曽 朴(二胡)/李 浩麗(ボーカル)/木村美泉(パーカッッション)/ユミ・イトー(作曲家)/摩耶はるこ(ボーカル)/はくさん(ディジャリドゥ)/伊藤ルミ(ピアニスト)
    ジャンルを問わず集まった音楽家たちは、それぞれの持ち味をギャラリーで披露、数十人の聴衆から拍手喝采を受けたのだ。

    私がショックだったのは、911という文明史的にも大きな転換点となった数字を前に、動機と主旨がマスコミを通じて流されたにもかかわらず、集まる聴衆が少なかったことだ。いくら新聞を読まなくなったといっても、かかるイベントに100人もいないというのは、まさに神戸市民の余裕の無さなのか、それとも、著名じゃなければ行かないだけなのか、釈然としない。

    確かに、誰が出るかわからない、無料のコンサートなんて、じゃあ、大したことないだろうというのもわからないことはないが、趣旨が趣旨だけに、少なくとも時間があるのなら、ちょいと覗いてみようか、という市民が増えてこそ、芸術文化が成熟すると思うのだが、いかがだろう。

    幸い、音楽家たちは、お互いに刺激をうけあうという感じで、収穫だったようで、それが救いであるし、またその後の交流で、次への展開が大きく広がる可能性を秘めた夜となった。耳に福がやってきたのである。

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    ●号外 編集長 おすすめイベント

    『源流を 着る 舞う 奏でる』

    着物の古生地で作った夜会服を身に纏った、モダンダンスと男性ソプラノ歌手のコラボレーション
    (日本の着物文化の現代的な紹介をテーマに、レクチャー&パフォーマンス形式で開催する芸術性を重視したファッションショー)

    □出演;岡本知高(ソプラニスタ)大塚直哉(チェンバロ奏者)細川麻衣・橘 喬子(ファッションデザイナー)藤田佳代(洋舞家)伴野久美子(現代美術 家)
    □2003年9月20日(土) 昼の部 15時30分 夜の部 18時30分
    □ジーベックホール(神戸ポートアイランド 中埠頭駅) 078-303-5600
    □前売¥4500 当日¥5000
    □チケット ジーベックカフェ 078-303-5604 チケットぴあ 0570-02-9999
    □主催:パフォーマンスインミュージアム実行委員会 
    □企画:伴野久美子
     

  • no.4 2003/9/1
    ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
    目次◆1 
    尼崎の現在と未来を語る7時間シンポジウム
         寄稿者:出口俊一(兵庫県震災復興研究センター事務局長)

       2 
    市民参画 ― 神戸市案と私たちのオルタナティブ(代案)
         寄稿者:高田富三(市民版参画条例研究会 代表)
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    ●尼崎の現在と未来を語る7時間シンポジウム     出口俊一

    尼崎市の白井文市長と市民が、7時間にわたって、意見交換するシンポジウム「さあ始めよう あまがさき」が7月26日、市立労働福祉会館で開かれた。
    300人余の市民が参加、財政危機、人口減少、公害都市からの脱却など、人口46万人の尼崎市が抱える諸問題に、各界・各層の出席者の発言が繰り広げられ、市長も積極的に討論に加わった。

    このシンポジウムは、02年12月の白井市政誕生を契機に、今春発足した「尼崎市政懇談会」(塩崎賢明・神戸大学教授ら13人)が企画、呼びかけし、市民の有志が準備したもので、開催時間が7時間という長丁場であったこと、出演者が東京・国立市長の上原ひろ子さんをはじめ、研究者、企業経営者、音楽家、芸能人、そして市民ら、多彩な15人にものぼったこと、さらに出演者には謝礼なしのボランティア参加など、実にユニークな取り組みであったといえる。

    白井市長は、就任以来、「協働と参画」を基本に開かれた市政を進め、その具体化として、“face to face”での対話を心がけ、「車座集会」や「市長室オープントーク」などを実施してきた。その成果だろうか、このシンポジウムに参加した市民と市長の討論には、信頼関係が短時日にできつつあることが実感でき、また、市政のなかに淀んでいたものが次第に浄化されてきていることなどが感じられた。
    いわば、このシンポジウムは市民と市民が誕生させた白井市長とで、尼崎のまちを変えていけることを確信させる場にもなった、といえる。

    一方、白井市長にとって、このシンポジウムを通じてより明確になった課題は、現在尼崎市が抱えている危機的な財政状況を克服していく方策、道筋をどのように決断して、すすめていくのか、ということであった。つまり、前市政の負の遺産である「経営再建プログラム」問題を、どうしていくのか、ということである。
    パネリストとして参加していた保母武彦・島根大学教授は、経済・財政の視点から、この「経営再建プログラム」を通して、国や財界が尼崎を一つの実験場にし、日本のモデルにしていこうと考えていることなどを指摘し、あわせてこの「プログラム」全面見直しという打開の方向性を提言した。多くの参加者が、保母氏の発言に共感の拍手を送っていた。

    この「経営再建プログラム」については、現在一部見直しで推移してきているが、実質的にはじめての予算を編成していくこれからの時期、「経営再建プログラム」全面見直しを公約に掲げた白井市長の真価と市民の力量が問われていくことになるであろう。

    □プロフィール 
    1948年、尼崎市生まれ。関西大学法学部卒。72年〜90年まで、尼崎市の小学校に勤務、96年より兵庫県労働運動総合研究所事務局長を兼職、現在に至る。著書・共著に『教育運動の論理』『人権教育研究序説』『大震災と人間復興』など。

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    ●市民参画 ― 神戸市案と私たちのオルタナティブ(代案) 高田富三

    私たち、市民版参画条例研究会は、2001年の神戸市長選挙に於いて矢田立郎氏のいう「市民が主役」「市民参画条例策定」の公約に胡散臭さを感じ、市民側から矢田神戸市政に逆提案し、かつ、市民の立場となりうる市長を擁立、勝利した際にはただちに実行できうる「参画条例案」をつくろうと考え、01年12月に会を立ち上げました。

    神戸市(以下「市」という)が現在進めている「参画条例」について、神戸新聞(7月4日付)は「理念置き去り実務型」と評しました。
    矢田市長は「計画段階におけるパブリックコメントに関する条例で、市民に説明責任を果たす」「行政評価に関する条例で、行政評価に対する情報を公表することで説明責任を果たす」といっています(7月3日、本会議答弁)。

    市の多くの事業が破綻し、そのために3兆円規模の借金があることは、神戸市民の中にも認識され始めています。しかしどの分野で、いつから、どういう原因でうまくいかなくなったのかを知っている市民はどれだけいるでしょうか。例えば、「ワイン城」では300万本の不良在庫があるといわれています。なぜこんなことになってしまったのか、満足できる説明を市から聞かされたことはありません。また事前情報の開示も、地下鉄海岸線の需要予測と現実との乖離を見れば、十分にはなされませんでした。もし情報はすべて開示したというならば、需要予測した市は無能であるということになります。神戸空港建設においても、市民が投げかける疑問に市はいまだまともに答え(られ)ず、不動産売却等の資金計画を狂わせ、自転車操業を続けています。

    市には情報公開に関する条例はあります。しかしそれが機能していないのは、上述した事案をみれば明白です。今回、情報公開条例は改定しないとしています。
    では、条例の運用を変えるのでしょうか? 運用をどのように変えるかを明示せず、説明責任を果たすということはどういうことでしょうか? さらに市は今回の条例を、神戸空港建設問題を含む、既に事業開始している案件には適用しないとしています。なぜなのか、その説明責任から始めるべきでないでしょうか?

