編集の窓からニッポンを診る Nippon, what's?

ここでは、編集長はじめスタッフなどの主張を掲載します。神戸からの発信ですが、主張の届く先は、現代ニッポンであります。切れ味が鈍いか否か、とくとご覧くださりませ。
*なお、編集長エッセイのなかでテーマが設定されているものは、2003年度から編集長が聴講している神戸女学院大学大学院総合文化学科「現代日本文化論」(03)、「アメリカン・スタディーズ」(04)、「チャイナ・スタディーズ」(05)、「現代日本文化再論」(06)、「教育(前期)+家族(後期)」(07)=指導教授:内田 樹=での課題です。


■2005/12/23 論々神戸第51号 前文 渡邊 仁

 Happy Xmas!
 The war is over, if you want.@John Lennon

 遅ればせながら、今年も最後の通信を送る時期になりました。 
 市長選挙に関わりあった方々は読者に多いと思われますが、私なりの考えを述べて、今年最後の通信を送ります。これも単なる一つの市民の意見でしかありません。それぞれのお立場で、次のステップへ進まれることを望んでいます。
 さてヨーロッパに端を発した市民社会は、戦後60年の日本において違うかたちに変貌し、よい部分を実現させようとしてパブリックを考える市民勢力と単なるミーイズムに依って立つ漠然とした消費者型市民勢力に分岐してきたように思われます。ようやくわかってきたように見えますが、決してアメリカ型市民社会を範にしてはいけません。グローバル・スタンダードを否応なく押し付けるアメリカはどう考えてみても特殊な国なのです。
 一方、日本にも「世間」というのらりくらりとした規範がまだ存在していると私は思っています。これが揺らいでいるからこそ、諸問題が噴出してくるようになりました。「世間」が死ねば、ある意味、良質な「日本」も死にます。そこにあるのは、日本という名を名乗ってはいても、もはや換骨奪胎された「日本」でしかないでしょう。

■2005/12/10 『神戸からのメッセージ』2006年3月号/5月号 掲載 渡邊 仁

 来し方の過半を神戸で過ごしたことになる。
 二十五年という時間を歩きながら思い出していた。
 〇五年の十二月の夕暮れ前の遅い午後のことである。
 北野という街は、一丁目から四丁目まで、東西はともかく南北は坂しかない。しかもほ
とんどが路地である。

 七七年のNHK朝の連続テレビ小説「風見鶏」放映によって、急激に訪れる人が増えてい
った。
 それまでの雰囲気を守ろうとしても、対策は後手になる。異人館ブームとともに土産物
屋が雨後の筍のように点在するようになった。そして淫麋な匂いを醸し出すホテルも多少
は残りつつも表通りからは姿を消していった。一見、街は賑わいを見せたが功罪相半ばと
いうのが妥当な見方だろう。
 
 今はどうなのだろうか、三宮からだとタクシーは北野通の通称三本松のところまでしか
あがってくれなかった。その先の心臓破りの急坂のドンツキに、一時期私が住んでいたア
パートがあった。名をベイビュウマンション(畳のないのが特徴で、靴で暮らす低所得外
国人向けアパートでありながら、望海荘という和語のほうがふさわしかった)という。海
に向かってコの字を描いていたくすんだ白色の建物だった。
 私は、白壁に囲まれた十二畳ぐらいのなにもない部屋で、しばらく独り身で暮らしてい
た。
 その一丁目から西へトアロードまでいけば北野は四丁目で終わる。
 八〇年前後のこの界隈には、ファッションやアドバタイジングの分野で言えば、東京─
神戸直結という香りがあった。なぜ大阪をすっとばしていたか。
 私の編集上での師でもあったボス、K氏(〇四年没)は東京・神宮前と神戸・北野を行
き来するなかで、東京と大阪の仕事(広告制作)をこなしていた。伊丹空港からバスで高
速に乗り、六甲の山並が車窓に近づくと「神戸に戻ってきたって感じだね」と口癖のよう
に言っていたものだ。ボスのまわりからは、トーキョー業界人の持つあざとさというか、
まぎれもなくちょっと不良っぽい「香り」が漂い、またそれをおもしろがって受け入れて
くれる素地が北野界隈にはあったのである。
 当時、今は長野県知事である田中康夫が小説「なんとなくクリスタル」で文藝賞を受賞
して、文末に細かなヨーロッパのファッションブランドの注釈をたくさんつけて話題を呼
び、登場人物のようなライフスタイルをもつ女の子を「クリスタル族」などと称したもの
だった。蛇足ではあるが、一橋の学生だった彼は、東京の輸入ブランドを扱う商社を訪れ、
綿密な取材を行ったうえで、小説におとしこんだのは確かである。
 ボスの下で、ドレッサージという雑誌のスタッフだった私は、当時そのファッション性
の動向について、朝日新聞の女性記者から取材を受け、「街並の持つ魅力、おしゃれをし
て背景とともに自分自身が映える界隈を神戸は持っている。残念ながら大阪にはそれがな
い」と答えたことを今でも覚えている。
 そう言えばホンダの初代シティが、背景に映えるモニター場所として、異人館通りと名
付けられた道路を選んだのも、同じ理由であったことだろう。
 村上春樹原作・大森一樹監督の『風の歌を聴け』で、ヒロイン四本指の女の住むアパー
トは、結婚した私たちが住んでいた異人館通りに面したマンションの部屋を使って撮影さ
れた。ここも畳はなく、いかにも“バタくさい神戸”ならではのシチュエーションだった
のである。

 さて、旧居留地の大丸からトアロードの突き当たりまで、ゆらゆらと坂道を上がってい
く。
 大丸神戸店で洋モク(ボスはウィンストン、私はゲルベゾルテ)を求め、コロンバン、
トアロード・デリカテッセン、セントラルベーカリーでパン・サンドイッチ、アメリカン
・ファーマシー、リーチで雑貨を冷やかし、競馬であたったときは、ブティックでブーツ
や雑貨に化け、馬の名前とシンクロさせたりもした。
 NHK神戸放送局、聖ミカエル学校、北野小学校、肉のマル十、東天閣を過ぎて、神戸サ
リーズ、そしてドイツワインのローテローゼと続くトアロードはまさに、私と女房殿とボ
スの生活の動線の一つであったのだ。

 ところが、八一年のポートピア博覧会あたりから、北野の観光客による喧騒はひどくな
っていったようで、地元住民が北野・山本地区の環境を守り育てるために、規制を主張す
るのも十分に理解できることであった。
 神戸にいながらポートピア博を一顧だにしなかった私は、博覧会終了後しばらくして、
ある事情も手伝って、その跡地でもあるポートアイランドに住むようになった。決して、
好んで移ったわけではなかった。そして、そのなかでの移動はあったのだがもう二十五年
の長きにわたって島の住民になっている。