    私たちが考える「参画条例」とは、市が市民の疑問に誠意をもって答えることから始まります。「情報公開・情報共有」が市民参画の入り口です。
    ところで、市が主催したワークショップにおいても、多くの市民から「住民投票制度」の制定が望まれました。しかし市は「引き続き検討すべき課題」として、先送りしました。ワークショップで出た意見のうち、市長の都合の悪いことも参画の議題としないなら、最初から市民を入れなければ良かったのではないでしょうか。それに懲りたか、本条例の根幹部分は市庁内で検討することとなりました。
    市民を排除した「市民参画条例」づくりという点において、地方自治史上に名を残すこととなるでしょう。

    私たちは、「住民投票制度」は、「市民参画」を制度的に保障するものと位置づけています。なぜならば、それがあることにより、市長や議員・議会に緊張感をもたらし、市民に顔を向けた市政の実現の可能性が高まるからです。
    「情報公開・共有」と「住民投票制度」が「市民が主役」の神戸市政を作りだす両輪ということです。

    03年10月4日(土)午後1時30分より、兵庫県立のじぎく会館にて、政令指定都市ではじめて「常設型住民投票条例」を施行した広島市長・秋葉忠利さん、住民のために住民に依拠して当選した尼崎市長・白井文さんと高石市長・阪口伸六さんを迎え、「さあ、つくろう住民投票」と題し、3人の市長に「市民参画」に対する熱い思いを語ってもらおうと企画しました。
    他の先進都市の稔りある事例を吸収し、「理念」の確立した条例を一緒につくっていきませんか。

    □プロフィール
    1947年生まれ。京都大学法学部卒。三井物産(株)を経て、01年、企業経営者、主婦、大学研究者、弁護士、NPO・文化芸術関係者らと「市民版参画条例研究会」を設立し、代表を務める。神戸市灘区在住


  • no.3 2003/8/15
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    目次◆1 
    人の街
         寄稿者:永田 収(写真家)

       2 
    神戸はふるさとになりうるか? その4─魂が帰る場所
         寄稿者:大谷成章(ジャーナリスト)
     
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    ●人の街    永田 収 

    相変わらずカメラを担いで街を歩いている。
    だが、出かける回数はかなり減った。
    各地にまっさらな街が増えてきて、その分人々の生活の姿が見えにくくなったからだ。コンクリートに囲まれた街は個性をなくし、人の顔を見えにくくする。
    そして、そのなかで起こっていることは決して幸福なことばかりではないということ。新しい悲劇の誕生。

    最近は、地震後会った人々のことが記憶をよぎる。

    避難所から仮設住宅に移り、最後はポートアイランド(神戸市中央区)にある公共の高層住宅の一室に入ったK氏。9階の部屋だったか、重い鉄の扉の向こうで引きこもりがちになり、以前にも増して人を疑うことが多くなった。ついには転倒が原因で入院するはめになり、最後は身体の自由もきかなくなり、ベッドから動けなくなった。そして、転院をくりかえし、ついに行き先がつかめなくなった。
    大正8年生まれ、満州事変も体験しているがっちりとした男だった。戦場では、鉄砲の弾が腕を貫通し、最前線から下がり、そして幸運にも同郷の軍医と出会い、後方の病院に移って命拾いした、と話していた。
    灘区にあった、古い長屋の一室で、永年一人住まいを重ねていた。早くに妻を亡くし、子どももなく、ひっそりと静かな毎日を送る日々だった。

    そして、地震。
    すぐ近くの小学校に避難した。行ったのが遅く、十分な暖房もなく、冷えから前立腺を悪くした。それでも、当時は人の出入りが激しく、落ち込む暇もなく気も張っていた。校庭で独りラジオ体操をしていた彼を覚えている。
    高齢で独り者のためか、仮設住宅に入ること、復興住宅に移ることは比較的スムーズにいった。だが、それが、良かったのかどうか。
    人に対する猜疑心や生活態度は、住居が変わるたびに悪くなった。以前、彼の住んでいた街には知り合いの喫茶店もあり、立ち寄るところも多かった。何かが彼を確実に蝕んでいった。

    今、彼の住んでいた長屋の跡には、どこかの会社の事務所が建っている。すぐ近くにあった銭湯は廃業の憂き目にあい、取りつぶされた。
    街が変わるということは、歴史も変わり人も変わる。
    元通りの街にせよ、というのは無理なことは承知している。だが震災後、元の街に戻りたいという老人たちの声を何度も聞いた。それらはほとんど実現することなく、多くの高齢者は海岸線近くの集合住宅に移された。そこには馴染んだ市場があるわけでもなく、長年の近所づきあいがるわけでもなかった。ただ、清潔そうで、みかけだけは立派な建物が並んでいるだけ。そのなかで、地震の時の後遺症に悩む人も知っている。
    そろそろ気づかなければいけない。机の上で引いた線だけで人の街はつくれないということを。たとえ、できても計画通りにはいかないのが世の常だ。
    K氏より不幸な結末を迎えた人も決して少なくないだろう。そう思うと、建ち並ぶ住宅群が墓標にも見えてくる。

    □プロフィール
    1953年、岡山県生まれ。フリーカメラマン。写真専門学校卒業後、世界各国を転々とする。93年より、下町をとりあげるミニコミ誌『SANPO』を発行。以後、変貌する街をテーマに撮影を続行。大阪・神戸にて、写真展を開催。

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    ●神戸はふるさとになりうるか? その4─魂が帰る場所  大谷成章

    哲学者内山節さんは、30年ほど前から群馬県の山村、上野村に渓流釣りに通い、住み手のいなくなった家を譲り受け、野菜を育て、ネズミのチュー太と暮らしている。
    東京での暮らしと上野村との暮らしは半々だが、「私の魂は、たえず村に帰りたがっている。それに気づいたとき、私は上野村が私の村であり、私の里だと感じるようになった」(『里の在処』新潮社、2001年)という。

    内山さんは、少し前までは炭焼きやこんにゃく仲買や鍛冶屋や桶屋であり、自立した経済圏を構成していた上野村の家々の姿をえがいている。暮らしに必要なもの、つまり、使用価値を生み出すことによって、地域社会は自立し、循環していたのだ。
    内山さんが「上野村が私の村であり、私の里だ」と言うのは、豊かな森林、清流に恵まれた自然があるからだけではない。この村には、個の自律と協働によって自尊心にあふれる暮らしが(残照であるとはいえ)いまも輝いているからだ。貨幣によって価値を計る仕組み、交換価値追求の「近代化」に毒されず、必要なものは譲り合う暮らし方が息づいているからだ。

    大震災の直後から、私たちは「もうモノはいらない」とよく言った。倒れた洋服ダンス、食器棚から散乱したモノの山を前にして「いつのまに必要のないモノをこんなに溜め込んだのだろうか」と反省した。同時に、全世界から寄せられた緊急救援物資に感謝した。モノは有用性があってこそ価値がある、価格の高低ではなく、使用価値がモノの値打ちだ、とあらためて気づいた。
    「震災後は、だれもがやさしくなった。譲りあい、融通しあった」「助けあい、支えあう気持ちがみんなに生まれた」というのは、貨幣経済の虚構が(つかの間であったとはいえ)影をひそめ、モノと人との関係が有用性を軸にした関係に立ち戻ったからではなかっただろうか。

    その後、西須磨や東灘でうまれた地域通貨の試みは、内山節さんの「有用性が力を持つ社会、人間の営みが力を持つ社会を創造したい」(『貨幣の思想史』1997年、新潮選書)という願いと同じ願いであるだろう。「魂が帰る場所」は、貨幣経済の虚構を見抜いて、モノと人とが創造的な関係を結んでいる社会なのだと思う。

     空港建設を強引に進め、都市間競争に明け暮れる神戸は、私にとって「魂が帰る場所」ではない。

    □プロフィール
    1939年、兵庫県関宮村生まれ。東京教育大学卒。神戸新聞記者から百科事典・竹ざお・和紙行商、埋蔵文化財発掘作業員、月刊神戸っ子編集者などを経て、阪神・淡路大震災復興誌執筆担当。著書に、共同研究「KOBE発災害救援の思想」(近日、神戸新聞総合出版センターから発行予定)ほか。

  • no.2
    2003/8/1
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    目次◆1 
    「兵庫空想の森大学」を夢想する
  •      寄稿者:島田 誠(アートサポートセンター神戸)

       2 
    神戸はふるさとになりうるか? その3 現代遺跡をよすがに
         寄稿者:大谷成章(ジャーナリスト)
     
       付録:プレゼント パキスタンガンダーラ彫刻展&
                インドマトゥラー彫刻展(〜8/17) 
          鑑賞券を先着3組(6名様)にさしあげます。
          応募方法は巻末にて。提供:NHKきんきメディアプラン
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    「兵庫空想の森大学」を夢想する    島田 誠

    震災10年にむけて様々な検証がはじまろうとしている。震災を契機として人生が変わった多くの人がNGO/NPOの世界に足を踏み入れ、あるいは関わっている。文化領域だけの住人であった私も幅広い領域と関係をもつようになった。
    そして、それぞれが活発な活動や、議論や、交流を重ねているが、よく見ると、それぞれが重複していたり、内向きの議論に終始していたり、発言に止まっていたりして、開かれた討論になっていなかったりする。
    その意味ではメールマガジン「論々神戸」がオピニオンの広場となり、HPは神戸が抱える課題への具体的な議論を集積するウェブ・マガジンとして機能する
    ことを期待している。

    私の思いは、黄金の翼にのってさらに飛んでいく。
    NPO/NGOが独自の研究会や、講座や講演会、シンポジウムなどを行い、それを記録に纏めたりしている。そうして播かれた種が、木となり、林となり森となるように、お互いの活動を空想大学として、それぞれの独自性を確保しながら、連携し、多くの市民を巻き込んでいけないか。
    最初は「HYOGON」(ひょうごん:ひょうご市民活動協議会 参加36団体)の団体が学部を形成し、公開講座を開催しながら、それが一本の木となり、
    たとえばアートサポートセンター神戸が芸術学部として繋がって、だんだん林にしていけばいい。生徒は入学自由、卒業証書も、決められた校舎もない。

    私の夢想は、残念ながら挫折してしまった大分県湯布院の「空想の森美術館」、長野県で窪島誠一郎さんが仕掛けている「信濃浪漫大学」、そして「とりかえしのつかない状態のままでは、後世にこの世を渡せない」との思いから民俗学者、宮本常一さんが故郷、周防大島(山口県)に作った「郷土大学」、映画監督の大重潤一郎さんや神道研究家の鎌田東二さんが作った「東京自由大学」などへと、飛んでいく。
    そして、そうした先駆者たちに学びながら、神戸独自の開かれた新しい市民大学を夢見ているのである。

    □プロフィール
    1942年、神戸市生まれ。神戸大学経営学部卒。海文堂書店社長を経て、ギャラリー島田を経営。アートサポートセンター神戸代表。公益信託亀井純子基金事務局長。著書に『蝙蝠、赤信号を渡る─アート・エイド・神戸の現場から』など。

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    神戸はふるさとになりうるか? その3─現代遺跡をよすがに
     大谷成章

    防空壕に避難する順番を「よそ者はどんビリや」と後回しにされた但馬の村での少年時代だったが、それでも、私のふるさとは但馬にある。
    田舎にいても田畑を持っていなかったので、戦後の食糧難は都市居住者と同じ状況だった。「ベルトをきつく締めるとおなかがすいているのが忘れられる」と母が教えてくれた。
    県道のあぜにマメを植えたこともあった。校庭が耕されて畑になっていた時代だ。河原にサツマイモを植えたが、収穫前に台風がきて、大水で流された。小学校一年生のくやしさを、いまも思い浮かべることができる。

    私にとって、但馬の山や川は「うさぎ追いしかの山、こぶなつりしかの川」ではない。燃料確保に焚き木を拾った山であり、食糧確保にハヤやウナギを釣った川である。(アユは入漁料が払えないので密漁した)。暮らしを維持してくれたのが山や川であった。
    円山川や八木谷川の川岸を通ると、あのあたりに淵があり、ウナギの引っ掛け針を仕掛けたな、と思い出す。八幡神社の裏手で、栗の実をたたき落としていて見つかり、逃げ出したことも思い出す。

    大阪を中心に活動している現代遺跡探検隊というのがある。メンバーの馬込武志さん(前兵庫県家庭問題研究所主任研究員)に、こんな話を聞いた。
    馬込さんは、たとえば「JR姫路駅近くに残っているモノレールの橋脚は、高度経済成長時代の墓標。同時にふるさとの存在を教えてくれる現代遺跡だ」と言う。
    「人はそれを見ると、地上高く、空っぽで走っていた電車を思い起こし、かつて存在していた時代を引き寄せて、そのころの自分の姿を思い出すことがある」
    姫路モノレールは、100万人都市姫路を予測し、瀬戸内海から日本海までをつなぐ新交通として建設された。過大な需要予測を背景に「いまこれをつくらないと100年の悔いになる」と当時の市長は言っていた。そんな時代を思い起こすとき、人は少しは賢くなろうと努めるのだ、と言う。ふるさとの記憶の苦さが、逆に愛着を生む。

    近過去の現代遺跡は、少年にとって、ふるさとの原風景である。崖に掘られた防空壕跡や、モノレールの墓標は、少年のルーツを暗示し、主体性を問いつづける。

    入居率6割に満たない再建されたビジネス・ビル、放置された震災空地、建設途中でありながらすでに遺跡と言っていい神戸空港…。

    神戸の現代遺跡は、何を問いかけているだろうか。

    (編者注:その1、その2は『論々神戸』論々書架に保存)

    □プロフィール
    1939年、兵庫県関宮村生まれ。東京教育大学卒。神戸新聞記者から百科事典・竹ざお・和紙行商、埋蔵文化財発掘作業員、月刊神戸っ子編集者などを経て、阪神・淡路大震災復興誌執筆担当。著書に、共同研究「KOBE発災害救援の思想」(近日、神戸新聞総合出版センターから発行予定)ほか。

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    no.1
    2003/7/15
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    目次◆1 
    震災10年? だから何? 
         寄稿者:平戸潤也

       2 
    創刊にあたって -- 悩ましい市民社会
         編集長:渡邊 仁
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    ●「震災10年? だから何?」     平戸潤也

    とあるきっかけがあって、
    震災犠牲者の聞き語り調査のウェブサイトを久しぶりにのぞいた。
    http://www2u.biglobe.ne.jp/~shinsai/kikigatari/

    そしてなかば驚き(あきれ)、同時に感動もし、自分を恥じた。

    震災で6433人が亡くなったとされる。

    震災から10年を迎えようとする今、それにむけて「検証」の準備が実質的なものとして動きだし、個々が震災から8年の積み重ねを経た重みを持ちつつ再結集したその大きさに、久々に身震いをおぼえ、今度こそ主体的に関わりたいとも思った2003年の梅雨。

    震災があったからこそ結集があり、だからこそ上記は「再結集」である。
    原点にあるのは、6433人の死者それぞれが持つ個別のストーリーの積み重ねであり、その大量死の裏にある生をわれわれは生きている。

    その原点にたちかえった時、震災で犠牲になった人びと全て(の遺族)にプロの立場から聞き「語り」調査をする、というこのプロジェクトは、あまりにも大きな意味を持ち、どんなに風化しても消し去ることのできない記憶となりうるものだ。