 再び、〇五年十二月の北野。
 空地も目立てば、有料異人館も点在し、私の住んでいた望海荘は取り壊され。一部駐車
場になっていた。「うろこの舘」に近く、かつて洗練されたジュエリー工房「4℃」の入
っていた洋館も観覧料の必要な異人館になっていた。そこにはもう暮らしの匂いは存在し
ていない。
 もはや路地のもつ陰影に、二十五年前の風情は漂ってはいないようだ。
 今の北野を初めて観る人々は、整備された通りを散策し、それなりの感慨を持って帰る
のだろう。
 しかし、ずっと住まれている方々や、かつてそこに身を置いた経験のある人々は、今の
北野をどう評価されるのだろうか?
 平成は戦後の昭和を唾棄しようとし、戦後の昭和は戦前の昭和を忌避し、戦前の昭和は
大正を軽んじて、明治は江戸を解体・忘却した。それぞれに固有の文明、文化を追いやっ
てきた。科学技術の発展をもって、人は人類の進歩といった。
 いまさら、過去に戻るわけにはいかないし、郷愁にひたっているわけでもない。ただ、
失ってしまった文明・文化に対する弔いをきちんとしなければ、必ずその酬いは社会規範
の崩壊となって、我々の今を襲ってくることだろう。その現象は九五年以降、ますます露
になってきているとしか思えないのである。
 “ハイカラ神戸”としても、映画の書き割りセットのような、砂糖菓子のような街並し
か生み出せないようになれば、都市の深みは出てくるはずもない。
 あらためて、街の歴史を辿り、先人の持つ無形の伝統精神を再評価し、慎みを持って日
々の暮らしを建てなおしていかなければ、かさかさした気分の漂う軽い街になっていくだ
けである。

■2005/3/24 論々神戸第39号 前文
                               渡邊 仁
 福岡県西方沖地震が発生。まさしく日本列島は災害列島といってもいい時期に突入したらしい。最悪の時間帯をはずれているだけに、被害は限定的なもので済んでいるぶん、不幸中の幸いといってよい。
 しかし、避難生活は長期化になる模様。映像でみるかぎり、神戸や長崎の山の手を小さくしたような山裾に家がへばりついているようにみえる。
 玄海島コミュニティの解体をさけるよう、復興への道筋を描いてもらいたいのだが…。
 
 今春は暖冬傾向の例年になく、寒さが居座っている。異常気象が当たり前になってきている昨今、これも地球の人類へのしっぺがえしだと思えば、天災・人災、かかわりなく、よくも悪くもこのような社会になってしまった、いやつくってきてしまった我々の「業」なのかもしれない。

 ホームページでも書いていますが、アメリカのライス国務長官、なんとか商務大臣、いずれも、牛肉輸出解禁をめぐって日本の姿勢へのイライラをあらわにしているが、狂牛病が病原体不明、感染経路不明、汚染規模不明といった不
明オンパレードの状況では、全頭検査が必要なのは当然でしょう。ただし政府はすでに生後20ヶ月以下の牛はいいじゃないかと、昨年11月にアメリカと約束してしまったので、さらにイライラは募るばかり。なんだか、幕末ペリー外交を類推してしまいますよね。
 しかし、ここはなんと言われようが、我が国固有のスタンス(科学的根拠+肉食わなくても生きていけるもん!)でつっぱねていただきたい。頑張れ! 政府ののらりくらり官僚たち!
 アングロサクソンのやり方(地球上の多種多様な共存をじぶんたちの理解できる範囲内での自由と人権を吹聴し、風土固有の時間差を理解せず、「我が国の肉を食え!」という、経営学が跳梁跋扈する理論重視の市場主義と国益追求)には、ほとほとついていけないのだよ、と。

■2004/7/12
 
震災から、はや10年目。「市民力」が試されている。
                           論々神戸 編集長 渡邊 仁

 区切りがいいというのかどうか、1950年生まれの私。その年の朝鮮戦争に始まり、60年は新安保条約締結、70年の大阪万博及び安保改定にからむ大
学闘争、80年に神戸に転居し、85年に独立自営、さらにこの年は、人心を荒廃させたバブル経済のきっかけとなる前川(元日銀総裁)リポートが準備された年であることも忘れることはできない。
 そして90年には父の死を迎え、95年の阪神・淡路大震災で否応なく人生の転機を迎え、2000年には、まさか参加するとは思わなかったシドニー・オリンピック(トライアスロン競技応援)と、五年・十年が、なにがしかの節目となっている。
 なかでも地震以降の約10年は、地元神戸の人たちとの交流が深まった、という意味で格別の思いがする。とはいっても、なにがしかのことができたとは到底思えないのだが、ふとしたことがきっかけで「震災」をキーワードにした雑誌『神戸から』を制作し、そのリニューアル版『WAVE117』を経て、現在のウエブマガジン『論々神戸』(www.ronron-kobe.com)にいたるには、周囲の人々の支援があってはじめてなしえたことだった。この十年、ある意味、開き直りともいえる手探りでのオピニオンの発信を行ってきたのである。
 また、この間震災からの流れとはいえ、一回だけだが2001年の神戸市長選挙にも少し内側から関わった。神戸空港阻止の最後の機会だと思ったからである。残念ながら勝利はしなかったが、これもさまざまな意味をこめての貴重な体験だった。
 かれこれ20有余年に及ぶそんな神戸での生活のなかで、ずっと頭をつきまとって離れないのは、草の根の市民的広がりってなんだろう? ということだ。
 私のような、ある意味ふらふらしながらも、仕事の合間に「パブリック」について、なんだかんだと話しあうなかから小さな具体的行動を起こす市民がもっと出てきてもいいと思うのだが、なかなか新たな顔ぶれにお目にかかれない(もっとも、私が知らないだけなのかもしれないが?)。私たちの社会基盤を根底からゆるがせた震災以来、すでに十年を迎えようというのに、これはいったいどうしたことだろう? 
 震災が起こるまで、すべての党派議員が行政と一体になって市政を支えてきたという不思議な自治体「コーベ」という街の歴史をふまえると、そう簡単には変えられないのかもしれないが、震災以後の市民力という観点からは、「コーベ」まだまだ文化的に成熟した大都市とは思えない。
 一方で、一生懸命、新たな市民的スタイルを生み出そうと苦闘している人たちもいて、彼らを見るにつけ、随分と勇気を与えられるのも確かである。そんななかで、『論々神戸』は、ますます私事の身辺雑記に堕していくか、それとも言論のうねりや波紋となるか、10年を越えても、東北人らしくねばりづよく発信していきたい。

■2004/5/11 テーマ/「アメリカの食文化」 渡邊 仁
憧れのアメリカとイヤになるアメリカ、それは「食」でも同じこと。

 1974年、はじめてのアメリカ経験で、カリフォルニアのUCバークレーに1ヶ月間滞在したことがある。大学の街だからして、治安はいいほうだった。ちょうど、大学は夏休みで、しかも地下鉄(最新鋭のBART Bay Area Rapid Transit)のストで、対岸のサンフランシスコまでは、お気軽ヒッチで、出かけたものだった。
 この街で、食についてのショック、というか楽しみとなったのは屋台の100%オレン ジジュース(濃縮還元じゃなく、オレンジ生搾り)。当時、大阪梅田・阪急三番街にあるフルーツショップでのそれは¥600〜¥800もした(ちなみに煙草のハイライトは ¥80)わけで、おいそれと飲めるものではない。それが、数十セント(1ドル¥310だ った)もしないので、安さにびっくりするとともに、その美味しさに仰天したのであった。知り合った20代の看護婦さんの給料が年収で1万ドル(我々の3倍ぐらい)だったから、これが気軽に飲める豊かさにまいったのである。
 一方で、ステーキ、ピッツァ、ポテト、ハンバーガー、デザートには閉口した。でかい、雑い、甘い、油っこいなどなど、そこで中華料理に逃げていったのであった。 食のデタラメな学生時代をすぎて、当時つきあっていた女性(大阪・日本橋出身)の実家の味に馴染みつつあったからかもしれないが、くだもの、珈琲、ピーナッツバタ ー、ブラウンブレッド、ジャム、ビールをのぞいて、アメリカの味にはノン! だったのである。
 そして、二度目のアメリカは、86年、ハワイ島。ここで印象はがらりと一変する。 有機穀物、くだもの、ドライフルーツ入りクッキー、チーズ、ワインなど、美味しいものがずらり。コンドミニアムでの食事づくりは、大変充実したものとなった。これは、その間の、アメリカ中間上位層のヘルシー指向、ダイエット指向に見合ったものだったようだ。
 その後、93年以降、アメリカにはでかけていないが、昨今では、中間下位層、貧困層が増加している以上、いわゆるジャンクなファストフードは、相変わらず旺盛をきわめていくに違いない。
 この30年のアメリカを見ていると、アメリカの病の一つは、食育を行わないことによる「食」の中産階級が表れてこないことにあるのではなかろうか。


■2003/12/16 テーマ/「テレビジョンの未来」 渡邊 仁
矛盾のかたまり、テレビへの愛憎

 はっきりした記憶は定かではないが、家にテレビ(受像機)がやってきたのは、 1960年、ローマ・オリンピックの年であった。テレビの歴史を見ればカラーテレビ本 放送の年だが、もちろん我が家はモノクロだった。欧州から送られてくるニュース (だと思う)のなかで、石畳のアッピア街道をエチオピアのアベベ・ビキラ(マラソ ン)が疾走する姿が妙に脳裏に焼きついている。 
 それからテレビのない生活を送ってはいない。いま、日本ではよほどの決意で「テ レビ追放宣言」を実施している家庭以外、ほとんどの家庭に「居る」ものとなった。 しかも、家人がいる限り、四六時中流れている家庭もあるやに聞く。
 で、テレビジョンの未来、というテーマだが、愛憎半ばする思いで、決して明るく ないと断言してしまおう。
 その理由だが、主に三つあげてみたい。(前提として、NHKという、一応の公共放 送は省く。なぜか、よくも悪くも公共放送としての制約を知っているからだ)
 1 わずか30年位で急成長した業態は、ほぼ必ず盛衰を味わう(産業)
   ・人的資源の枯渇、組織の硬直化、CM営業収入の減少
 2 マスメディア権力の象徴として、なんでもできるという傲慢さが、信頼への命取    りになる(社会的信頼)
   ・視聴率市場=至上主義、ジャーナリズム精神の衰退、番組内容の扇情化
 3 地上デジタル放送「使うテレビ」への変化は、諸刃の刃。デジタル・ディバイドの   大量発生(メディア・リテラシーの未熟)
   ・パソコンの家電化、ITへの過信(相手は生身の人間)
 要するに、テレビそのものから逃げ出す層、テレビ・メディア批判的な層、さらに は、DVD、ビデオなど複製メディアで満足する層など、静かに民放から離れていくの ではなかろうか。
 テレビだからこそ享受できる文化(報道、芸術、スポーツ、ドキュメンタリー、エ ンタテイメント等々)があるのだから、業界の方々にはくれぐれも慢心召されぬよう にこころしていただきたい。
 おい、聞いているか、テレビ業界に生息する友たちよ!


■2003/12/2 テーマ/「日本の安全保障」 渡邊 仁
日本国民の安全と財産を守るはずの自衛隊が、他国の戦場に放り出される。
これが安全保障の生け贄なのか?


 先の大戦で無条件降伏したわが国は、1951年、日米安全保障条約の締結により、西側といわれる資本主義陣営に組みし、それ以後、アメリカ合衆国(以下、米国)に対して、いじらしいばかりの貞潔なる態度で接してきた。
 軍隊を持てないはずの憲法を制定し、その後の世界情勢の転変に合わせて、「神学論争」と揶揄されながら、法解釈をいかようにもつじつまを合わせ、自衛隊(Self Defence Force)という軍隊を持ち、専守防衛を堅持してきた。ところが、89年の東西ドイツ・ベルリンの壁崩壊以後、社会主義陣営が数カ国を除いて総崩れをおこし、 91年の湾岸戦争をはじめ、地域紛争が勃発するにつれて、その間尺が合わなくなってきたのである。いわく、国際貢献するには、「他国(国際社会という言葉を連発する政府)と足並みそろえなければ、また顰蹙を買って国益を損なう」と。しかし「国益」というなら、このほうが失うものは大きいのではないか?
 東側社会主義陣営の総大将だったロシア(かつてのソ連)に、かつての「タガを引き締め」る力はなく、主要ヨーロッパ諸国から孤立して、偉大なる帝国として威光あらたかにしたいブッシュ率いる米国は、経済大国日本をやわらかな脅し(show the flag, boots on the ground etc.)でもって、03年、イラク戦線へと引きずり出した。
 世界の主要国のなかで、唯一、軍事的な姿を見せなかった「日本軍」が、砂漠の戦場へと出かけていく。武器を売りもしなければ、買いもしないという極東の経済大国が、アラブ・パレスチナ、イスラエルという「中東の火薬庫」にあって、もっともニュートラルな立場をもって居たはずなのに、それを、惜しげもなく捨て去り、米国の僕として(小泉首相はパートナーと言う)参戦することになる。 
 ことここにいたっては、派兵撤退は米政府とそのcoalition(有志提携国)に対する契約違反とみなされる。
 それでも、わが国外交のとるべき道は、軍事の弱さを武器に、徹頭徹尾、ブッシュ政府との取り引きに政権をかけてもらうしかない。なんと誹られようと、専守防衛、つまりは、こちらからは仕掛けないことを、あらためて、世界に明らかに宣言するほうが良いと思う。(でも、しないだろうな。)
 ブッシュの米国は04年、大統領選挙が転機になる。どのような政府であろうと、日米関係が大切なのは大前提。だからこそ、私たちの文化力で対応するしかない。
 日米関係は政府間同士もあれば、草の根同士の関係もある。政府間同士の関係はともかく、私は、米国籍の知人たちとのささやかな交流を大切にしていくばかりだ。