    そしてその調査が、震災10年まで1年半となった今、「まだ」323名の調査しか終えていないのである。

    この数字の少なさに、ただ単純にまず驚いた。

    しかし、である。よくよくサイトを見ていくと、掲示板ではどこかの学校の生徒の宿題のような書き込みに対しても、室崎先生(神戸大学教授 都市安全研究センター)ご自身が真摯に丁寧で素晴らしい回答を書き込んでおり、この数字の少なさについて、被災地全体の運動としてこのプロジェクトを提起できなかった「誤り」に原因があるとして、おわびまでしている。

    この掲示板を読んで、やったらやり逃げで反省のないさまざまな運動を想起し、「市民社会」をつくるとされる人たちこそ、ここから学ぶべきことがあまりにも大きいということを再確認させられた。

    さらには、つい先日見学した「人と防災未来センター」2期のおそるべき陳腐な展示に驚愕したのみで、センターの資料室でこの聞き語り調査のうち遺族に公開の許可をいただいた資料が閲覧可能になっていることを知らずにいた自分を恥じた。

    余談になるが、2期で語られる命の大切さは、淡路の花博での「共生」を訴える展示を思い出すに、あまりにも情けないものであるが、一度は見てみるとよいと思う。
    これに使われた予算の莫大さと今後累積するであろう赤字に思いを寄せながら。

    そして、ついでに隣の美術館で安藤忠雄展(21日まで)を見よう。
    http://www.artm.pref.hyogo.jp/exhibition/t_0306/index.html
    個人的に彼の作品には必ずしも好感を持たないものも多いのだが、彼の震災当時のまちを描いたスケッチを見、と同時に、彼の阪神地域での息の長い建築のしごと、テロ後のニューヨークのコンペ作品などを見る体験は、さきの不愉快さを吹き飛ばすに充分である。

    さて、もう一度、聞き語り調査に戻ろう。そう、10年とかそんなものとは関係なく、これは続くのである。それを深く自覚したうえでの10年検証でなくては、それは「震災ユートピア」の恥の上塗りにしかならないのではないか、と自分に言い聞かせた。

    □プロフィール Hirato, junya
    1973年、東京生まれ、横浜育ち。震災後、ボランティアとして被災地へ。以後、
    複数のボランティアやNPO等にネット上で、また東京との往復もしつつ関わる。
    昨年、早稲田大学社会科学研究科博士課程退学後、尼崎市に移住。
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    ●創刊にあたって -- 悩ましい市民社会    渡邊 仁 

    ずーっと、つきまとっている課題がある。望むべき市民社会、である。

    1960年代半ば、市民運動というムーブメントが起こった。もちろん、アメリカからの輸入思想である。当時の左翼・新左翼にあきたらない、というか、こわすぎて近寄れない人々にとって、「ベトナムに平和を! 市民連合」など、市民運動は魅力的に映った。ムキになる生真面目さはあるものの、今風でいう軽やかなノリではあっただろうが、それは、あたかも、市民社会にじわじわと浸透していくかに見えた時期があった。

    ところが、それ以上に、日本社会はスピーディに高度消費化社会に変化した。
    コストがかかる冷戦の谷間をかいくぐって、コストのかからない分(主に軍事費)を。経済的繁栄にあてこんでいった。毎年毎年、物価もあがるが、給料もあがった。大衆消費がすすめば、欲望の対象物の物価は下がり、日本標準製造物(公共建造物など)は、あまねく全国津々浦々にいきわたっていった。生活が豊かになれば、現状を認めていくのは庶民感情で、保守合同以来、延々と自民党中心政権が続いてきた。

    阪神淡路大震災は、そんな豊かな社会で起こった都市災害だった。いくら被災民が個別事情を訴えようが、それは多くの市民のうちの少数であり、決定的な政策変更にまではいたらない。

    そんななか、震災ボランティアから、うねりが起きはじめる。NPO、NGOといった、公平原則の官でもなく、利益目標の民でもない、第3の領域をになう集団が生まれた。しかし、これもまた、名前からしてそうであるように、アメリカの思想であった。つまり、市民とか、市民社会とか、を考えるさいに、すでにアメリカン・デモクラシーに依拠することになってしまっている。ところが、いまだ実現していないので、「日本に真の民主主義は定着していない」「市民社会はまだ実現していない」という嘆きにつながる。

    では、前者の「真の民主主義」は定着するだろうか? 私は、日本社会では変質させて定着させるしかない、と思っている。民主主義を金科玉条のように崇めないことだ。よりましな政治制度にすぎないという、まっとうな評価を与えることだ。プロセスを大切に。あきらかにして、「まあ、ええやん」というおとしどころの見極めが大事だと思っている。
    なぜなら、民主主義とやらは、厳しい自己責任を課すからだ。その責任の重さに、みなが耐えられるか? 絶対神をもたない多くの日本人にとって、年間三万人もの自殺者が出ているという現実は、その拠るべき幻想すら描けないことをあらわしている。

    これは、多くの大衆が、議論を戦わし、その代議者が集合で政治集団をつくり、政策決定するというスタイルが実現することを意味していない。いわゆる、損得計算で「現状維持がよろしいでんな」と、この60年、日本社会は推移してきたということだ。これを、政策でもって対決するというふうに、持っていけるのか? 持っていけないのなら、やはり、戦略をたてずばなるまい。

    識字率が世界でも最高に近く、教育の平準化もまた最高水準のこの国の大衆は、無知でないにもかかわらず、無知を装ってきたのである。言い換えれば、無知とは、知らないのではなく、知りたくない、のである。この日本の多数を占めるサイレント・マジョリティ、「普通」の市民は、内実はどうあれ、はなはだしい失政がなければ、投票行動で現体制への消極的支持を表明する。ときには、政権交代にならない程度にお灸をすえる。

    高邁な思想、あるいは啓蒙的な立場をとってしまいがちな「市民社会」を実現させようとする勢力になじまない「普通」の市民は、たとえば、神戸であれば2001年復興記念パートナーシップ事業に参加したグループに散見されるし、これらの「市民」は、左翼、市民運動家、人権主義、マスコミ、官僚、中国といった対象には、近寄ろうとはしないのである。

    さて、そのような「市民」を相手に、市民社会推進をどのようにすすめていくのか? 
    カギは、どこにあるのか、そこをえぐらなければ、絵に書いた餅に終わり続けるのかもしれない。私は、その一つとして過去の歴史、伝統に学ぶことをあげる。決して、アメリカの思想にはない、と思う。権力が身近に存在しなかった(雲の上)時代の庶民の知恵に学ぶことはある。

  • no.0 2003/7/1
    ●神戸はふるさとになりうるか?─その1 人は記憶によって生きる
       大谷成章(ジャーナリスト)


     カメラマン米田定蔵・英男父子の写真集『都市の記憶‐神戸・あの震災』(エピック社、2001年)の編集を手伝ったことがある。
     若いころに赤穂から出てきた定蔵さんは、商業写真家としての仕事のかたわら、港に出入りする船や近代洋風建築を撮りつづけてきた。
     大震災発生直後から、カメラを手に市内を駆け巡った米田さんを動かしたものは、「記録しておこう、というのは名分で、私を支えてくれているこのまちの記憶を、たとえそれが残骸になっていても、とどめておきたい衝動であったのかもしれません」と語っている。
     私は、4000枚以上の写真を見ながら、写真集発行に寄せる米田さんの思いを、彼に代わって次のようにまとめた。

    「生きていくということは、思い出を重ねることではないでしょうか。角の駄菓子屋さんの前を通れば、子どものころの遊び友だちを思い出し、映画館の前に立てば、かつて見た映画の内容よりも、ぎこちなく一緒に並んで坐っていた人のことが淡く浮かび上がってきます。
     その駄菓子屋さんも、映画館も、あの日の朝、消えてしまいました。
     思い出の場所を失うことは、これまでの自分の歴史を失うことでもあります」
     
     米田さんにとって、ふるさとは、生まれ育った赤穂ではなく、カメラマンとして独立する苦闘の日々が刻み込まれた神戸の街角にあったのだった。

     あの日から八年過ぎ、変形した異形なまちは、硬質な異様なまちにT復興Uした。
    「新しいまちの肌触りに慣れるには、私は少し歳を取りすぎているようです。いまの神戸の風光は、私にはまぶしすぎるようです」
     ふるさとは消滅したのだ。米田さんのふるさとは記憶の中にしか存在していない。

     哲学者内山節さんは「私たちは、魂が帰りたがっている場所を欲しているのではないだろうか」(『里の在処』新潮社2001年)と問いかけている。
     復興神戸は、果たしてふるさとになりうるだろうか?