■2003/11/11 テーマ/「家族と消費」 渡邊 仁
つつましさ、この言葉に、いま一度、光を。

 1950年生まれの私。高度成長に見合った給料に追いつかない時代の公務員を過ごした父の時代、うちの家電は、いつも遅れてやってきた。51年生まれの女房殿の実家は、不動産業、母親は茶道と生け花のお師匠さん、暮らしぶりはアッパーミドルクラスで、家電は早くにやってきた、という。
 三種の神器と言われた洗濯機、冷蔵庫、テレビが世の中を席巻しはじめた50年代後 期、専業主婦だった母にとっては、それは羨望のモノだったのかもしれない(私はそうは思っていないのだが)。
 そんなつつましい生活のなかでも、小学校時代(1955〜61年)には、母が、手づく りの洋服(シャツやセーター、野球のユニフォームなど)を作ってくれ、それは兵庫県の田舎町の洋装店にはないもので、恥ずかしくもあり、ちょっと誇らしくもあった。
 小学校6年のとき、丹波の田舎町には塾もない時代、おそれ多くも私学の難関中学を受験するという無謀な試みも、父が県職員で、阪神間に寄宿できる人がいたから、できたことではあった(当然、合格して通っていれば、いまの私はない)。
 父は、技術屋として県を終え、建設会社の専務や某市の助役を勤め、暮らしむきはゆとりが出たはずなのに、終生、家を持たなかった。貸し家で終始した。お金を活用する、利殖ということを考えない人であった。自分のためにお金を費やすということをしなかった。月賦という感覚をよし、としない人であった。
 そんな家庭に育てば、姉妹3人、私1人、いずれも、お金に「こだわる」ことをいさぎよしとしなくなったのも、自然のなりゆきではなかろうか。
 「分相応」の暮らし。金持ちにはお金を上手に使う責務があるだろうし、ビンボーには、日々やりくりしながらのささやかなやすらぎをかみしめるしあわせがある。それがそうはなっていないのが、現代だ。金持ちの蕩尽は文化に向かわず、ビンボーに耐えられない庶民はいとも簡単にキレて、刃をふるう。
 「分」をわきまえる消費。これをどのようにして、伝えていけばいいのだろうか?


 ■2003/10/28 テーマ/「都市の祭り」 渡邊 仁
《陰祭》よ内に、《疑似祭》よ、外へ。

「陰祭」ということばを初めて知った。本祭が行われない年の簡略な祭のことで、江戸時代、山王祭と神田祭での費用軽減のため始まった、という。
 表に対する裏、陽に陰、賑やかさに静けさ、明るさに暗さ、光に影、明瞭に曖昧な ど、常にマイナスのイメージでとらえられる後者だが、昨今の「陰祭」は、そのささやかさ、静けさが、逆にそこはかとない魅力になってきているようだ。いわば、表向きからはみえない、「大事なもの」が、そこにある、というわけだ。
 では、本来のカミの祭ではなく、現代の疑似祭ともいうべき「集客イベント」のことを考えてみよう。
 集客イベントは、のべつまくなしに行われるようになってきた。そこには、私たちの節気を基底にした《ハレ》も《ケ》もなく、欲望をほりおこし、庶民の消費を促している。そこでは、地域経済の活性化がいわれ、大規模イベントであれば、経済効果◯◯億円などと喧伝される。
 毎年イベントを行えばわかることだが、主催者や運営責任者は、反省会を開いて、改善する点をあげ、次年度はさらにいいものへと発展させようとする。あたりまえのことなのだが、ここに盲点がある。
 というのは、考えが常に右肩あがり前提なのである。いいところを残して、改善点だけをあらためるわけだから、毎年毎年積み重ねていけば、財政規模でも内容構成でも、常に「前年比◯%増」という評価に◯が与えられる。そこから「無理」「背伸び」「慣れ」が始まり、あるとき暗転することが起こってしまうのだ。例えば、明石の花火圧死事件もそうである。
 集客効果に血眼になるのではなく、《ハレ》と《ケ》を取り戻し、ひっそりとした地域の「祝祭」のありかたをきちんと見直すべきときがやってきたようだ。
 最後に、私の好きな祭歌を掲げ、《陰祭》の連綿たる存続を祈りたい。

   祭り囃子が 聞こえてきたら 早飯支度の 火をおとし
   わたしゃ白粉 紅つけて 揃い浴衣に 深編笠で 三日三晩 練り歩く
    越中おわら 向かいは海よ 後向いたら 山ばかり
    あいや恋しい あん人は いまはいずこで 風の盆
 
   どこぞ似ている 黒半纏の 後姿は どの組か
   わたしゃ八尾に 残されて いつか誰かの子を生んで 三味の音色に 身をまかす
    越中おわら 祭りが過ぎて 山が哭いたら 雪ばかり
    あいや恋しい あん人は いまはいずこで 風の盆 

                          『風の盆』 北原ミレイ/歌
                      荒木とよひさ/作詞 浜 圭介/作曲


■2003/10/21 テーマ/「資本主義」  渡邊 仁
ハイパー資本主義を手なずける「智恵者」よ、いずこに?

 たしか『ウォール街』という映画をみた頃(マイケル・ダグラス、チャーリー・シ ーン主演、80年代前半)だと記憶するが、なにやら「金融デリバティブ」とかいう舌 をかみそうな商品で、かしこくてはしこい奴等(例えばハーバード大学など、アイビ ーリーグのMBA卒業のWASP中心)が、買い手をけむにまいて、たんと利鞘を稼ぐとい う、酷薄な世界が進行していることに驚いたことがある。
 だいたい、株とか証券とか、先物取り引きとか、縁もなければ、好きでもない世界 に住む身としては、「あ〜、こうして、情報を独占しているもの同士が勝手にお金を とびかわせて世界は動いていくんだ」とか、「闇の世界のお金の動きと大差ないん だ」、と思ったものだった。
 人間の欲望の具現でもある資本主義は、80年代に高度資本主義まで辿りついて、と りわけ日本はすごい高度消費社会(差異が差異してなんとやら……)を生んで、さら にはソビエトの自滅と中国の拝金主義で、全世界がほぼ資本主義に覆われてしまっ た。
 とするなら、「ハイパー(超)資本主義」とまで進化した資本主義が食うパイはさ らに大きくなるのだろうか? 
 巨大な多国籍企業が未開発市場をめざして競争しあうから、世界経済ははまだまだ 拡大する、だって? 《いやいや、そんなに楽観的にはなれない、よ。》
 一方で、地球はいろんな意味で有限だから、もっとセーブしなきゃいけないんじゃ ない? 《でも、智恵者は必ずいるから、安心したいよね。》
 世界の各地域はグローバライゼーションの波に洗われているが、それぞれの社会は 固有の時間軸を持っているはずで、それを、同じ時間帯で制圧していっていいはずは ない。では、「神の見えざる手」によって、市場はおのずと制御されるという牧歌的 な資本主義は消え、ときに傍若無人にあばれまわるハイパー資本主義を手なずける術 を誰が持っているのだろうか? 
 いま、世界に冠たるニュー・アメリカ帝国の「薮皇帝」は、世界史を勉強していな いようで、残念ながら、ローマ帝国の賢帝ならぬ、ふつうの皇帝に及ぶべくもなく、 期待できない。そんな「薮皇帝」に喜々としてすりよる「小泉属州司令官」では、ニ ッポン再生は無理だろう。
 だから、国際交渉にたけたホントにしたたかなリーダーが、極東の小さな島国には 必要なのだと思うのだが、さて「誰か、いますか?」という、情けない話ではある。
 神様しかいないって、うーん、困った。