    (この機会に訂正しておきます。写真集『都市の記憶‐神戸・あの震災』44ページのキャプション「5階は都市計画局」は「6階下水道局」です)

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    ●その2 ふるさとの原風景が問うものは?

    「ぼくは兵庫県津名郡五色町出身ということになっている。なっているという曖昧な言い方をするのは、普通の人の故郷意識とはいくらか違うところがあるので、そのように退いた話し方をするのである」
     深田公之さんは「出身地ではあるけれど故郷ではないと、ずっと思っている」と日経新聞の「私の履歴書」(2003年5月)に書いている。
     生まれ故郷=田舎=ふるさと、というのが、列島改造で都市化が進むまで、ふるさとを成立させていた図式だが、深田さんは、自分の場合は「いくらか違う」という。
     生まれた鮎原村(現五色町)は、警察官であった父の、たまたまの勤務地であったに過ぎず、「だから、仮にそこで生まれても、先祖代々根づいた人とたちの故郷意識とは同列に置けないという気持ちが、ずっと子どもの時からぼくの側にあった」と、あえてよそ者意識に閉じこもっていたと言う。

    「望郷意識がまるでないので、北の宿にいようが、津軽海峡を臨もうが、常に通りすがりの人の立場」で作詞し、その歌に登場するのは「住んでいる人でも、戻って来た人でもない、明日はよそへ行く人ばかりである」と自分の作品を分析している。
     深田公之さんは、阪神・淡路大震災の後、神戸市や五色町に多額の見舞金を「阿久悠」の名前で贈っている。
    「阿久悠」はふるさとを拒否してきたけれど、「瀬戸内少年野球団」の原風景を生きてきた深田公之少年の記憶は消えていない。大震災で、淡路島で過ごした日々は、よりいとおしくなったのかもしれない。魂が帰りがたがっている場所なのだろう。

     但馬で生まれた私も、父母の仕事の都合で山あいの村を転々とした。
     深田公之少年より2年遅れの生まれだが、どの村に住んでもよそ者であった。空襲警報が鳴ると(但馬の村でも、軍需工場に転用されていた国民学校がねらわれた)、焼夷弾の火をたたき消す竹ぼうきを手に、隣保こぞって山のがけに掘った防空壕に駆け込むのだが、「あんたらは一番後からやで」と言われていた。
     土地に根付いていないものは、山の穴から、あるいは土地の神から保護される順位は下位であることを知らされた。

     そんな苦い思いを体験した場所であり、かつて住んでいた家もなくなっているが、私にとってのふるさとは但馬であるようだ。なぜ、少年期の2倍以上の歳月を送っている神戸ではないのか。
     神戸は、魂が帰ることを望んでいない場所なのだろうか。

    ●著者プロフィール Ohtani, sigeaki
    1933年、兵庫県関宮村生まれ。神戸新聞記者から百科事典・竹ざお・和紙行商、埋蔵文化財発掘作業員、月刊神戸っ子編集者などを経て、阪神・淡路大震災復興誌執筆担当。近著に、共同研究『KOBE発 災害救援の思想』(神戸新聞総合出版センター)を予定。

  • no. 00 2003/4/8
    ●「ベートーヴェンと私」     島田 誠(ギャラリー島田主宰) 

     ぼくの尊敬するベートーヴェンの生地ボンは当時でも階級に囚われることの比較的少ない開明的な中世の古都で、彼が学んだボン大学は「啓蒙思想の中心地」として知られていた。その時代は、ナポレオンのフランス革命に象徴される「革命と反動の時代」であった。
     交響曲第3番「英雄」がナポレオンに献呈されようとし、「皇帝」就任によって破棄されたエピソードが物語るように彼は啓蒙的ヒューマニストとして貴族社会から市民社会への転換を身をもって体験した。
     その理念はフリーメーソン的人間愛である自由と平等への信奉を高らかに歌い上げたシラーの詩による第九交響曲「合唱」として結実する。私はこの曲を10回を下らずにステージで歌っているけど、これは合唱というよりは「魂の叫び」であり、生理的にも歌うよりは叫ぶ、祈るという構造になっていて、その間、オーケストラが圧倒的な昂揚と浄化をもたらす。ベートーベンによって「芸術家」は慰みを与える職人ではなくて人生の探求者となった。
     第9が初演されてから今日までの178年間に数限りない人々がこの曲に励まされ、心を動かされてきた。芸術の偉大な力である。
     21世紀を生きるぼくの社会との関りは19世紀幕開けを生きたベートーヴェンの理想主義的信条を一歩も出ていないように思う。
     それは20世紀の幕開けを生きた宮沢賢治が「銀河鉄道の夜」のジョバンニに言わせている「みんなのほんとうのさいはひをさがしに行く」という言葉にも重なる。
     一方、私の愛してやまないモーツアルトは宮廷音楽家としてスタートしながら、あらゆる意味で自由人としてふるまった。べートーヴェンに比して遥かに享楽的であったアマデウス。かれも神秘的結社フリーメーソンの一員となり「魔笛」で信条告白をした。
     しかしその類希な人間洞察の果てにたどりついた人間不信、虚無の世界は怖いほどである。そして、かれは限りなく美しく、深い哀しみを湛えた音楽を人類の遺産として残した。(まち研は現代のフリーメーソンなのか?)
     私達が誇る偉大な画家、鴨居玲も、「私の絵と出合って人生が変わる様な絵を描きたい」と身を削り、その人生の深淵を覗き込んで自死した。
     今、私の心はしばしばモーツアルトに重なり、鴨居玲を追う。

  • no.000 2001/10
    ●「阪神・淡路大震災をどう伝えるか」     歴史資料ネットワーク 

     阪神・淡路大震災をどう伝えるか。この大きな課題について、歴史学会のボランテ ィア団体である歴史資料ネットワーク(略称 史料ネット)は、「震災・まちのアー カイブ」などの市民団体や行政機関とも連携しながら、記録化・資料保存の面から取 り組みを進めてきた。その一環として、2000年10月15日と2001年7月8日 の二回にわたって「阪神・淡路大震災をどう伝えるか」と題するシンポジウムを開催した。いずれにおいても、兵庫県が神戸市東部新都心に建設中の仮称「阪神・淡路大 震災メモリアルセンター」が話題の中心となり、計画の経緯や内容が、本当に震災の メモリアルとしてふさわしいものなのかどうかについて、さまざまな議論がかわされ た。ここでは第二回目の内容を紹介する。