■2003/10/14 テーマ/「精神疾患との共生とカウンセリング」 渡邊 仁
身体の声をきちんと聴いて、精神疾患とつきあっていこう

 精神疾患については、脳の研究が進んだ結果、患者の立場に立った精神医療の方向 性に向かっているのは間違いないようだ。しかも、難病以外は、薬で制御できるよう になっているときく。
 例えば、私の母の鬱(うつ、見ているだけでうっとうしい漢字ですね。そういえば 「憂鬱なる党派」なんて作品もありました)病も、発病以来20数年にわたっている が、薬でどうにかバランスを保っている。季節の変わり目に弱く、消え入りそうな声 で電話をかけてくるが、ちゃんと聴いてあげると、しばらくは持ち直す。 
 私が20代後半での発病だったが、当初の精神科医から、友人の精神科医(神大・中 井久夫教授の薫陶を受け、当時、一人立ちしたばかり)に代わったおかげで、効き目 が弱い薬でも、本人が効くと信じて飲んだので、最悪の状態は避けられた。いわば、 なによりも「安心」が必要で、母のお話を「聴いてやること」が大切だったのであ る。それは彼から教えられた。「反論しないで、元気づけないで、ちゃんと聴いてあ げてね」と。
 ところで、精神疾患の病名は、多種多様で覚えきれなくなってきた。あまりに細分 化された研究の結果、社会学のように、なんでもかんでも研究対象にして、精神疾病 の範疇に入れて、名称をつければいいい、というふうに思えるのは私だけであろう か。
 しかも、カウンセリングと称して、心理カウンセラーがもてはやされ、なにかあれ ばすぐ「カウンセラー」が対処するようになったが、ここで私が感じるのは、あまり にもナイーヴというのか、ナーヴァスというのか、ホモサピエンスとしての人間の身 体的弱さが露呈しているのではないかということだ。それが精神へと及んでいるよう に思えてならない。
 あわせて、昨今の若者、子どもの体力調査を調べ、さらには接してみて体感できる のは、総体としての身体能力の低下である。
 精神よりも、まずは、身体の感受性を復権させること、「脳」はあとからついてく るよ、と言い切りたい。


■2003/10/7 テーマ/「地域共同体」 渡邊 仁
小さい風土=「身の丈共同体」をめざしていこう

 地域共同体が崩壊しつつある、といわれて久しく、みごとに壊れてしまったところ もある、という時代になってしまった結果、昨今、続けざまに陰惨な事件が報道され るようになった。
 第二次世界大戦後、一神教を背景にもつ個人主義ではなく、「ミーイズム」とい う、放埒な自由が与えられた結果、共同体の持つ規制が効かなくなり、まさに「隣は なにをする人ぞ」状態が、じわじわと都市から田舎にまで拡がっていった。
 この動きに歯止めをかける動きはあるものの、まだ、大きなうねりとはなっていな い。なぜなら、長年にわたって培われてきたものは、よほどの急激な外来の衝撃がな いかぎり変わりようはないからである。
 また、壊れた地域共同体を復活させようにも、すでに担い手がいない(高齢化、少 子化、若年失業など)という状況では、そのままリバイバルという手法でも無理なよ うだ。
 では、どこに希望を見い出すのか。
 それは進行しつつある地方分権を徹底化し、度重なる市町村合併で大きくなった地 域共同体(都道府県)をもとの風土に見合った身の丈(藩)に戻すしかないのではな かろうか?
 いま、進んでいる市町村合併の最大の理由は、来年まで期限を切られた特別補助金 獲得による公共事業特需(馬に人参)と、行政効率化であろう。しからば、その後の 展望はといえば「?」なのである。
 私の知る限り、民意を反映させて「合併しない」という宣言を出した自治体の首長 のなかに、「覚悟を決めた」というリーダーシップが見られて好感が持てる。それは 「ごまめのはぎしり」や「やせがまん」かもしれないが、明治時代、新渡戸稲造をし て「日本には、宗教に代わるものとして、武士道がある」といわせたように、まだま だ公人としての美風が感じられる。
 「small is beautiful」なことは、この世にたくさんあることを、今一度、思い起 こしたい。
 地域共同体は利益共同体ではないのだから、いま、なによりもその土地の気っ風を 失ってほしくない、と思うばかりだ。


■2003/9/30 テーマ/「医療・Healing」 渡邊 仁
 
医療という、厄介な分野にとまどうこと多い、この頃

 いま、緑内障の治療を受けている。眼圧があがり、視神経を傷つけ、視野狭窄にな るという症状だが、痛みはない。極度の近視をもつ人は、罹る確率が高いそうだ。
 医師は、病状の回復はありえないが、投薬により今の状態でもちこたえることはで きる、という判断だった。もちろん、セカンド・オピニオンも大いに結構、と言っ た。インフォームドコンセント、そのものである。
 毎回、眼圧を測定しながら、様子を見ている。長期戦になるのはしかたがない。
 別段、いのちにかかわる病気ではないから、気は楽といえば楽だが、重い病となる とそうはいかない。
 ところで、ずっと気になっていることだが、近代医学・医療の進歩、というが、大 いなる成功の後には、退廃の影が忍び寄る、というイメージが、私にはつきまとう。
 人間の身体は、パーツの寄せ集めなのだろうか? どこまでが、食道で、どこまで が十二指腸なのであろうか? 口から肛門まで人体には一本の管が通っている、とう いことは、からだのなかに境界の定かでない外界を抱えているということではないの か?
 そんな人体の細分化されたパーツに、対処療法をほどこして、部分は治癒したが、 全体はおかしくなる、なんてことはよくあるのではないか?
 だとすれば、近代医学はもっと謙虚になっていいのではないか? 
 難病をなおす、確かに人類の進歩にはいいのだろうが、先進国の一人の「いのち」 を救うために、莫大な金額をかけ、貧困にあえぐ国の民は捨て置かれる。これが、世 界の現実なのは、どうしてだろう?
 「脳死」「尊厳死」「安楽死」をはじめ、古くは輸血から始まって、骨髄バンク、 臓器提供と、これから活発化していくだろう再生医療、クローン、などなど、手にあ まる問題が次から次に起こってくる。まさに、勘弁してよ、全部自分が判断し、決め なくちゃいけないわけ? といいたくもなる。
 子どもたちも20歳を過ぎ、いつ死んでもいいように、とは思うけれど、それほど潔 く生きられない我が身だけに、自問するだけの日々が続く。


■2003/7/15 テーマ/「天皇制」 渡邊 仁
 
天皇はん、いにしえの都に戻りはったら、どないどす?