     このシンポにおいてもさまざまに指摘されているように、史料ネットとしては、メ モリアルセンターの現プランにはいくつかの深刻な問題点が含まれているのではない か、という危惧を持っている。具体的には、被災者をはじめ市民が主体となってプラ ンを作っていくべき施設が、行政主導で短期間に決定されてしまうという経緯の問題 点、多種類の機能がきちんとした検討なしに、一施設に押し込められてしまったこと による機能・面積・人員体制面での疑問、検討に参加している関係者の間ですら、施 設の具体像に対する共通理解が不十分なままプランが進行している点、などがあげら れる。
     さらには、被災地の無数の市民の善意のもと、阪神・淡路大震災記念協会に寄せら れた膨大な震災資料が、センターにおいてきちんと保存活用され得る体制が整えられ るのかどうか、本格的な博物館施設として学芸員を置くのではなく、展示の中心部分 を業者委託により作成して定期的な入れ替え等は予定しないというのはどうなのか、 何より巨大なビル内に被災状況をバーチャルに再現したり、人工的ないやし空間を作 って展示するというのが、本当に市民の望む震災のメモリアルの姿なのかどうかな ど、多くの点で疑問を感じざるを得ない。
     このシンポジウムの記録を通して、多くの市民の皆さんが、メモリアルセンターの 問題をはじめ「震災をどう伝えるか」というテーマについて、関心を持ち議論してい ただければと考えている。

     冒頭、主催者の代表幹事・奥村弘氏(神戸大学文学部助教授)が、シンポジウムの 趣旨を説明した。
     史料ネットは、震災をどう記録し伝えていくかという課題について、震災資料の調 査収集を行なう阪神・淡路大震災記念協会や、本シンポの後援団体であり市民の立場 から同じ課題に取り組む「震災・まちのアーカイブ」などと協力しながら、意見交換 や実践的取り組みを続けてきた。日本社会においては、大規模災害の経験を次世代に 伝えるということが、従来必ずしも組織的積極的には取り組まれておらず、未経験・ 未蓄積ゆえの大きな困難がある。それを乗り越えていくため、行政や市民、研究者が 互いに意見を出し合い協力しながら進めていこうというのが、この企画の趣旨であ る。
     これに続いて、芝村篤樹氏の司会のもと、各パネリストからのコメントと、県メモ リアルセンター整備室の高見氏による県のプランの概要紹介が行なわれた。

    ●展示・交流検討委員の立場から−室崎益輝
     最初の報告者である室崎益輝氏は、メモリアルセンターの展示・交流検討委員のひ とりとして、現計画に責任を負う立場で自分の思いを述べさせていただくと断ったう えで、次のように述べた。
     このメモリアルセンターの特質は三点ある。まず第一に、震災の経験を後世や世界 に発信・継承していく施設である。第二に、広域防災機構研究施設、ヒューマンケア センター、震災資料の展示・公開施設という、融合的、ネットワーク型施設である。 この三つを結果的に一つにしたことが、センターへのさまざまな批判の根元にある が、別々のテーマや機能があるからそれぞれ箱モノを造るというのではなくて、複合 的・融合的に造っていくことでプラスの方向に向けていくことが重要である。それぞ れの機能をしっかりと位置付け、同時に他の研究機関や、被災地における体験継承の さまざまな取り組みと連携・協力していくという、ネットワーク的な部分を構築して いく必要がある。第三に、非完結型・継続型の施設であること。展示内容やメッセー ジが時代とともに変わり、100年後、200年後にもいきいきと、閑古鳥がなくことのな い施設にしていく必要がある。
     次にセンターがどうあるべきかと言うと、まず第一に、事実を事実として淡々と伝 え、同時に何が重要かというテーマもはっきり伝えること。そのテーマは、防災面で の安全・安心、ヒューマンケアにつながる人道救援、震災被害の根元である地球環境 問題ととらえている。しかし発信する内容は、非完結型という性格に沿って、時間を かけて合意を作っていけばよい。第二に、展示や発信の内容作りのプロセスを重視す る。そのため研究者や学芸員がしっかりと仕事できる体制づくり、ボランティアや語 り部がセンターを支えていける運営方式、マンパワーのフローの部分が重要である。 第三に、センターという箱やスタッフがいくら立派でも、市民のなかに体験の継承や 人道救援、環境共生をテーマとした幅広い文化が育たないと、センターの理念は成り 立っていかない。こういった文化が、被災地に燎原の火のごとく広がっていくことが 大切であろう。
     最後に、今後取り組んでいくべき方向性としては、非完結型のセンターに対して広 く被災者が思いやアイデアをぶつけていって、センターを被災者自身のものとしてい くことである。そのうえでは、かつてないほど無数の震災資料がセンターや各所に保 存され活用し得ること、被災地においてNPOやボランティアセンターといった市民運 動が育ってきていること、何はともあれメモリアルセンターという入れ物ができたこ となどが、有利な条件となり得る。被災地のなかにさまざまな形で震災を伝える施設 が造られ、取り組みがなされるなかにメモリアルセンターが位置づけられる、そうい ったネットワークを創りあげ、財産としていくことが重要である。

    ●建築面からの批判−笠原一人
     笠原一人氏は、建築の専門家の立場から、室崎氏の発言にも言及しつつ、メモリア ルセンターのプランに対する厳しい批判を展開した。笠原氏は、すでに第一期が着工しているなか、建築プランを批判しても意味がないかもしれないが、現在のプランは 敷地の選定や設計など、プラン立案の経緯・手続き全般にわたって、震災をどう伝え るかという本来のテーマや問題意識が考慮されていない。第二期に到ってはほとんど テーマパークであり、命をテーマパーク化してもしてもしょうがない、そんなものは いらないと前置きしたうえで、以下のとおり批判を展開した。
     まず、設計者選定において指名プロポーザル方式をとったこと。これは既存業績を もとに設計者を選定するという、時間がない場合にとられる方式であるが、選定過程がオープンにならず、選定理由や設計コンセプトが不明となるという問題点がある。 オープンな形で市民を巻き込みながらコンペを実施した、仙台市による情報メディア 施設の事例もある。メモリアルセンターの場合もこの方式をとれば、「震災をどう伝 えていくか」という基本的性格が、デザイン面も含めて施設にどう活かされているか を、皆で議論しながらプランを作っていくことができた。コンペの時間がなかったと いうが、それは国からの補助金に飛びついて安易に短期間で建てようとするからであ って、補助金に頼らず時間をかけるやり方もあったはず。結果としてビジョンがない 計画になっており、その点は敷地選定にもあらわれている。工場・港湾施設跡の再開 発地にメモリアルセンターを設置するのは、防災センターとしては良いのかもしれな いが、震災を考え伝えていく施設の場所としてふさわしいのかどうか。生活者にとっ ての被災の現場から遠く離れており、震災の現実から乖離してしまっている。つまり そこには、震災と人との関わりというものが具体的にデザインされておらず、メッセ ージがない。
     では、具体的にはどうあるべきなのかという点について笠原氏は、震災資料の保存公開、展示施設を被災地各地に分散化する、それによって資料と場所、記憶と場所の不可分性を確認していくとして、分散型資料館の考え方を提唱した。そして、分散連携型の展示企画や、個人による被災住居建築の補修保存の事例も紹介しながら、「震災と人との関わり」のデザインのあり方について論じた。