 この国の中心は空だ、という認識は、「わたしの語ろうとしている都市(東京)は、次のような貴重な逆説、〈いかにもこの都市は中心を持っている。だが、その中心は空虚である〉という逆説を示してくれる」(『表徴の帝国』ロラン・バルト)から始まった。
 禁域であり、緑に覆われた誰にも見られない天皇の住むところ、皇居は、まさしく日本の首都の中心にある。しかし、在るには在るが、権力を行使する機関ではなく、日本国民の統合の象徴だ。
 敗戦後、昭和・平成と約60年の歴史のなかで、皇室は、まさに大多数の国民の支持 を受けて、日本宮廷文化の護持と西欧流の合理的知性をないまぜにしながら、“芸能人化・有名人化”して、まちがいなく、象徴らしくなってきた。その進化は世代を経るにつれ、 加速化していくことだろう。
 政治が泥臭い権力闘争であれば、皇室はその泥を浄化させる役割を担っている、そ んな認識を自然に持たせるところが、現代の天皇制が国民の多くに支持される所以だ。
 逆に、天皇制が政治権力と直接的に関わるようであれば、たちどころに、巷間から怨嗟の声があがるような気がする。そう言う意味では、70年、失われゆく天皇制に檄をとばし自決した三島由起夫のいう、文化としての“現人神”天皇制、非権力的天皇制は、いまふたたび、ようやく機能しはじめているのではないだろうか?
 一方で、イデオロギーとしての天皇制がもはや庶民に通用しないとしても、正面からの天皇制批判が少なくみえるのは、マスメディアをはじめ、禁忌が厳然と存在しているからだろう。そんななか、天皇制をぶっつぶすことを目標としている党派もまだあるようだ が、それが不可能である以上、我々もまた、一宗教に代わる天皇制を習俗として認め ていったほうが、かえって、天皇制そのものを制御できるのではなかろうか。
 そういう意味では、天皇家が文化的役割を果たし、象徴として在りつづけるには、やはり、京都への帰郷がのぞましい。さらに言えば、俗な政治権力から地政的に遠ざけ、東アジアの日本という固有文化を持つ「くに」の象徴として、「京の御所にあらっしゃる」ほうが、本来のこの「くに」には似つかわしい、と思えるのだが……。


■2003/7/8 テーマ/「国民国家」 渡邊 仁
 
国家から、日本連邦《ニッポンのくに(藩)ぐに(故郷)》へ

 国民国家(nation state)。日本であれば日本国。
この概念が庶民に浸透するのは、やはり明治維新、廃藩置県以降のことだろう。それ までは、国といえば藩(くに)であり、故郷(くに)であった。日本では約150年の 歴史でしかもっていない。
 しかし、冷戦崩壊(1989)後、社会主義という箍がはずれると、民族紛争が多発 し、国が分割されることが多くなり、しかも市場経済化して、多国籍企業がボーダレ スに営業展開するなか、国家の体をなしていない国もあらわれるありさまである。つ まり、大きな戦争は起こり得なくなったが、小さな戦争、紛争を多発するという事態 に立ちいたった。
 したがって、世界全体では国民国家の耐用期限がきているのではないか、という指 摘もあるのだが、私はむしろ、楽観的かもしれないが、イデオロギー(という大きな 物語)を失ってしまったがゆえに、逆に、地域主権(という小さな物語)を再構築し ていくなかで、ゆるやかな連合国家を構想できる時代に入ったのではないかと思われ る。
 日本の場合は、外交、防衛、環境、租税などは、国家の担当で、福祉、文化、教 育、観光などは地域で担う、という、いわば、各地域の風土にあった国境(くにざか い)を再設定することで、「おらがむら、まち」という郷土意識をあらためて堀りお こしていく時代になったのではなかろうか。いわば、北海道から沖縄までの「日本連 邦」である。
「風土」とは、風景であり、無形有形の文化である。だとすれば、祭、伝統芸能、鎮 守の杜、特産物、歴史的遺跡など、人が帰れば安心できるところを保全し、持続させ ていくしかない。
 国民国家、ニッポン再生の鍵は、各地域にとっての“里山環境”の再生にある。


■2003/7/1 テーマ/「司法とマスメディア」 渡邊 仁
 
政治権力と「マスメディア」という権力、この関係やいかに。

 国家権力の三極構造、立法(国会)・行政(内閣府)・司法(裁判所)は、お互い を牽制すべく、三権分立となっている、はずである。しかし、戦後60年を経ても、戦 後間もない頃と93年のわずか一時期を除いて、自由民主党を中心にした政治権力が交 替したことはない。つまり、野にくだって、うちひしがれるという、どん底を経験し ていないことになる。よって、三権がウラで結託していると思われてもしかたがな い。
 権力は、権力であるがゆえに、長期にわたると腐敗する。ところが、ほどよく腐敗 して一部が明るみに出て、シッポをきれば一件落着となって、大怪我にはいたらな い。実にうまい。高度成長期以降、庶民の怒りは、消費税のような、大衆課税の増税 のときに、ちょいと暴発する程度である。
 地上の権力が未来永劫続くわけがないとしても、我々は260余年、平和を保った時 代を持つ国の民であるからして、権力の腐敗についても、権力者が変われば、いいと きもあれば悪いときもあるというふうに、「まあ、ええやん」と、ものわかりのよさ を持ちつづけているようにも思える。
 そのような権力をおおっぴらに批判できるのが新聞を中心にしたマスメディアだ が、それが第4の権力として大きくなったのも、この戦後60年。とりわけ、今年誕生 50年キャンペーンをはっているTVの増長(主として民放)には目を見張る。とりわけ 権力機構への批判や批評が存在理由であるはずのマスメディアに生息する人間たちみ ずからが、左右を問わず、この社会でのアッパーミドルクラスであることは覚えてお いてよい。
 庶民の代弁者を演じながら、社会の勝ち組(いやな言葉だが)としてTVが君臨して いるやにみえる昨今だが、このままいけば、いつかは自壊するのだろうか?


■2003/6/24 テーマ/「身体技法」2 渡邊 仁
 
伝統的身体技法、古武術への一方的な夢想

 アメリカンフットボール(以下アメフト)は、米国の国技。国民に圧倒的に支えられているスポーツだ。米国は自国のなかに他民族をかかえるがゆえに、ベースボール同様、自国だけですでに“ワールド”という認識だ。
 そのなかにあって、日本人アメフト選手に合った身体的運用があるのではないか、それには古武術(的思考)が参考になるのでは、という研究発表だった。
 では、私の関わるトライアスロンについてはどうだろう?
 これも“born in USA”のスポーツだ。その原点は遊び。「一緒にやったほうがおもろいんとちゃうん?」というノリである。 
 1974年に誕生して以来、いまトライアスロンの強国は、豪(AUS)・米(USA)、独(GER)、加(CAN)、仏(FRA)、英(UK)など、G8ではないが、先進国といわれる地域に集中している。
 そこで、日本人選手が彼らと対等に戦う日がやってくるのか? という問いが当然起こる。これは、オリンピック・ディスタンスの世界選手権が誕生した1989年以降、ずっと続いている宿題で、スイムは克服したものの、依然としてバイク・ランが問題だ。
 体幹にすぐれ、トレーニング環境にすぐれ、プロとして存在が許される環境にすぐれている先進国の選手と戦うには、科学的トレーニングの方法論は、当然のことで、それをふまえてなお、それだけではない別のアプローチが必要なのである。
 それは、先にふれた日本人選手に合った身体的運用だ。
 注目すべきは、マイケル・ジョンソン(400m)、伊東浩司(100m)、高橋尚子(マラソン)に代表される、太腿後のハムストリングス(筋肉名)を意識して効果的に使い、上下動がなく、キックを意識しない、滑るような走り。いわば、イメージとしての忍者走りと称されるスタイルだ。
 そこで古武術に代表される身体技法にヒントはないのか? たとえば身体の扱い方、身のこなし方、足のさばき、重心の移動など、バイクとランに応用できるのか否か。
 私は、日本代表候補選手を抱える監督に、チャレンジしてみてほしい、という夢想を抱いている。