    ●被災体験から−菅祥明
     次に三人目のパネリストである菅祥明氏がコメントした。菅氏は東灘区で被災し、 以来歴史を勉強しながら体験の意味を考え続けてきた。自宅があった土地には現在別 の家が建ち他人が生活しており、その前を通ると、その景色のなかに自分がいない、 参加できないという不思議な感覚、違和感を覚える。そして、震災か四年、五年とた って気づいたのは、自分にとって家を失うことの意味とは、その場における人間関係 や思い出といったさまざまな関係を失うこと、言い換えれば自身の歴史を失うこと だ、ということである。
     もう少し視点を広げれば、自身とまちの関係の喪失体験ということになる。まちと いうのは、共同体であったり人と人とのつながりであったり、目に見える町並みであ ったりする。そして、人間だけでなくまちにとっても、震災が大きな断絶であり空白 ととらえられがちだが、そうであってはいけないのではないか。時間をさかのぼれ ば、阪神間にはさまざまな災害や戦争もあって、その悲惨な体験・記憶を背負ってい るとしても、まちが持つ歴史的な一貫性が保たれることによって、まちというものが 構成されると考える。つまり、いたずらに震災の記憶を閉め出し、忘れ、あるいはよ く言われるように乗り越えようとはせずに、どれだけ時間がかかろうともその体験の 意味をとらえ直していくことが、重要なのではないか。
     震災・まちのアーカイブにおける取り組みから言えることは、資料の収集整理、保 存公開というのは地道な労力を要する作業であるということ。そして、さまざまな震 災資料、避難所や仮設住宅で配られたチラシや避難者名簿から、震災に関する学術論 文や芸術作品まで多様な資料が伝える内容というのは、時間の経過や利用する人によ ってさまざまに異なってくる。それはつまり、多くの人が資料にふれる機会が増えれ ば増えるほど、その多様な可能性が広がっていくということである。そのためには、 確実な保存公開の仕組みを確立することが大前提で、この仕組みづくりにきちんと専 門家をまじえていく必要があるということを、強調しておきたい。
     資料が何を伝えていくかというと、それは震災の実像であり、復旧復興の過程であ り、時がたてば地震のあった九〇年代の社会、あるいは現代日本そのものでさへある だろう。それに関連して、ノンフィクションライター柳田邦夫氏が『「犠牲(サクリ ファイス)」への手紙』(文芸春秋社、一九九八年)のなかで、グリーフ・ワークと いう作業を紹介している。これは過酷な体験の後、その悲しみをいかに受け入れ、乗 り越え、癒していくかという作業であり、悲しみを忘れるのではなく対象喪失の意味 を考え、自分の人生の文脈のなかへの位置付けを探り続ける作業である。まちの場合 も同様で、まちにとって震災による対象喪失の意味を考え、まちの歴史の文脈のなか への位置付けを探り続けることが重要だ。その作業において、重要な足がかりとなる のが資料である。そういう意味で、資料は被災した人間とまちを結びつけるものであ るとも考えられる。願わくばメモリアルセンターが、そのようなことを可能にしてく れる空間となることを祈るとして、菅氏はコメントを締めくくった。

    ●博物館機能の視点から−山辺昌彦
     次に山辺昌彦氏は、メモリアルセンターのような現代的な事象を扱うテーマ性の強 い博物館のあり方について、いくつかの平和博物館の事例と経験などを紹介しなが ら、問題提起を行なった。山辺氏は、この種の施設の多くは記念館、資料館などの名 称であり、かならずしも博物館を名乗っていないが、実態は展示主体で、そのための 現物資料の収集・保存機能を持っている。こういった施設は、博物館としての諸機能 をきちんと整備していくことが重要である。震災博物館というのはほとんど例がな く、実現している事例を見ても、関東大震災を対象とする東京都復興記念館などは単 に物とパネルが置いてあるだけという感じで、本当に悲惨な状態になっている。
     では、どのような機能を整備していく必要があるかと言うと、テーマ性の強い博物 館施設は概して事業に占める展示機能の比重が大きく、それも見る人を惹きつける展 示ということで、模型や映像を多用する傾向がある。しかし、そういう場合も模型製 作の基礎となるきちんとした調査が必要で、裏付けとなる調査機能や資料の収集整理 ・保存活用機能が重要だ。これらが他の分野の博物館に比して、どうしても弱くなる ので、調査研究機能を充実し成果を企画展・特別展に反映させていくこと、論文や報 告書にまとめていくこと、資料を整理・目録化し、市民が閲覧利用できるような機能 を整えていくこと、講演会や講座などの普及教育活動も行なっていくなど、諸機能の 充実が必要である。市民が学習し、市民に展示の場を提供するなど、市民に開かれた 博物館であることも望ましい。展示の関連で言えば、現物資料に即して聞き取り調査 も行い、それが展示に反映されることが、テーマ性の強い博物館の場合は特に重要で あろう。
     博物館としての諸機能を実現するうえで鍵となるのは、研究員、学芸員、アーキビ スト(文書館専門職)といった専門職員の配置である。展示、資料整理、レファレン スなど、業務経験のなかで専門的知識を蓄積していく体制が必要で、逆に行政職で短 期間で交替する場合は、どうしても業務遂行面で限界がある。最後に、平和博物館の 場合は博物館同士の国内外の連携や、市民も含めたネットワークのようなものも実現 していて、こういったことも大切であろう。

    ●県のメモリアルセンタープランについて
     次に、兵庫県メモリアルセンター整備室の高見氏から、メモリアルセンターのプラ ンの概略について、次のような説明があった。
     メモリアルセンターは、震災の経験と教訓の世界の共有財産としての継承、国内外 の災害被害軽減への貢献を目的としている。平成十一年十二月に補正予算で国の補助 金がつくことになり、急きょ実現した。震災時の状況を知る県の幹部職員もどんどん 退職するなか、できるだけ早期に造ったほうがよいと考えた。笠原さんからは、もっ と時間をかけるべきとして、プロポーザル方式に対する批判もあったが、選ばれた設 計会社の社長自身被災者であり、被災者の思いを世界に発信していく意味合いが設計 にもこめられている。
     施設には、展示、資料室、震災の調査研究、人材育成、広域支援、ネットワーク機 能などを予定している。研究員が資料を使って各種研究を行ない、成果を実際の震災 対策に活かしていく。博物館施設の位置付けではないが、研究成果が展示に反映され る仕組みも考えたい。行政主導で立ち上げたが、その後委員会を設けて学識経験者か ら意見をいただき、公開意見募集やフォーラムを通じて広く市民の意見もいただいて おり、決して行政だけで決めた計画ではない。今後も多様な意見をいただく機会を増 やしていきたいと考えているので、ご理解を願いたい。研究員はせいぜい十人ぐらい で、広く市民の皆さんに支えていただかないと、多種多様な震災の情報や体験は伝わ らないので、その仕組みも作っていきたい。一期の施設には被災時や復興過程、最新 の震災研究成果を展示し、資料室、収蔵庫なども予定している。場合によっては、被 災者やNPOに展示の一部を考えていただくことも検討したい。一期と渡り廊下でつな がる二期施設は、震災の経験をもとに命の尊さ、ともに生きることのすばらしさを展 示する。賛否両論あるが、決して無駄な施設ではなくテーマパークでもないと考えて いるので、この点もご理解願いたい。

    ●ディスカッション
     以上の発言ののち、休憩をはさんで会場もまじえた意見交換が行なわれた。議論さ れたおもな論点は、?メモリアルセンターの設計プランには被災者の思いを世界に発 信する意味がこめられているという説明に対する、笠原氏からの反論、?震災資料の 活用方策の是非、?メモリアルセンターの利用、市民との関係の三点であった。
     ?については笠原氏が、建築面での自分の批判は、コンペかプロポーザルか、どう いうコンセプトで施設を造っていくかというプロセスをオープンにしてやっていく必 要があるのではないかという、手法・進め方を問題にしているのであって、デザイン を問題にしているのではない、勘違いしてもらっては困ると、厳しく反論した。
     ?については、芝村氏が、五年にわたって資料収集が取り組まれ、ことにこの二年 間は雇用促進事業として七億円近い費用が投じられて、約七万点の資料が集まった。 この一次資料や刊行物からなる膨大な資料群は、世界的に見ても大変珍しいコレクシ ョンであり、膨大な労力と予算をつぎこみ、しかも提供者一人一人の思いがこめられ ている。これをいかに活かしていくかが、メモリアルセンターの事業全体の土台であ り非常に重要であると述べた。
     芝村氏の問題提起に対して、会場からは、県や関係者の話を聞いても収集された膨 大な震災資料がどう扱われるのかまったくわからない、提供者からもお蔵入りになる のではないかという危惧の声を聞いている、図面を見ても膨大な資料を全部閲覧に出 せる収蔵スペースがないのではないか、という意見が出された。また、資料はそれぞ れの現場あるいはそれに近いところで保存され、それぞれに即して活用され検証され るという意味では、笠原氏の提起する分散型のほうがよいのではないかという意見も あった。
     これに対して室崎氏は、七万点の資料をすべて展示するスペースはない、これを解 決するには分散型や第三期工事、それに向けて市民の基金拠出などの方法もあるが、 一方で展示だけが体験を伝えることなのかどうか。防災研究や人材育成も体験の継承 であり、結局限られた空間と予算のなかで展示や研究などの諸機能をどう優先し配置 するかという議論が十分されていないことがネックだ。自分としては、現物すべての 展示でなく、テーマ・内容ごとに網羅的に資料をデジタル化して、それを自由に引き 出せる情報コンテナ、情報ワゴンを充実させて、年々増やしていこうと思っている、 と述べた。
     これについて芝村氏は、震災記念協会の研究会委員である自分はセンターの中心機 能を資料の閲覧公開だと考えており、県の展示・交流検討委員である室崎氏とこれだ け意見やイメージが違うということに、センタープラン検討におけるディスコミュニ ケーションが象徴的にあらわれていると前置きしたうえで、次のように述べた。
     まず、資料活用の基本は閲覧であって、展示ではないと考えている。自分が聞いて いるところでは第一期施設内に収集資料・刊行物が収まるが、収集が継続すれば何年 もつかはわからない。資料をきちんと保存し、専門家のみならず市民の利用に供して 提供者の思いを無にしないためには、資料の価値を明らかにし利用に供する専門職の 配置が不可欠である。公開・非公開の基準づくりひとつをとっても、前例がなく一か ら検討していかねばならず、ソフト面を保証する体制の整備が鍵となる。また資料保 存の分散化については、メモリアルに集められた約7万点が震災資料のすべてではな く、すでに現状も分散型であり、それゆえネットワーク化がメモリアルセンターの重 要な役割であろう、だからと言ってメモリアルセンターの一次資料収集はもう必要な いということではない、と指摘した。
     ?について会場からは、県は年間七、八〇万人の来館者を見込むというが、初物食 いの日本人だから最初はそうでもすぐ閑古鳥が鳴くのではないか、被災者は当時を思 い出したくないしそんな展示を見に行かない、という指摘があった。また、経験を語 り伝えていくうえでは、それを伝える場所が重要だが、現在神戸市には震災の雰囲気 を残した場所があまり残っていない、メモリアルセンターがそういう場所のひとつに なることを望む、という意見もあった。
     一方、室崎氏は、体験を伝えようという市民運動的なものが大きく広がり、それが センターにどう反映されていくかということが、閑古鳥が鳴かずにセンターが機能し ていく鍵である、と指摘した。
     次に、センターと市民の双方向性の問題について、参加者から次のような指摘があ った。メモリアルセンターが伝える、発信していくというが、市民はそれを受け身で 受け取る存在にすぎないのか。市民が主体的に考える場を、センターが提供していく という姿勢こそが基本なのではないか。県や関係者は、センターや研究者と市民との 連携についてどう考えているのか。メモリアルセンターがいくら資料を集めて公開 し、展示しても、震災のすべてを表現し伝えられるものではない。だからこそ分散型 資料保存も重要だし、さまざまな場で資料を活用する市民の取り組みに対して、セン ターやその研究者はどう連携し、どう柔軟性をもってセンターを発展させていくの か。そういうビジョンが今日の議論ではまったく見えてこない。
     これについて菅氏は、考える場は別にメモリアルセンターにこだわる必要もない し、集まる場所と時間が欲しいというときにセンターがオープンな姿勢で市民に対し て開かれていてくれればよいと、センターに対してなかば突き放しているかのような 印象の意見を述べた。一方、室崎氏は、この点は自分たちが一番真剣に考えてきたと ころで、来館者に一方的に展示を見せるのではなく、希望者はボランティアや専門家 と議論しながら展示を見ることができるとか、講演会や子供達の作文展といった市民 が考える場となるイベントを実施し、犠牲者遺族からの聞き取り記録も保存し情報が 引き出せるようしたい。単に資料が飾ってあるのではなくて、専門家に質問できるよ うな仕組みを作り、展示は時代とともにテーマ・内容を変えていく。来館者がスタッ フとコミュニケーションし、考えることができる場が重要だ。そのためにもスタッフ が常駐し、さらにボランティアが見学者をサポートするようにしていくことだ、と述 べた。
     室崎氏の言う仕組みが本当に実現するのであれば、指摘されたセンターと市民の双 方向性という課題も、克服されるであろう。しかし現実問題として、現プランの延長 線上にそういった理想的な姿が実現するのかどうか、これまでの経緯や検討の流れか ら見て、本当にセンターが、そういった市民社会との関係において自らを相対化する 視点を持った施設となっていくのかどうか、大いに疑問である。この根本的な疑問に 対して、室崎氏の言うような理想的な希望という形でしか答えられないところに、こ のメモリアルセンターのかかえる問題の深刻さが、浮き彫りになったと言えるであろ う。
     ディスカッションのなかでは、このほか慰霊モニュメントの問題や、センターの施 設名称の問題なども指摘されたが、紙幅の限りもあるので省略する。

    ●シンポジウムのまとめ
     以上の議論を受けて、奥村弘氏がまとめの意見を述べた。奥村氏は、室崎氏と芝村 氏のコンセプトに対するイメージが違うというところに実情が象徴されているが、な ぜこうなったのかと言うと、通常博物館的施設を造る場合、何年も前から実際の運営 を担う学芸員や研究員がコンセプトを考え、市民とも意見を交わしながら練り上げて いくという手順を踏む。今回はそれがなく、誰が全体に責任を持って考えるのかはっ きりしないという、通常あり得ないような事態となっている。今日もさまざまな意見 が出されたが、こういった意見をどう受け止めて責任をもって事業を遂行していくの かという仕組みや体制がないと、この事業は絶対に続かない。このまま開館を迎えれ ば、大変なことになるのではないかと危惧を述べた。
     最後に司会の芝村氏が、本日の議論を通して多くの論点が出された、震災体験を伝 えるということ自体が新たな経験であり、われわれも既成概念にとらわれず柔軟に考 えていく必要があるだろう。行政も、従来のやり方とかペース、手法といったことに とらわれず柔軟に、市民的な関与や批判も受け止めながらセンターを造り運営してい って欲しいと述べて、締めくくった。

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    〔第2回シンポジウムの概要〕
    日時 2001年7月8日(日)午後1時30分〜4時30分
    場所 神戸市長田区 ピプレホール会議室A
    主催 歴史資料ネットワーク 後援 震災・まちのアーカイブ 参加者約70人
    司会 芝村篤樹氏(しばむらあつき、桃山学院大学経済学部教授)
    パネリスト 室崎益輝氏(むろさきよしてる、神戸大学都市安全研究センター教 授)、笠原一人(かさはらかずと、京都工芸繊維大学造形工学科助手)、菅祥明(す がよしあき、震災・まちのアーカイブ)、山辺昌彦(やまべまさひこ、立命館大学平和ミュージアム学芸員)