■2003/6/10 テーマ/「家族」 渡邊 仁
 
「家族」と「食卓」は、ライク・ア・ロータリー

 一緒に住むという「家族」を経験している。一つは、此の世に生を享けてから父母 姉妹と一緒に暮らした約15年間。もう一つは、自身が父になって、子どもたちと共に 暮らした18年間。
 自らが子どもの頃は、やはり思春期の頃より父母が疎ましくなったりしたものだ が、父の単身赴任、母の病弱とともに一緒に暮らさなくなると、適度の距離感が幸い したのか、決定的な対立にまではいたらなかった。
 一方、30才を過ぎて自身が家族をつくってからというもの、女房殿の意向もあっ て、我が家は外に開かれた形態をとっていたが、その中心は食事、食卓にあった。家 に多くの人たち(内外問わず)を招いての食事は、比較的多かったのではなかろう か。料理についても、80年代に出会ったトライアスロンのせいか、滋養に富み、美味 しく感じられ、いわゆるバランスのとれたものを食してきた。その食卓を彩るのは、 当然、酒肴と手料理ではあるが、音楽も欠かせない脇役だった。食事中はテレビを消 すので、我が家の食卓に“テレビ”はなかったも同然で、子どもたちはそのなかで育 った。
 また食卓といえば、私にとって、忘れられない書物がある。79年発行の『食卓のな い家』(円地文子 新潮社)と、87年発行の『父のいる食卓』(本間千枝子 文芸春 秋)、である。
 前者は、高度成長期に家族が個々に分解され、結果、世間に指弾される犯罪をおか した息子とその父、それぞれが信念をまげずに生きぬく物語であり、後者は、戦前の 昭和期、東京の中流階級につかの間訪れた暮らしの充実の中心に食卓があり、父の存 在が家庭に“しか”とあったことをディーセンシーあふれる筆致で綴ったエッセイで ある。ともに垂鉛のように琴線にふれ、印象深い。
 かくのごとく私にとって、家族と食卓は切り離すことのできないものであり、それ は、幸・不幸の象徴というより、皆が必ず通るがゆえに見渡せる中心交差点(ロータ リー)のようなもの、なのである。


■2003/6/3 テーマ/「強制的異性愛恋愛体制」 渡邊 仁
 
日本の「性愛」は、豊かなはずではなかったのか?

 私たちが思春期の頃(60年代半ば)、学校に性教育などほぼ存在せず、女子だけ集 められて、良妻賢母を求める生理の講習が行われる程度で、性の知識はたいてい先輩 や同輩のやたら好奇心の強い奴からの情報で、悶々とするというのが一般的だった、 と思う。
 しかし、その頃から欧米、とりわけ米国から文化の流入とともに、異性愛だけでは なく、同性愛(ホモセクシュアル、レズビアン)が伝わり、さらにはバイセクシュア ル(これは男性だけに見られるようだ)も、例えばデビッド・ボウイが現れることに より、その美貌と知的スタイルがゆえに、受け入れられるまでになってきた。米国ミ ステリーの世界にホモセクシュアルの探偵(ジョゼフ・ハンセン作)が大活躍しはじ めるのも70年代だ。それ以降、欧米ではカミングアウトすることが、ごく「フツー」 になり、日本でも、まだまだではあるが、その方向には進んでいるように思える。
 そんな「性愛」については、平均値も偏差値もいらない、というのが私の実感であ る。その点では、70年代前半のハイトリポート(米国女性のセックス観)をはじめと する統計に踊らされて「性愛」をもっと謳歌したいという姿には、結果的に性産業の 虜になってしまう人間の「業(ごう)」と「性(さが)」を感じてしまう。
 明治時代以降、天皇が頂点となる父権制(皇室典範で男系と規定)が庶民を呪縛す るようになるにつれ、強制的異性愛以外の「性愛」に不寛容になってきたのだから、 ここらで、ちょいとねじを逆にまいて、「性愛」への21世紀市民的成熟に期待した い。
 江戸時代中期、町民文化が成熟した頃のように、「情」を大切に扱うことで、おも しろくもあり、哀しくもある、しっぽり濡れる「性愛」を取り戻すことこそ、日本的 風情の再生につながるのかもしれない。


■2003/5/27 テーマ/「教育」 渡邊 仁
 
嗚呼、「教育」って、難題?

 中学校の現役先生のレジュメ「教育の現場から」は、義務教育(初等・中等)について話す際に、基本的な報告として簡潔にまとめられており、参考になった。
 それにしても、10年ごとに改定するという学習指導要領が、時代の間尺に合わなく なってきているのは明白で、文部科学省の意気込みにもかかわらず、1960年代以降の社会の変化は速く、その欠陥が露呈されてきたといってよい。内田先生の言葉を借りれば「すでに賞味期限が切れている」ころに実施されても、子どもたちは社会と学校のなかのギャップにさらされるだけ。
 そして、義務教育の現場で起きていることが、メディアによって、いかように伝えられていくか? 管理者である校長・教頭、日教組のラインか、はたまた、ノンポリ我関せずのラインか、どの立場であろうと、数少ない知者の存在がなければフレームアップされた情報が伝わり、普段着の職員室や教室のなかの真実は、ほんとうのところ「薮のなか?」   だから、教育については、みんな評論家になってしまう。
 外交、防衛、税など、国家が扱わねばならない分野はさておき、教育全般について は、中央政府が大きな役割を果たす時代は終わったほうがよい。権限をある程度の規模で地域にさしもどすことだ。江戸300藩体制といえば小さすぎるかもしれないが、 ここ兵庫県でも、但馬・丹波・播磨・摂津(神戸・阪神)・淡路と、それぞれ地域の色合いは、くっきり出ていておもしろい。
 教育全般が複線構造になり、敗者復活ができて、風土という地域に立脚し、いま一 度、子どもたちが師への「礼」をわきまえられるようになれば、日本の教育に明るさは見えてくる? その大前提は、まずは教師が「師」らしくなることではないか。


2003/5/20 テーマ/「身体技法」 渡邊 仁
 
身体技法が、教育再生のカギか? 

 身体技法、ってなに? 研究発表を聞くまでは、たぶん、武術における立ち居振る舞いのことかと理解していた。
 ところが、参考文献には『学びの身体技法』とある。どうも教育の場における身体経験のことのようだ。発表を聞いて、それが有効だと、私も思う。身体で覚えることの大切さは、伝えなければならないことだ。
 しかし、教育問題となると、どうしても教育全般のことに議論が拡散してしまう。 まして、時系列が異なり、公私教育の違いもあり、異なる教育実体験を持つものたちが、議論するときには、どこかに絞っていかないと、深まりようがない。
 例えば、私の地域(ポートアイランド)では、一つの小学校から一つの中学校に進 む。しかも敷地は隣同士。言ってみれば、9年制の学校にいっているようなもの。だから、番長同士のはりあいがなく、私の子どもたちが通っていた1987年〜1996年頃は、非行といっても可愛いものだった。
 ただ、問題なのは、そうはいっても小学校の学級崩壊にもつながっている自由さが、逆に中学では規則強化の方向に向かい、子どもたちもその落差にとまどい、適応しにくいことだ、と聞く。つまり、全人教育というのか、義務教育の学校が学力以外のことをたくさん扱うようになり、鵺のような文部科学省の指導によって、教育現場が自家中毒を起こしているとしか私には思えない。
 授業で現役の先生が指摘されたように、先生になってほしい人が教員試験に通らなくなってしまい、逆に処理能力を越えたしごとをかかえた先生が、逃げるがごとく 「ことなかれ」に陥っていく。
まさに「先生はつらいよ!」。
 でも、先生がしっかり「ライブ感覚」のある身体技法を学び、授業に力をそそげば、少なからぬことは改善されていくだろう。そこにはニッポン再生のカギがありそうだ。


■2003/5/13 テーマ/「一夫一婦制」 渡邊 仁
 
《一夫一婦制》って、ましな制度じゃないの?

「バツイチ」というしまらない言葉の実践者でもある私が、再婚後22年間、女房殿と 一緒に暮らしてきた事実に基づいて、いまの状態をよしとしてきたのは、なにも近代的な《一夫一婦婚・核家族》制度がいいからというのではない。
 ただ、好きになって、一緒に巣づくりをして、どちらか先に死ぬまで、お互いに足りないところを補い愛(おっと、変換ミス)、まあ、「一緒に生きてきてよかった ね」と言ってあの世へいけたらいいな、と思っているだけである。異性であれ同性で あれ、それは等価だ。
 《一夫一婦》という制度は、社会学研究者など知識層の間では旗色が悪いようだ。女性を家庭にしばりつける制度として、それがいまなお強制力をもっていると考えられ、女性のさらなる解放が言われている。
 だが、現実には結婚適例期といわれる男女は、もっと功利的に《一夫一婦制》をはずしている。一人で生きるための周辺環境が整備されれば、なにも結婚しなければならない理由はない。いまのニッポンは、住まい、食事、ファッション、雑事、セックスなど、お金さえあれば、すべて調達できる高度消費資本主義社会だ。
 フェミニズムからは、女性を家にしばりつける制度として、批判にさらされてきた 《一夫一婦制》ではあるが、一方で庶民には根強く守られてもいる。もし社会の最小単位としての《一夫一婦制》をはじめとするカップルが、実直な《くらし》を組み立てなくなれば、そこには寒々とした風景が広がるばかり。
 アメリカに代表される「我慢するぐらいなら別れたほうがいいわよ」状況が進み、自由放埒をよしとすれば、一夫一婦の紐帯はすりきれ、いわゆる核としての《家族》 の崩壊はさらに進行していく。これは、社会にとって決していいことではない。
《一夫一婦婚・核家族》の問題は、制度よりもむしろ内実だ。《核》があればいいが、《核》が《核》にもならない核家族なんて、洒落にもならない、のである。


■2003/5/6 テーマ/「精神疾患」 渡邊 仁
 
「うつ」があたりまえに在る不自然な時代

 クラスメートの発言を聞いていて、うつ病経験者が、まわりに多いのは驚きだった。
 実は私の友人にも該当者が三組いる。50代前半、知識層で、まあ裕福で、リベラル で、文化芸術にも造詣があって、大学時代に知り合って、お互いにいい仕事を持って、
というような夫婦だ。
 ただ、子どもの養育において、私たち夫婦からみて、必ずしも成功とはいえなかった。
 共通するのは、上記に加え「子に対して、ときには理不尽をふるまう父性」の欠落した夫と「知的でしごとができ、しかしそれほど家事が好きじゃない」妻という構図である。妻が夫を友人感覚で、ほぼ対等に日々接していけば、父母というものは 子どもの目にどう映るのか? 「荒れる、キレル、不登校、ひきこもり」─世間に対 する知的プライドがあるためか、そのことへの自省がこころをさいなみ、「うつ」に 陥った。
 優しく、ものわかりのいい父であればあるほど、権威というものは失墜する。また、TVを中心としや、子どもたちの接する情報(CMは大きなウエートを占める)には、父への畏敬という雰囲気のものは少なく、一方的に地位の低下が印象づけられ る。大人を、父を、尊敬しないまでも、一目おく存在としてみなければ、子どもは必
ず増長するし、自らの不始末を、親に転化していくのはあきらかだ(誰も生んでくれって頼んだわけじゃない! という常套句)。
 わけのわからない怒りをちょいと爆発させて、時には子どもたちを震え上がらせないと、ゆるんだゴムのように弾力のない、生きる力のかぼそい子になってしまい、環境適応能力の劣る人間をしらずしらず育成しているのではないか。
 「フルクサーッ!」と言われようが、「妻は夫をうまくたて、夫は妻をいたわりつ」という智恵が、やはり家族の親和力を高め、遺伝的疾患は別として、人為的な 「精神疾患」の予防につながるように、私には思われる。


■2003/4/22 テーマ/「日本語」 渡邊 仁
 
私的言語は 無味乾燥(わたしのことばは かわいている) 

 京阪神の情報誌『Meets Regional』は、大阪の言葉を「」つきで表現していて、それを「コンビニ」時代の地域情報誌としての文体だという。一方、全国に発信している首都の情報コンテンツの類に、そのような文体はない。
 また、首都のマスメディアを通じて、おびただしい標準語のシャワーを浴びる地方の子どもたちから、地域特有の言語=方言は消えつつある。今の子どもたちは、IT環境下にある。話しことばにせよ、書きことばにせよ、方言で通すと厄介だ。だから、標準語で書き、話すことになる。あるいは、周囲に応じて、使い分ける。
 標準語のもとになる共通語は、「勝てば官軍」の明治初期の政府要人が居住したいわゆる山の手界隈のことば。政府を牛耳る薩摩・長州中心の藩閥は、その山の手界隈の言葉をベースに規範としての標準語を策定した。首都としての東京は貪欲に人を吸収した。圧倒的に全国から人が集まり、東京の多数派は「いなかもの」の彼等になる。
標準語がうまく話せない東北人は、後進地域のいなかものとして、方言の抑揚や訛りをせせら笑われた。
 子どもの頃、兵庫県内を転々とし、家内(東北・福島)と家外(関西・兵庫)の異なる言語感覚を身につけ、神戸に住んで計28年になる自らのことばといえば、結局、神戸弁には馴染まず、さりとて、広い意味での関西弁や共通語をしゃべっているのでもなく、あくまでも、みんなに理解してもらえるだろうという意味での《共通語》で、それ以上でも以下でもない。そんな乾いた言語感覚ゆえに、周囲に共感をよぶことばが話せないのでは、という感覚が時折胸をよぎっていく。
 ほんとうは潤いがほしいのに、それを「さだめ」といわずして、なんと言おう。

〈表玄関に戻る〉